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 盛大なやぶへびをしてしまった。  力になれることだってあると思う、と理解者づらをしておいて、いざ要求を提示されたら拒絶するなんてありえない。そう自己嫌悪に見舞われたので、わたしは慧を直視できなくなった。うつむくか横を向くかして、とにかく彼と視線を交わさないよう努めた。 「ひ、昼寝の枕が合わなくて首を痛めちゃったみたい」  夕方に帰宅した祖父母には怪訝そうな顔をされたが、わたしはもっともらしい嘘をつき自分の行動をごまかした。へたな言い訳をするわたしと真逆で、慧は普段と変わらなかった。毒気が皆無の少年の顔で、祖父の話相手をしたり、祖母が夕飯を用意するのを手伝ったりしていた。  ひとつだけとはいえ年下なのに、順応力っていうか切り替えぶりがすごいわ……。  昼の件など忘れたかのような態度に、わたしは単純に感心を覚えた。けれど時間が経つにつれて、『本当に忘れているのではないか』と不安をぬぐえなくなってきた。それほどまでに慧の擬態は完璧な仕上がりだったのだ。あんな仄暗い欲望が笑顔の裏に隠されているのを、第三者だと容易には信じられないかもしれない。  これを実希ちゃんに刺させてほしい。痛くしないようにするから。  蝶から抜いた針を手に、慧が口にした哀願が思い出される。乾き始めていた涙と針のさきの輝きからは、同じ意志が伝わってきた。つまりあれは救いを求める行為だ。孤独な異端者がただひとりの味方にすがりついた結果である。なのにわたしは戸惑って、一瞬とはいえ慧を拒絶し傷つけてしまったのだ。  でも。  極限まで異端の感覚に近づいたとき、はたして慧は帰ってこられるだろうか。  針を刺したい、と請われたときわたしはすぐに応じられなかった。痛そうで怖かったからでなく、『あのひと』のようになるのでは、と本能的な恐怖を感じたからだ。被虐の悦びに目覚めた末、奇妙な夫婦生活に溺れた伯母のように。  うっわー、やばいもの見たって感じ。軽くホラーよ。  かつて父が吐き捨てていた揶揄が、耳の奥でよみがえる。普通の感覚を持つ人間にとって、伯父と伯母がしていた行為はおぞましい種類のものなのだ。ならばそこへと傾倒していく慧を、黙って見ているだけというのも薄情のきわみではなかろうか。 「うーん、ちょっとこれは……思考が煮詰まってきてる感じ」  夕飯も入浴も済ませて、敷かれた布団に身を横たえた夜の十時すぎ。  あてがわれている部屋で目を開けたわたしは、ゴロンゴロン、ともう何度目になるか分からない寝返りを打った。慧に対しての憶測がひたすら同じ場所を回っている。おかげでいつまでも眠れないので、わたしはひとり悶絶する羽目におちいっていた。  一緒に堕ちる相手を得るのが、慧の本当の望みだろうか。  だったらわたしは応じるべきだろうか。明るくいい子の彼だけでなく、暗い欲望にさいなまれ孤独感から涙を流す彼も、受け入れてやるべきなのだろうか。でも。 「うーん、うーん……あっ、ギブ。駄目っぽい、クールダウンしてから寝直そう」  ああもう、普段使ってない頭だからお手上げだわ。  暗闇のなか考え続けていたが、やはり出口は見えてこない。がばっと夏掛けを跳ねあげると、わたしは勢いよく起きあがった。台所で水を飲んでくるか、玄関先で深呼吸してこよう。意味もなく握りこぶしつきでうなずいてから、わたしは部屋を出て廊下を進んだ。  そして階段をおりるために、慧の部屋の前を行こうとして……。  あれ、もしかしてまだ起きてる?  夜中なので足音を忍ばせるため、わたしはスリッパを履いていなかった。階段から部屋のほうへと進路変更したつまさきを、摺り足ぎみに繰り出していく。ほのかではあるが、ふすまの隙間から明かりが洩れていたからだ、布団脇のライトをつけて本でも読んでいるのだろうか、と何気なくわたしは確かめようとした。  けれど覗き見た光景に、わたしは衝撃の叫びをあげてしまった。 