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温かさと冷たさの狭間でまどろんでいると、微かな音に呼び戻された。薄暗い部屋に一つ強烈な光が浮かんで、[成瀬陵介]の名前を表示する。
やっぱり、ね。
安堵か歓喜か嫌悪か拒絶か、自分でもわからない溜め息を一つ吐いて、通話ボタンを押した。溜め息を吐く度に幸せが逃げるのだとしたら、わたしにはもういくらも残っていないだろう。
無言のまま耳に当てると、電話の主もすぐには何も言わなかった。彼の背後には、繁華街のざわめきが聞こえる。聞かされているのかもしれない。状況を察しろ、というところか。
「待ってたでしょ。」
「そうですね。かかってくると思いました。」
「悪いオンナだねー。」
笑いを含んだ軽い口調に非難されて、あなたには言われたくないと心の底から思う。
思うのに、どこかくすぐったくも感じてしまうから溺れる。じんわりと冷える。
これが、わたしの待ち望んでいた声。
「聞いたよ。」
「やっぱり筒抜けですね。」
「何でも報告だから。」
「"親友"ですもんね。」
「まぁね。あんな落ち込んでるのは久しぶりに見たけど。」
「その帰りにこんな電話されてるの知ったら、もっと落ち込んじゃいますね。」
「ま、バレるってことはないけどね。」
健さんの知らないところでこんな相手とこんな話をしていることは、やはりどこか後ろめたく感じている。でも、電話に出ないという選択などできるはずがない。健さんの告白を受けてむしろ、これでまた一つ陵介さんと話すきっかけができたと、今夜の入電を確信して浮わついた自分が確かにそこにいたというのに。
悪い女だと非難されて、快感すら覚えているなんて絶対に言えない。言えないけれど、きっとバレてる。それがまたわたしに快楽を与えて……セルフ羞恥プレイだ。しかしどんなに可笑しく滑稽であろうと、この声を熱源にわたしの身体が隅々まで火照り、疼き、潤っていくのは、否定しようのない事実なのであった。――ただ一つ、胸の奥底を除いては。
とにかく、彼を相手にしたわたしに勝ち目などない。勝つ気すら恐らくのところなかった。常に両手を上げて降伏している。戦意すらない唇から、じんわりした気持ちを乗せて彼に届けるくらいしか、できなかった。
「……悪いオトコですね。」
言えた義理でないことは、承知している。これは、むしろ、戯れ。一緒に秘密を持っている。こんなに耽美なことは他にない。やはりわたしは、いつだってこの人の共犯でありたいのだ。
乾いた笑いを溢しながら彼は、「うまいこと言うねー」と応えた。
くすぐったさに胸が捩れる。冷たくて痛い、刺すような心地好さをなんと表すのだろう。罪悪感とか、背徳感とか、安っぽい言葉で片付けたくはないのだけれど。
ただ、彼と同じものを見ていたかった。彼の心の一部が氷でできているなら、それが溶けてなくならないよう、わたしが冷やしてあげたかった。
大丈夫、わたしは溶かそうとしたりなんかしない。だから怯えないで、そんなに威嚇しないで――。
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