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 遺体損壊(いたいそんかい)の疑いはあったもの、被疑者死亡のその件は書類送検で片づけられた。  といった顛末までを含めた騒動の詳細を、わたしに教えたのは父だった。あの遠方の家と直接には関係のない人間だ。 「あそこはどうも気味が悪くてな、よく毎年おまえらは行けるもんだよ。血のつながりがあると免疫ができるのかねえ。まあなんにせよ俺は近寄りたくない」  なにかにつけこの手の言い方をして、父は母の実家に対する軽蔑を隠そうとしなかった。だからこそ夏の訪問に彼がついてこなくても、当初わたしは不思議に思わなかった。でも中学校にあがるころには、隠されていたべつの理由を推測できるようになっていた。凡庸かつ俗っぽい理由だ。妻以外の女がいたのだ。  父の仕事は小説家で、じっさいの収入のほうは置いておくとして表向きは華やかな雰囲気があった。だからなのだろう、父の周りにはつねに女の影があり母とのいさかの種にもなっていた。日中だけでなく夜中でも彼らはしきりと口論していて、部屋まで響いてきた声のせいで娘のわたしが起こされるとばっちりは日常茶飯事だった。  それでもふたりが別れずにいたのは、母が裏切られながらも夫を愛していたのと、父が妻の実家の経済援助のおかげで豊かに暮らしていたからだ。  祖父母の家は、もとをたどれば戦後の農地改革による没落をまぬがれた山林地主だ。子孫の彼らは例の裏山以外にも広大な土地をいくつも所有していた。そんな資産家の娘だった母が、父という底辺の男と結ばれた事実には奇妙なきらいがなくもない。だがとにかく、金づるを得た父は必死に働かずとも生活できるようになり性根を腐らせていった。  浮気にも義実家を蔑むことにも、父は罪悪感を覚えていない様子だった。だからわたしを連れて母が帰省するたび、これ幸いと女を連れ込んでいた。締め切りの近い原稿があるから、と見え透いた嘘をついて残ったあげくに。露見しないはずがないというのに。 「あの家って、いかにも『出そう』だろ。俺も結婚前に我慢して泊まったけどさ」  通うのは小学校から中学校になり、親が言ってくることに多少なりとも反抗を示せるようになったころ。  父の女癖に感づいて冷めた目を向け始めたわたしに対して、さすがに取りつくろわねばと焦ったのか彼は以前よりも話しかけてくるようになった。ただ父の真の目的が、娘とのコミュニケーションなどでなく手駒の確保なのは明白だった。金づるの妻に離婚を切り出された際、なにかと立ち働いてもらおうと考えていたのだろう。しかも。 「べつに古いけど普通の家だよ。パパは先入観があるからそう見えるんでしょ」  それまで親密でもなかったわたしたち父娘(おやこ)に、共通で愉快な話題などない。必然的に彼が振ってくる話は義実家の悪口ばかりになった。だから、なるべくわたしは無愛想に応じていた。そこに住んでいる慧まで馬鹿にされた気がして腹が立ったのだ。  でもある日、父の難癖はこう続いた。 「まあその、たしかに本物の幽霊には会ってない。でも義理の兄貴がすげえ陰気で幽霊っぽくはあったんだぜ。ほら、慧の死んだ父親。最期もおかしなやつだったし」 「最期? 伯母さんと一緒に亡くなったんでしょ。交通事故とかじゃなかったの」 「あーおまえ知らないんだっけ、んじゃ教える。言ったのママには秘密な」  そして、猟奇的な伯父夫婦の死をわたしは知らされたのだった。父は創作を生業としているとは思えないほど、陳腐な怪談のように詳細を語っていた。もちろんわたしはそれなりに驚き少し怯えもしたのだが、目の前の父とは感情の温度が違っているのが明らかだった。