「ちょっ……ちょっとバカっ! それはやめなさい、NGよっ!」  スパン、と慌ててふすまを開けると、わたしは慧の部屋へと踏み込んだ。  わたしの予想を裏切らず、灯されているのはスタンドライトのみだった。その明かりのもとで慧は、布団に入らず膝をそろえて座っていた。  そこまでは問題なかったが、取っている行動には問題があった。寝衣の両袖をまくりあげた慧は、片手にカミソリを持っていたのだ。古風な直刀型の西洋カミソリだった。鈍く輝く大振りな刃を、彼はもう一方の手の下に押し当てようとしている。どこをどう見ても、自殺のために手首を切ろうとしている人間の姿だ。 「えっ、うわっ、実希ちゃん? どうしたの声が大きいっ」 「どうもこうもないわ、自殺なんて止めるに決まってるでしょっ! だいたいあんた、そんなピチピチのうちに死んじゃったら後悔しないはずがないんだからっ!」 「は? 自殺って……あれ、でも僕……?」  慧から凶器を取りあげるべく、わたしは大騒ぎしながら詰め寄った。けれど対する彼はというと、状況が呑み込めていない様子でしどろもどろに話すばかりだ。数秒後に手元へと視線を落とし、慧は向けられている詰問の意味をようやく理解したらしい。小さな悲鳴があがったのと同時に、カミソリも宙へと放られて不穏な事態は回避された。 「ええっ、なにこれっ! びっくりした、危ないっ!」 「いや、それぜんぶこっちの台詞だから。ほんと心臓に悪いから勘弁して」 「僕が自分で切ろうとしたの……? よりにもよってカミソリで……」  困惑がにじむ調子で慧は独りごちていた。衝動的にというよりも無意識のうちに動いていたのだろう、とわたしは彼の行動の経緯を察した。正気に戻ったとおぼしき慧は、布団の上で居住まいを正した。畳に転がったカミソリも拾い、付属の鞘へと刃をしまう。そして安全になった凶器を膝に乗せると、彼は立ち尽くしているわたしを見あげた。 「止めてくれてありがとう。ごめんね、頭がぼうっとして理由は思い出せないんだけど」 「うっ……だからあのね、こんな非常時まで他人を気遣わなくていいんだってば」  そうやって自分本位になれないから、世を(はかな)んで死にたくなっちゃうのよ。  命を危険にさらした経緯が分からないという慧だったが、制止への感謝は示してくれた。ただ、そうした彼の過剰な遠慮が、わたしには痛ましく思えて仕方なかった。  この自殺未遂の根底に昼の一件があるのは明らかなのに、恨み言のひとつも言いやしない。もっと我儘になるべきだ、とわたしは説教してやりたかったが言葉をぐっと呑み込んだ。代わりに小声で話をするため、慧の正面に腰をおろした。だいぶ彼の様子は落ちついて見えたものの、また無意識の暴走に出る可能性だってある。  こうやってゾロッと蝶に見おろされてたら、すぐ心が『あっち側』に飛びそうだし。  膝をつきあわせはしたが一分ほど会話はなく、わたしは手持ちぶさたに視線をあげてみた。そして、あの壁にかけられたいくつもの標本箱を認めた。床に置かれたライトに照らされているせいか、蝶はガラスの奥に囚われながら生きているかのように見えた。いまにも箱を抜け出して、色鮮やかな羽を上下させつつ幻想的に舞いおりてきそうに思える。  と。 「このカミソリね、お父さんとお母さんが死に際に使ったものなんだ」 「!」  あっ……。  ふいに聞こえてきた声で、わたしは我に返って慧を見た。膝へと乗せた鞘つきの刃物を、彼はよく日焼けした指で撫でていた。いまの説明が真実ならば、目の前にあるカミソリは大昔に伯父夫婦の命を奪ったものということになる。露骨に引くのは避けたかったが、わたしはやはり聞き返す声をふるわせてしまった。 「そんないわくつきの代物よく残してたわね。怖くない?」 「おじいちゃんたちは怖がってたみたい。でも捨てるのも抵抗があったのか、納戸に隠してあったんだって。それを叔母さんがみつけたらしくて、僕にこっそり渡してくれたの。