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 まだうんと子供で、親が言ってくることには全面的にさからえなかったころ。  小学校の夏休みを迎えるたび、わたしは遠方の母の実家を訪れていた。県庁所在地でもなく開発が遅れている地域のそこは、とにかく緑が深かった。  鉄筋建築が建ちならぶ都会の夏は日差しの強さが暴力的だが、山と川に包まれた田舎のそれは静けさと寂しさが横たわっている。母と朝から新幹線に乗り込んで、おりてからはさらにタクシーに乗って、わたしは祖父母の家まで行っていた。移動だけで三時間かかるので、到着はいつも午後になった。瓦屋根の日本家屋は古めかしく威圧感があった。 「実希ちゃん、実希ちゃんいらっしゃい! 僕ずっと待ってたよ!」  玄関の引き戸を開けると、ばたばたと飴色の廊下を駆けてくる慧の熱烈な歓迎をいつも受けた。きょうだいがいない慧はわたしによくなついてくれて、彼と同じでひとりっ子のわたしも弟というかペットができたみたいとひそかに嬉しく思っていた。激しくシッポを振りながら人間の足にじゃれついてくる、幼い犬のようだったのだ。 「こんにちは慧くん、今年もお邪魔させてもらうわね。さて、父さんたちに挨拶してこなくちゃ。兄さんとお義姉さんへのお線香も」  慧に笑いかけてから母は靴を脱ぎ、奥の暗がりへと進んでいった。その方向には仏間があった。仏壇には古い先祖のほかに、伯父夫婦の位牌(いはい)も置かれている。慧が産まれてまもなく、伯父たちは亡くなっていた。当時のわたしは理由を詳しく知らなかった。ただふたりは事故で死んで、慧は祖父母が育てている、とだけ聞かされていた。 「実希ちゃん、僕の部屋に行こうよ。あれ見せてあげる。また増えたんだよ」 「ほんと? うん見せて、楽しみにしてたの」  促されてわたしも靴を脱ぎ、上がり(がまち)に足を乗せる。それから廊下の角にある階段をのぼり二階の小部屋へと向かった。あれ、というのは蝶の標本だった。家の裏山で捕まえて、とりわけ気に入ったものだけを残しているのだ、と慧は言っていた。 「すごいね、学校の理科室にあるやつより立派だよ。どの蝶も綺麗だし」  毎年コレクションを披露されるたび、わたしは歓声をあげていた。部屋の壁に飾られている鍵つきの平たいケースの中では、慧に選ばれた蝶たちが色鮮やかな羽をひろげていた。昆虫針は垂直に打たれているし、防腐剤もすべてのケースに入れられている。慧の真摯な製作姿勢が伝わってくる仕上がりだった。  これを作ったのが大人なら単純に美しさを堪能して終わるのだが、慧が標本作りを始めたのは小学校にあがってすぐなのである。いくつか試作を重ねてから、彼はわたしに見せてくれるようになったのだ。 「もしかしたら売り物にできるんじゃない? お店だってひらけそう」 「しないよ、僕が蝶をさわるのもおじいちゃんたちいやがるから。でも、実希ちゃんに標本を褒めてもらえるのは嬉しいな」  わたしに向ける無邪気な姿とは正反対で、祖父母と接しているときの慧はひどくおとなしい少年だった。父親と同じに育ててはならない、そんな祖父の言葉を滞在中に何度か耳にした機会がある。『あんなもの』に夢中になっていたら、あの子もおかしくなってしまうのではないか、と。  あんなもの、って蝶の標本かしら。伯父さんも慧みたいに好きだったの……?  いつだったか怪訝に思ったものの、わたしは祖父母に尋ねられず、代わりに母へとその問いをぶつけた。けれど母には無言でかぶりを振られた。子供心にまずいと感じ、わたしは質問を繰り返さなかった。伯父というか、伯父夫婦について触れるのは厳禁なのだ、とやがて自然と理解するに至った。でも。 「わたしは慧が作る標本いいなって思う。大人たちからなに言われたって、気にすることないよ。伯父さんの話だって慧には関係ないと思うし」  事情がなんであれ、こんな夢中になっているものを取りあげたら可哀相だわ。  祖父たちが取った奇妙な態度は、わたしの慧への同情心を煽った。伯父が――慧の父親がなんだというのだ、しょせんいまはいない人間だというのに。生きている人間が死んでいる人間になぜ振り回されなくてはいけないのか。傲慢ながらもそう考えたので、単純にお気に入りの従弟の側にわたしはついた。 「安心して、わたしは慧の味方だから」 「えっ」  言って、慧の手を取るとわたしはぎゅっと力強く握った。学校の女の子たちからそんな行為をされた経験がないのか、驚きの声を洩らしたあとで慧はひたすら両目をしばたたかせた。健康的に日焼けしている頬が、羞恥で薄赤く染まったのが分かった。 「ありがとう実希ちゃん、でも手は放して。顔が近くて恥ずかしい」 「やだごめん、迫られるならもっと可愛い女の子がいいよね」 「ううん、実希ちゃんは綺麗だよ。色は白いし、髪だってサラサラだし」  慌てて手を放したわたしは、慧からフォローを受けてしまった。年下に気を遣わせるなんて、と決まり悪さを覚えはしたが、すべてがお世辞というわけでもなかったらしい。次いで小首をかしげた慧は、わたしへと視線を送ってきた。黒目がちの彼の両目がこの土地の夏と似た雰囲気になる。静けさと寂しさが横たわる、深い緑の中の夏。 「……実希ちゃんの」  みいん、と外でセミが鳴き始めた。けれど薄絹に遮断されたように、音量は控えめに感じられた。どんな騒音も放たれた端から、ここでは吸い取られていくのかもしれない。 「実希ちゃんの肌は、すごく白いね」  みいんみいん、しょわしょわしょわ――。  セミの声はくぐもっていき、窓からの日差しもぼやけていく。ゆるやかに外界から切り離される錯覚に、わたしはなぜか襲われていた。住んでいる都会とも、母の実家がある田舎とも、見知った人間たちとも遠く隔てられた空間でわたしと慧はふたりきりになった。ほかにあるのは彼に(とら)われ(あや)められた蝶たちだけだ。  ひとこと唐突な感想を洩らしたきり、慧は口をつぐんでいた。 「慧?」  一分か二分、もしかしたらもっと長い時間。ひたすら続く沈黙に耐えかねて、わたしは従弟に呼びかけた。睫毛を上下させた慧が今度は視線を遠くに向ける。部屋の壁に飾られたガラスケース、そこでひろげられた対羽を見ながらふたたび彼はぽつりと言った。小学生の発言とは思えないほど、その呟きには痛切さと寂寥感(せきりょうかん)の響きがあった。 「この標本みたいに針で刺したら、きっと痕になっちゃうんだろうな」
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