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 両親の死に際を慧は知っていた。きちんと祖父母から聞かされていたという。 「なにも知らないで父親みたいになるよりは、って小学校に入ってすぐ教えられた。どうせ必死に隠したところで、いつか周りの大人たちに吹き込まれるだろうし、って」  そう打ち明けられたのは、わたしにとって中学校最後の夏だった。この年は滞在予定が長くされ、夏休みのほとんどを祖父母の家で過ごすことになっていた。父の浮気に疲れを見せた母が離婚をちらつかせ始めたからだ。実家にわたしを預けた彼女は、『とても子供には聞かせられない』口論を夫としているらしかった。  わたしは慧と川で遊んだり、縁側でおやつの西瓜を食べたり、居間で慧と学校の宿題を片づけたりして過ごした。祖父母は地元の名士だけあってなにかと多忙な様子だった。家事をしてくれるお手伝いさんも昼には帰ってしまうので、わたしたちは頻繁に留守番を頼まれていた。古くて大きな日本家屋は子供たちのお城のようになった。  大人がいないと込み入った会話もしやすくなる。二階の小部屋で少しずつ、慧は自分自身について語り始めた。手製の蝶の標本をいくつも飾っているあの部屋で。 「はじめはお父さんもお母さんも『普通』だった、っておじいちゃんたちが話してた。ただお母さんのほうはドジっていうか、いかにも危なそうな場所にふらふら入って傷をこしらえてくるみたいな性格ではあったみたい。でもそれってすごく遠回りの自傷癖じゃないかな、って聞きながら僕はぼんやり考えてた」  無防備を隠れ蓑にした、自分を傷つける行為。そんな伯母の悪癖はどういった経緯で妖しい折檻に発展したのか。知るすべがないのだから想像するしかなかったが、とはいえ彼らの血を受けた慧は他人より同調が容易であるらしかった。 「僕ね、標本を作ってるとお父さんもこうだったのかなって思うときがあって」  呟いてから、机に置かれていたものを慧はそっと手に取った。三十センチほどある細長い台だ。木製で上部には半透明のグラシン紙を乗せている。台と紙の隙間にはひらかれた羽がはさまっていて、有頭針で固定されていた。展翅中の蝶の標本だった。  展翅針を撫でて慧が続ける。屋外での昆虫採集の弊害か彼の手はよく日焼けしていたが、その動きは意外なほどに繊細だった。 「蝶の動きを封じるためにエーテルを注射していると、胸の奥が苦しくなるんだ。ああ、この子はじきに死ぬんだな、もし僕に捕まってなかったらあと少し生き長らえたかもしれないのに、って。だから後ろめたさに負けないように、台に置いたら囁きかけるんだ。きみはとても幸せだ、あの山にいた蜘蛛や鳥よりも僕はきみを綺麗に殺せる……」  日焼けした指は相変わらず針を撫でている。わたしにというよりも作りかけの標本に話しかけるように、慧はひとり言葉を重ねていた。いっぽう壁に飾られているケースの中では、何対もの羽が自身の美しさを誇示していた。繊細な動きを見せる慧の指に、かつて命を奪われた蝶たちだ。 「それでね、やっぱり展翅作業がいちばん緊張する。目立つから羽の模様の部分は避けて針を刺すんだけど、ここにわざと刺したら永遠の痕になるんだろうな、って考えるとまた胸が苦しくなってくる。でも最初とは明らかに苦痛の種類が違うんだ。へんに甘くて」 「慧」  語り口調がいくぶん早くなってきた。わたしの呼びかけが聞こえているのかいないのか、慧は態度に示さないまま続ける。 「鼓動が危険信号みたいに速くなって、そのくせ体はふわふわした感じになるからものすごく気持ちがいいんだ。僕の目の前で小さな命がまさに消えていこうとしている、この生と死が背中合わせになった瞬間が壮絶なまでに美しくて……ときどき勝手に泣けてくるくらい圧倒されて――」  と。 「やだどうしたの、どこか痛いの」 「ううん、違う。そうじゃないんだ」  そこまで早口にまくしたててから、慧はふいに両目から涙を流した。過去の話に現在の心が同調してしまったのかもしれない。慌てて近づこうとしたわたしに対し、彼はかぶりを振ってみせた。日焼けした頬を滴がつたっていく。透明で純粋な滴だった。  改めて、今度はゆっくりとわたしへの問いを慧は紡いだ。 「いま話した僕の気持ちって、実希ちゃんはピンとくる?」 「わ、わたし? ええと……」 「いいんだ、分からなくても気にしないで。きっとそれが普通なんだよ。そしてうちのお父さんたちは、そこから脱落しておかしくなったんだ」 「!」  普通。一般人が持つとされる感覚、大多数が指示する正常性。そこにあるのは曖昧で薄っぺらい迎合(げいごう)ばかりだ。