『これはあなたの両親の形見だから、ひとからなにを言われたとしても大事に取っておきなさい』って」 「は、うちのママが? へええ……」  まあ周りの大人たちの中では、ママがいちばん慧に好意的だったけど。  意外な人物への言及に驚いたわたしをよそに、慧はよく日に焼けている指でカミソリをなおも撫でていた。標本の蝶に触れるときと同じ優しい動きで。  わたしにとって初耳の話は続いた。 「あとね、これも叔母さんが『おじいちゃんたちには秘密ね』って口止めしてから教えてくれたんだけど。お父さん、朝になるとしょっちゅう声を殺して泣いてたって。そしてお父さんが泣いてる日は、お母さんの体に巻いてある包帯もかならず増えてたんだって」 「…………」 「だからたぶん、夜のあいだに『あれ』があったんだろうな、って叔母さんは気づいてたんだって。お父さんは他人の肌を傷つけると興奮するひとで、お母さんは他人から肌を傷つけられると興奮するひとで……。需用と供給がつりあってるなら完璧な夫婦になりそうなのに、現実は単純な計算みたいにはうまくいかなかったみたい」 「…………」 「それでね、お父さんたちが死んだ年の夏も、叔母さんは里帰りしてたんだけど。事件の何日か前にお父さん、いきなりこう言い出したらしいんだ。『蝶を山に帰したい』って」 「……えっ」  初耳中の初耳だ。黙って聞いていられなくなり、わたしは遠慮しつつも口をはさんだ。 「蝶って、標本のこと?」 「そう。せっかく作ったのにもったいない、ってみんなは反対したそうだけど。聞く耳持たない様子でお父さんは家の標本をかき集めて、裏の山に運んでいって土に埋めて処分した。そのあとなにを思ったのかお母さんは手首を切って、お父さんもあとを追った、っていうのが僕が叔母さん経由で仕入れた例の騒動の補足」  十年以上も前の騒ぎ、たくさんの謎を残して死んだ伯父夫婦。両親の死を輪郭だけ把握している事実を述べた上で、慧は理由が不明瞭だった自分の行為についても語り始めた。 「さっき『頭がぼうっとして理由は思い出せない』って、実希ちゃんに言ったけど。でもそこに至る前にカミソリを持ち出して、考えてた内容のほうは覚えてるんだ」 「う、うん」  凶器を手首へと押し当てようとしていた慧、なぜその行為に及んだか本人は記憶がないという。おそらくは、彼の心の奥にある(うみ)を取り除かない限り、自傷は繰り返されてしまうのだろう。壁に飾られている蝶を意識しながらも、わたしは紡がれる言葉を聞き洩らすまいとした。  カミソリを撫でて、睫毛をふせぎみにして慧が言う。少年の目元に影が落ち、年に似合わない寂しさがただよう。 「脳裏をお父さんとお母さんのことがよぎってた。お互い以外には秘密主義で、なにも語らないまま逝ったふたりのことが。叔母さんも、おじいちゃんおばあちゃんも、本当のところは分かってない。でも僕には分かるかも、ってちょっとだけ思ったんだ」  傲慢な主張だろうけど、と言いたげに語尾はわずかに小さくなった。 「これはあくまで想像だけど、こんな感じだったんじゃないかな。お父さんはお母さんを傷つけるのがつらくなってたし、お母さんも泣くお父さんを見て罪悪感を覚え始めてた。そうした現状の打破と自戒のためにお父さんは蝶たちを手放して、でも予想外の展開にお母さんは悪い方向の解釈をした。ああ自分も一緒に捨てられたんだ、って」  自分も一緒に捨てられた。標本の蝶と一緒に捨てられた。  いまさら自由にされても逃げられないのに、対羽に針を打たれたときから逃げられないのに。夜ごと甘美な展翅を受けて、背徳の悦びを知ったこの身では。 「――――」  ああ、そうね。そうかもしれない。  伯父さんも伯母さんも、そう思ったのかもしれない。『仲間』と結ばれて幸せなのに、苦しくて仕方がなかったのかもしれない。行為を断って無機質に生きるより、死んだほうがマシだと思ったのかもしれない。そう、この異端の感覚を罪だと思っていたのなら。 「だから僕は」  息を呑むわたしに呼応するように、流れていた言葉がいったん途切れた。