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『大丈夫? 寒くない?』
頭の中で忙しなく考え続けているわたしを宥めるかのように、然り気無く届く柔らかい声。
『あ、はい。ブランケットが有り難いです。』
『それはよかった。茉帆ちゃんが乗ってくれるかもしれないと思って、慌てて用意してきたの。』
そう言って彼は、横顔でニッと笑った。ちょっと少年みたいだと思った。
『あ、なんかすみません…。』
『何言ってんの、乗ってくれてありがとうね。使ってもらえてほんとによかった。』
今度は少し落ち着いた笑顔を見せながら、彼はそう言ってくれた。
車中の空気は意外なほど軽快に保たれていた。当たり障りのないBGMに、嫌みのない穏やかな会話。初めての二人きりだというのに気まずくない沈黙や、適度な間合い。
途中から、割と本当に楽しかったのは事実だ。居心地が良かった、というか。断るためのデートのわりに重苦しくならなかったのは、健さんの人柄の成せる技だったと思う。
どこへ行くのかは言われなかったし、聞かなかったけれど、何となく察しはついていたし、やっぱりその通りだった。
5月とはいえ、まだ夜はいくらか肌寒い。標高が高いとなると尚更だった。さすがにそこへ行くことまでは想定していなかったので、わたしの服装は些か無防備過ぎた。が、態度に出すわけにもいかなかった。わたしが寒がれば、迷わず上着を差し出す人だろうと思った。そういう厚意は、なるべく受けないと近頃は決めている。
ここへ来るのは何度目だろうと思いながら見慣れた夜景を眺め、背後を取られていることに気づかないフリをし、後ろから抱き締められたら少し驚いてみせ、でも振り返らなかった。振り返ったらたいていどうなるかなんて、わからなかったと言う方が白々しいから。
してしまえば、何かが劇的に変わってしまう。そんな予感があった。健さんとの関係も、あの人との関係も。あるいは、もう楽な方へは流れたくないという、わたしの決意も。
『好きだよ。こんな夜景も霞むくらい。とりあえず、時々でいいからデートして? 俺にもチャンスが欲しい。』
わざとらしく耳元で囁かれて、少しも揺らがないわたしではないのだ。一つ振り返れば、心地の良いぬるま湯が待っている。なかなか甘美な誘惑だった。
愛されたい、求められたい――わたしの根底にある浅ましい欲望。誰かさんのおかげで、愛されるということから隔絶されて久しい昨今、余計にグラっとくるものがあった。
『ごめんなさい。変に期待をさせてしまうようなことはしたくないんです。』
『優しいんだね。……だから余計好きになるのに。』
拒絶するのは苦手だ。わたしが傷付けたという現実が、また重くのし掛かってくる。だから、承知してくれたのか否かいまいちわからない健さんのしぶとさが、ここまでくると有り難かった。
にっこり笑って優しく手を取り、柔らかい笑顔のまま自宅まで送り届けてくれた。以降そのことには一言も触れない気遣いも、彼らしかった。
……だから余計苦しくなるのに。
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