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そうこうしてすっかり遅くなった。身体が重い。だけどわたしはやっぱり、いそいそと帰り支度をしている。いつもと違うのは、鍵を渡されない代わりに、玄関まで見送られるということくらいだ。
「お邪魔しました。」
「こちらこそ、ごちそうさまでした。」
そう言って微笑む彼は妖艶で、冷えきって、空っぽに見えた。
「じゃあ。」
また、と言うのは憚られて、切れ味の悪い挨拶になった。そのせいだろうか、突然彼が気を変えて上着を手にした。
「やっぱ送るよ、駅まで。」
「え、いいですよ、そんな。」
「いいから。たまには、ね。」
このときばかりは、わたしにも彼の言わんとすることがわかった。
これはたぶん、「またね」の、代わり。
「じゃあ、今度こそ、ここで。」
「うん、気を付けて。」
「あの……ありがとうございました。送っていただいて。」
「いえいえ。」
そう言っていつもの笑顔を作ってから、少しだけ真面目な視線に切り替えて、彼は付け加えた。
「また、ね。」
この先、どうすべきか。今日のあからさまな失敗を教訓に、また考えなくてはならない。でも、さしあたっては、不自然にならない程度に。
「はい、また。」
見送られて入る改札の後ろ髪の引き方は、共有鍵のちっぽけな重さとは、比べ物にならなかった。
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