ふせぎみになっていた長い睫毛もふるえている。昼の空気と同じものをわたしは感じずにいられなかった。慧は、ひとり苦しげに胸のうちを吐露しているこの少年は、迫りくる閉塞感のせいでじきに泣いてしまうだろう。 「感覚を分かち合える相手を求めちゃいけない、って思ったんだ。きっと不幸にしてしまうから。こんな僕を誰かに受け入れてほしい、なんて願うこと自体が許されない、おそらくお父さんがお母さんにしたように、身も心も壊したあげく死なせてしまう。だったら僕はひとりでいたほうがいい。ひとりでいなくちゃいけないんだ……だって」 「慧」  指で鞘つきのカミソリを撫でるのをやめ、慧はぎゅっと手の中に包んだ。すると、こぼれ落ちた滴でこぶしが濡れた。わたしがあげた視線のさきで、予想をたがえず日焼けした頬に彼は涙のすじを作っていた。 「だって、大好きな実希ちゃんを僕の世界にひきずり込むわけにいかないから」 「引きずり込むって……へ? やだ、なんであんたはそう徹底的に後ろ向きなのよっ!」  これは駄目だ。  そう、わたしは思った。昼の過ちが繰り返され、慧が異端の苦悩を述べながら心の扉を閉ざそうとしている。そんなふうに孤独を決意した人間を、引き留めるのはお節介なのかもしれない。けれど、大人の理性を持ち合わせていないわたしは愚行を犯すことにした。閉ざされた部屋を、壁にならぶ蝶たちを、スタンドライトが照らしていた。  勢いよく身を乗り出すと、がしっと慧の膝上のこぶしをつかんだ。涙で濡れた両目を瞬かせ、彼は驚きも露わにわたしを見た。 「実希ちゃん……?」 「ちょっとだけなら切ってもいいわ。わたしの腕」 「!」  なに言ってるの、と訴えたそうに慧の唇が動いている。でも、不幸上手で出口のない主張をわたしはもう紡がせなかった。まだ幼ささえ残る従弟が今後もこうして死んだように生きるのはいやだと思った。『大好きな実希ちゃん』と慧が言ってきたのと同様で、わたしにとっても彼は『大好き』で『大切な』従弟だったのだ。  手を放さず目も見据えて、わたしは続けた。 「わたしは腕を切られたら、痛いってギャーギャー騒ぐかもしれない。慧もそんな反応を目にしたら、ムードがないって幻滅するかもしれない。だけど、わたしは伯母さんじゃない。違う人間なんだから仕方ないの」  わたしは伯母さんじゃない。受ける痛みに快楽を覚え、この世界に居場所をなくしたひとじゃない。いや、仮に快楽を覚えたとしても、それが涙をともなう末路をたどると決めつける必要はあるだろうか。なぜならわたしは、わたしたちは――。 「あんただってそうなのよ、慧。あんたは伯父さんじゃない。血がつながっていても違う人間なの。どれだけ蝶を標本にしようが、誰かの肌を傷つけようが、同じにはならないわ。わたしたちは、あのふたりみたいにはならない。なれないのよ」 「……っ」  慧の唇から息が洩れる。薄くひらいたその唇は、叫びを堪えるかのようにふるえていた。お願い、としつこく言葉を浴びせながら、わたしは誰にともなく思った。壁にならぶ蝶たちに、耳をそばだてられている気がした。わたしの説得を聞いた彼らが、もう動かないはずの対羽をかすかに動かしたような気さえしていた。  そうだ、羽の動きを止めてはいけない。最初からあきらめてはいけない。刺さった針は抜けないもの、と決めつけてしまってはいけない。未知数(みちすう)の明日を自分から手放してはいけないのだ。狭い標本箱から広い天空へと飛び立てる可能性だって、まだ残されているかもしれないのに。 「たとえ普通じゃなくても、周りの人間と感覚がかけ離れていても、あんたが伯父さんや伯母さんの人生をなぞる必要はないの。わたしたちは、わたしたちとして、胸を張って生きていいの。だから、わざわざ苦しい形に自分を展翅しちゃ駄目。そんな針なら、さっさと抜いちゃいなさい。慧の羽は自由なのよ」  さんざんまくしたてた――そこまでわたしが言い終えた、瞬間。 「自由」 「そ、そうよっ!」  慧の唇から、今度は言葉が洩れた。