心中めいた伯父たちの逝き方は、たいそう美しくわたしには感じられたのだ。  ああそうか、伯父さんは奥さんを展翅してあげたのね……。  展翅、蝶を標本とするにあたって羽に留め針を打ち固定する作業。  数本の包丁が突き立てられていた、という伯母の遺体損壊の状況をそんなふうにわたしは解釈した。父をはじめとする世間の人間たちとは、胸中の方向性が真逆だったと思われる。恐ろしいはずの伯父の行為にわたしは好ましさを覚えたのだ。よほど奥さんを愛していたんだな、と感心したほどだったのである。  だって伯父さんは蝶の標本が好きだったみたいだし、奥さんをいちばん綺麗な姿にして送ってあげたかったんじゃないかしら。  ただ、込みあげてくる肯定をわたしは口にしなかった。なにせ『おかしい』と伯父の最期を全否定する輩と対峙していたのだ。父と喧嘩するのは簡単なのだが、感性には干渉されたくない。手垢まみれの他人の意見を押しつけられるのはごめんだった。  山中に横たわる伯母の遺体、その青白い肌にあてがわれた刃物の切っ先……。伝え聞いた光景をわたしは脳裏で再現しようとした。すると娘の沈黙を恐怖による絶句と受け取ったらしく、父が俗物めいた言葉をまたも重ねた。送った側でなく送られた側への、ありきたりな否定が始まる。陰気で幽霊じみていたという男の妻に対する難癖だ。 「あれの嫁も苦手でさ、おまえも写真で見たことあるだろ。いつ会っても病人みたいに白くて、包帯だらけで。ミイラかっつーの」 「たんに怪我の多いひとだったんでしょ。手当てするのは仕方ないじゃない」 「いや、あの女の場合は違うんだ。ちょっと普通じゃなかった」 「普通じゃない……?」  日差しの恵みを拒む透明感、つねに傷を負っていたという不可解な女性。わたしが伯母について把握しているのはそこまでで、人柄になると認識が及ばない。だからきょとんとしていると、なにやら得意げになった父から昔話を繰り返された。ほとんど伯母の体の一部と化していた包帯の謎が明かされる。 「下の肌がすげーんだよ、ブツブツって細かい刺し痕だらけで紫色。どうも包帯で旦那の折檻(せっかん)の痕を隠してたらしくて……てかぎゃくかな、折檻は嫁自身がさせてたっていうか。俺むかし一度だけ見ちゃったんだよ。やつらの夫婦の営み」  おおげさに身震いしてから父は続けた。 「結婚の挨拶しに行って泊まった日にさあ、俺夜中に目が覚めて。ついでに用も足しとくかって手洗いに向かったわけよ。そしたら通りかかった部屋のふすまが少しだけ開いてて。明かりが洩れててふたりの声も聞こえてくるから、まだ起きてんのかなって覗いてみたら真っ最中で。うっわー、やばいもの見たって感じ。軽くホラーよ」  もっと刺して、もっと痛めつけて、わたしの肌を。  ああいい、あなたにこうされるのがたまらない、その針でもっとひどく貫いて。  しどけなく寝衣をはだけた伯母は、自分の体に針を刺すよう伯父に懇願していたという。使われていたのは標本用の展翅針、色鮮やかな羽をひろげた蝶を磔刑にするための妖しい凶器だ。夫の針を肌に受けた伯母は、苦痛でなく歓喜の声をあげる。傷ついた肌には血がにじみ、無垢で青白かった彼女の存在を淫らに赤く染めていく――。 「へえ、そうなんだ……ふうん。たしかに夜に見たらホラーかもね、怖い怖い」  なんて、綺麗。  無難で場にふさわしい相槌をわたしは打つ。自分こそが世間の常識だ、と言いたげに驕った態度でいる父を前に。けれど伯父夫婦の営みを脳裏でひとり再現しながら、わたしは不謹慎にも陶酔し下腹部に熱を覚えていた。
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