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 夜が明けると日常が待っていた。夏休みを緑の深い土地で過ごす日々が。  わたしは相変わらず慧と、遊んだり宿題をしたりして過ごした。以前とまったく変わらないようで少し変わった従弟の姿に、ひそかに喜んだりもしていた。あの独特の、死者と生者の国の境でも見つめていそうな寂しげな目を、慧がする機会はほとんどなくなった。  そんなある日、東京の母から電話がかかってきた。 「さすがに疲れちゃってね。もう軌道修正できないだろうって心境に達したわ」  父との話し合いが暗礁(あんしょう)に乗りあげたのが、受話口(じゅわこう)の声から伝わってくる。離婚を決意したらしい母を責める気になどなれなかった。廊下に据えられた電話と向かい合い、わたしは壁に背をもたせかけて彼女との会話を続けた。 「うまくいってた時期もあったから、遣り過ごそうと思ってたの。でもやっぱり無理だな、ってあきらめがついてきて。とりあえず別れたらあたしは、このマンションを出て実家に戻るつもり。問題はあんたなんだけど。パパとママのどっちといたい?」 「あー、ママにしておく。パパだと新しい女を連れ込まれたとき、にこやかに応じる自信がないもん。なんなら来年受験するの、こっちの高校にしてもいいよ」  これは、母に対する口先だけのなぐさめではなく本心だった。父は自堕落な交流のほうを娘より優先させるだろうし、一緒に生活していくのはきつそうだ。ただ、こちらの即答ぶりに関してはさすがに意外だったとみえる。返ってきた母の感想には、呆れたような響きがこもっていた。 「ドライねえ。普通の子ってもっと悩むもんじゃないの」 「ご期待に添えなくてごめん。まあでも、そのほうがママはありがたいでしょ?」 「うっ、痛いとこ突くわね……ところで慧くんは元気にしてる? あんたよりあの子が心配だわ。兄さんに似て繊細なんだもの」  おっと、うまく交わされたか。そう思いながらもわたしは素直に答えた。 「うん」  言って、二階へと通じている階段のほうを見る。まだ慧がそこをおりて近づいてくる気配はない。窓からの日差しを受けた廊下は、静かに飴色の輝きを放つばかりだ。  納屋からみつけた形見の品をこっそりと渡したり、祖父母が隠していた伯父たちの死に際の詳細を教えたり……と、慧が母から受けた親切を話してくれたのを思い出す。だから、自分と同族の匂いをわたしは母から感じ取った。あくまで慧の理解者として同族という意味である。血のつながりは人格形成において絶対の要素ではない。 「すごく元気だよ……っていうか、長いあいだ元気なふりしてたけど、やっと本当のそれになったみたい。ママの協力もあってさ」 「あら、あたしなにかしたかしら」 「今度会えたら話すよ。これからも慧の味方でいてね? わたしもそうするから」  多くは語らない、同族であればなおさらだ。けれど事情を明かされずとも、母は察してくれたらしい。ふふっと笑い声を洩らしたあと、彼女は力強くこう言った。 「もちろん」  相手に見えないと分かっていながら、わたしも口元をゆるませる。そのあと定型文の挨拶を交わし、フックへと受話器を置いた。直後に待ち構えていたかのように、二階から扉の開閉音(かいへいおん)が聞こえてきた。階段をおりる足音も聞こえてきて、慧が廊下へと顔を覗かせる。 「実希ちゃん、準備できたよ」  明るい声をあげた慧は、長袖長ズボンといった格好をしていた。かくいうわたしも彼に言われていたので、同系の服に身を包んでいる。今日はふたりで山に行くのだ。蝶の採集を教わる予定なのである。ハチやダニといった危険な虫や、木の枝で怪我をしないために、夏場においても山では肌を露出しないのが望ましいという。  