冷蔵庫(へっつい幽霊)

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 1週間前、その瞬間まで、本当にただ有給休暇申請を出すだけのつもりだった。後輩や同僚に頭を下げ仕事の割り振りをし、フォーマット通りに申請を入力して送信する前にふと指が止まった。  1週間経ったらまた取り残され、心が引きちぎられる日々が繰り返されるだけだ。だったらいっその事…。  急に退職願いを出した俺に上司が驚いていた。そりゃそうだろう。  突然妻を亡くした俺に親身になってくれた上司である。退職ではなく、休職にしてはどうかとまで言ってくれた。 ありもしない実家に帰りたいという嘘をつく事に胸が痛んだが、立つ鳥跡を濁さずだ。  今日無理を通す事で会社にこれ以上の迷惑をかけないで済むはずだ。 辞めさせて下さいと頭を下げ続けた。 「そうか、残念だけど、くれぐれも体を大切にしてな」 最後はそう送り出してくれた。  退職の処理の為に少し遅くなってしまった。タカコの事が気にかかって急いで会社から出たところで人とぶつかってしまった。すみませんと顔を上げると男の俺でも惚れ惚れするほどの超絶イケメンだった。 「これ、落としましたよ」 見惚れてぼけっとしていると一枚の紙を手渡された。 「あ、ありがとうございます」 紙なんて持ってたっけ?取り敢えず、畳んであったそれを広げて見てみると、短い文章が真ん中にポツンと印字されているだけだった。 〜冷蔵庫の食材はこの世の食べ物ではありません。あの世の食べ物です〜 顔を上げるともうその超絶イケメンはどこにもいなかった。 急に強い風に煽られその紙は空高く舞い上がり消えてしまった。 次の瞬間、唐突に理解した。 今のアレ…死神だ…  この世の食べ物、あの世の食べ物。 どこかで聞いたことがある。頭を捻っていると、思い出した。神話だ。  妻の死を嘆き諦めきれないイザナギは黄泉平坂まで赴きイザナミに一緒に帰って欲しいと願う。 岩戸を挟んだ向こう側にいるイザナミは、私はすでにこの世のものでは無いものを口にしてしまい、あの世の者となってしまいました。醜い姿をお見せしたくはありません、支度をするので少し待って下さい、その間絶対に覗かないでくださいねと見ない事を約束させるというあの神話だ。  そうか、この世のモノで無いものを口にすればあの世の者となれるのか。うまくいけばタカコと一緒にいける。 死神は俺には救いの神だった。   窓の外にいる死神が持つ蝋燭の炎が消えていくのを二人で見守った。蝋燭の火が完全に消え、白い煙りが一筋立ちそれもすぐに消えた。  それを見届けた俺はタカコの手を取った。この手はもう離さない。 「さあ、行こうか」 タカコとぎゅっと手を繋いで冷蔵庫のドアを開けた。
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