驚いて一瞬だけ返事を迷いはしたが、わたしは取りいそぎ肯定した。まるで、ごく薄い羽に刺された針を引き抜くかのような緊張を覚えた。 「僕はお父さんじゃない。実希ちゃんもお母さんじゃない」  真理に到達した、というか、散漫だった心の断片がようやく噛み合い始めた様子で、慧はぶつけられた言葉を繰り返した。そのあいだにも両目は揺らぎ、睫毛も濡れそぼっていく。以前を上回る勢いで、慧は涙を流していた。頬から顎、こぶしへと滴がいくつもしたたり落ちる。やがて、ゆるんだ指の隙間からカミソリはついにすべり出た。  その一瞬を見逃さず、わたしは前以上に身を乗り出すと不安定な慧を抱き寄せた。 「針なんかどこにも刺さってなかった、最初から」 「うん」 「僕はお父さんと違うんだ。僕は自由だったんだ、僕は……」 「うん」  力を込めた腕の中で、何度も何度も繰り返される。慧のいまの考えがすべて理解できたわけではなかったけれど、わたしは彼を抱きしめ続けた。少年の未発達な筋肉や骨ばった関節の感触に、憐憫(れんびん)の情をかきたてられる。この小さな存在をとにかく守りたい、という思いが込みあげてきて、わたしは一緒に泣きたくはあったものの宙を睨みつけていた。  するとふいに、照明が届いていない暗がりの中でなにかが動くのを見た気がした。  蝶……?  部屋の壁からおりてきて、羽ばたいている一羽の蝶。わたしが目にしたのはそれだった。疲れと感情の高ぶりが生み出した幻影だとすぐ分かった。けれど思いがけない美しさに惹かれ、わたしは視線を逸らさなかった。  そうするあいだにも、二羽、三羽と新たな蝶がおりてくる。ほのかに光る鱗粉(りんぷん)を、辺りにまき散らしながら飛び交っていく。やがて群れとなった彼らは、またも不意打ちをかけてきた。音もなく闇にまぎれていって完全に姿を消したのだ。演舞を終えた幻の蝶たちは現実へと戻っていき、わたしは蓋を閉ざされた標本箱でまどろんでいる彼らの姿を見た。  なんだかよく分からないけど、いまのはすごく綺麗だったな。  目を開けたまま見た夢について、わたしは詳細を確かめずにおくことにした。慧の背中に回していた腕をゆるめ、片手で涙をふいてやる。鬱屈(うっくつ)していたものをすべて吐露(とろ)して、慧は気がゆるんだらしかった、撫でてほしがるときの猫のように、頬をわたしのてのひらにすり寄せてくると言う。 「実希ちゃんの肌は白くて綺麗だけど、傷つけるよりこうしてるほうが僕は好きかも」 「うん、わたしもそうされてるほうが好き。すごく好き」  珍しい、と思いながらもわたしは手を放さずにいてやった。慧がここまで分かりやすい態度で甘えてきたのは初めてだ。というよりも、本来の彼がこちらのほうであって、遠慮して自分を抑えるのをたんにやめただけかもしれない。  祖父母の前で見せている、おとなしい少年の仮面は取り払われていた。わたしにだけ見せていた無邪気さを全開にし、慧はいっそう満たされた笑顔になると頬ずりを続けていた。傷つけるよりこうしてるほうが好きかも、というわたしの肌への言及通りに。彼は嗜虐の悦びに苦悩した伯父と違う道を行き始めたのだ。 「よしよし、()いやつじゃ。なんちゃって」  いい傾向だ……少なくとも以前よりは幸せの気配が感じられる。そう思いながらわたしは軽口をたたき、その時代劇めいた台詞があまりにくだらなくて、慧と同時にぶはっと吹きだした。いい傾向だ、と改めて思いながら、やはり慧と顔を見合わせてくすくすと笑う。ものすごくいい、だってわたしたちは違うのだから、と。  わたしたちはみんなと違う。でも、伯父さんや伯母さんとも違う。わたしたちは彼らと違うものを共有していく。それがなんであるかは分からない――けれど罪と隣り合わせの甘い痛みでないことだけはたしかだ。  そうだ、誰とも違っていていいのだ。わたしたちの羽を刺す針はもうないのだから。
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