けっこう歩くはずだし暑いだろうなあ……と客観的に見ていたのだが、ふと。 「あれ慧、持っていくの網だけでいいの? 虫カゴは?」  荷物の少なさに気づき、わたしは聞いた。慧が手にしていたのは大小の捕虫網(ほちゅうあみ)だけだったのだ。いつもならこれに加えて、胴乱(どうらん)という採集専用のケースを腰に提げている。金属製の横長のバッグで革のベルトがついたものだ。やはり採集専用の三角紙で包んだ蝶を入れておくので、頑丈な作りになっているらしい。  指摘されるのを予想していたのか、慧は肩をすくめると返してきた。 「蝶を捕まえたら実希ちゃんに見せるけど、あとは放してやろうと思ってるんだ。しばらく新しい標本は作らなくていいかなって」 「へえ……」  肌だけじゃなく蝶に関しても、考え方が変わってきたんだ。  まるで憑き物が落ちたようにすっきりしている。あの自傷の夜と同じ感想を、わたしは正面にいる慧にいだいた。まあ、自分を枠にはめることなく飛び回れているならなによりだ。どんどん積極的にもなってきているし――そんなふうになにやら母親じみた思いを噛みしめ、幼少期から見知った従弟を眺めていると。 「じゃあ出よう。留守番はお手伝いさんに頼んであるから」 「えっ、その、べつに手はつながなくたって歩けるんじゃないっ?」  するっと自然な様子で、慧があいていたほうの手を伸ばしてきた。続けてわたしの手を握った彼は玄関へと足を向ける。ひどく無邪気なスキンシップに、わたしは動揺を露わにした。もちろん手のひとつやふたつ慧とは過去につないでいるのだが、瞬時に真夜中の記憶が脳裏をよぎり恥ずかしくなったのだ。  実希ちゃんの肌は白くて綺麗だけど、傷つけるよりこうしてるほうが僕は好きかも。  暗がりにいた蝶が思い出される。淡く光る鱗粉をまき散らしながら、飛び交っていた無数の蝶が。美しい幻影を目にした直後、わたしは慧から聞かされた彼の心情の変化が嬉しかった。とても嬉しかったので、猫のようにすり寄ってきた彼を抱きしめるのにも余念はなかったのだが。  いま思い返すと、なにバカップルみたいにいちゃついてるんだって感じが……。  と。 「あっ、ええと……ごめんね実希ちゃんっ! これはそんなつもりじゃなくてっ!」  同じ記憶がよみがえり恥ずかしくなったのだろう。耳まで真っ赤になった慧は、握っていたわたしの手を猛スピードで放すと叫んだ。そこまで派手に放さなくても、と乾いた笑いが洩れはしたが、わたしは微笑ましさもひそかに覚えた。きょうだい同然に育った従弟が、男の子の反応をしたのが意外で可愛い。  だからほんの少しだけ、からかってやることにした。 「だったらこんなつもり?」 「えっ」  自由になった手をあげると、わたしは慧の頬へと寄せた。よく日焼けした少年の肌は、羞恥のためか熱を帯びている。その目尻から顎にかけてを、てのひらで包んだあとに指先だけを下へとすべらせた。半分開いている唇の端を、ひとさし指でつつくと囁く。年上の余裕を示すため口角をめいっぱいあげながら。 「ご飯つぶ」 「も、もうっ!」  赤面したまま唇を噛みしめ、慧は朝食の残りを隠した。そんな態度を取られたせいで、わたしは彼をいっそう可愛く思った。  慧は『大好き』で『大切な従弟』だ。これからも母親じみた思いで、わたしは彼を見守っていくだろう。そして近い将来この少年が大人の男になったとき、魂を刺していた針によって身動きできずにいた一時期を、穏やかに語ってくれるのを願ってやまない。彼の亡くなった父親とはまったく違う顔つきで。  決意と願望を胸に秘め、わたしは慧へと向かい改めて手を差しのべた。 「じゃあ今度こそ出かけようか。新しい蝶たくさん見せてね」 〈終わり〉
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