けれどそんな型でしかなくても、はまり損ねた人間たちに待っているのは破滅である。慧の言わんとするところを感じ取り、わたしは思わず息を呑んだ。 「実希ちゃん」  展翅の蝶を見つめたまま、慧は言葉を重ねた。何本もの留め針を打たれているそれを。磔刑にされた罪人のような姿。 「僕ね、実希ちゃんの肌が怖いんだ。あんまり白くて綺麗だからここに針で痕を残せたら、ってふっと思う瞬間があるんだよ。おかしいでしょう」 「そんなこと」  べつにおかしくなんかないわ、と言おうとしながらわたしはタイミングをはかりかねた。異端者としての歪んだ感覚を、風変わりな欲望を、悪しきものと信じているのはほかならぬ慧自身なのだ。呪いの自給自足をしている彼に、他人のわたしがなにをしてやれるだろう。そんなふうに考えているうちに、またも前方の唇からは呪いが紡ぎ出されていった。 「僕、お父さんみたいになっちゃうのかな。みんなに心配されてたみたいに」 「…………」  どうすればいいんだろう、なんて言えばうまく励ましてやれるんだろう。  分からない、まったく見当がつかない。考えれば考えるほど、慧とのあいだに距離を感じた。こんな近くにいるというのに、わたしは彼の心に触れられずにいた。留め針だらけの標本を慧はいつまでも見つめている。磔刑に酷似した姿の蝶に、彼が自分を重ねているのは痛いほどに伝わってきた。この注視をやめさせなければ不幸の連鎖は永遠に続くのだ。 「…………」  でもどうやって? とわたしは思った。そのあとに。  ねえだけど、とも慧に対して思った。喉元まで言葉が迫りあがってきた。  実希ちゃんの肌が怖いんだ、ここに針で痕を残せたら。そう告げられたとき、わたしは背筋をなにかが駆け抜ける感覚に襲われた。不快なようでいてどこか甘い、ひどく奇妙な感覚だ。それは慧が述べた心地よさにわたしも同調した証だった。だから口に出しこそしなかったものの、胸中で彼に問いかけてやった。  ねえだけど、慧。おかしいっていうのは、ほかのひとたちと違うっていうのは、そんなに罪なの……?  涙ぐむ子供に接するように、ありったけの哀れみと愛おしさを込めて、わたしは慧への問いを反芻した。周りの大人たちに危惧された通り、慧は危険な悦びに目覚めたのかもしれない。けれど、父親同様の恐ろしい事件を起こすかどうかまでは分からない。ならば突っ立って眺めているだけでなく、彼に働きかけねばならないのではないか。  話しかけよう。意を決したわたしは、ようやく長い沈黙をやぶった。 「あのね、慧。さっき打ち明けてもらった気持ちを、わたしはまるごと理解できないけど。それでもきちんと要求してくれたら、力になれることだってあると思うの。ねえ、わたしにどうしてほしい? 遠慮しないでジャンジャン言って」 「要求」  はっとした様子の慧が、おうむ返しに聞いてくる。流した涙は乾き始め、日焼けした肌にすじを残していた。そうだこれでいい、と自分の行動にわたしは確信を持った。まだ慧の心の深淵を覗いた経験がなかったからだ。祖父母と接する際のおとなしい姿も、わたしと接する際の無邪気な姿も、彼という人間の一面でしかなかったというのに。  だから考えの浅いひとことを、わたしは数秒後に激しく後悔した。 「ありがとう実希ちゃん、じゃあ」  撫でていた針の頭を、慧は親指とひとさし指でつまんだ。くち、とかすかな音がして、その一本が引き抜かれる。次いで蝶を固定していた台が机へと戻され、慧の言葉も紡がれた。口調には哀願の響きがあった。 「これを実希ちゃんに刺させてほしい。痛くしないようにするから」 「えっ……」  窓からの日差しを受けて輝く、銀色の展翅針の先端。  もちろん深く悩んでいる様子の慧を助けたいとは思ったし、力になれることがあればしてやりたいと思ったのも本当だ。けれどじっさいに要求を出されてみると、わたしは後込みしてしまった。針で刺される痛みを予感して、というよりほかの理由から怯えが生じていたのだ。だって、もしそれをされたら『あのひと』みたいに、と。 「ええと……そ、そうね。一回プチッと刺すだけなら注射みたいなものなんだしっ」  いけない、ここで引いたら慧を傷つけるかも。  慌ててわたしは取りつくろったが、相手には感づかれてしまったらしい。寂しげに両目を細めたあと、慧は針を持つ指を引っ込めた。でもその数秒後に彼は表情をやわらげて、こんなふうにあっさりと場の空気を戻してくれたのだった。 「冗談だよ、驚いた実希ちゃんを見たくて言っただけ。動揺すると、すぐ真っ赤になって可愛いよね。もとが白すぎるくらいだから」
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