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身支度を終えても家を出るまで時間に余裕があった。会社までは歩いて十五分程度の距離。手持無沙汰の状態になったので着替え始めた。スーツを着る事に対しても最初は抵抗があった。この堅苦しさとネクタイが、自身の心のゆとりを余計に狭めているような感覚。それでも慣れてしまえば、そんな意識は何処に行ってしまった。慣れというのは本当に怖い。
玄関を出て鍵を掛ける。一人生活も慣れたものだ。掃除と洗濯が苦手な俺にとって最初は苦悩の日々だった。洗濯は否応なしにしなければワイシャツは汗の汚れで臭くなるし、洗濯しなければストックは無くなっていく。以前クリーニング屋に持って行って返ってきたワイシャツの袖が縮んでいた以来、自分で洗濯する事に決めた。
廊下に出て、ふと隣の二〇二号室の扉に視線を止めた。先日正和から二○二号室を顧客に紹介しないように指示があった。隣人がいない方が気は楽だし、元々ここのアパートへの物件紹介を積極的にしないようにと言われていた為に気に留めなかった。
外階段を下り、駐車場に視線を向けると先日購入した黒のハイラックス・サーフの安否確認をする。初めての愛車に心が躍り、先日の納車で我が家にやってきた。雨天の時は歩いて十五分の距離を通勤として利用している。中古車とはいえ予算を超える買い物だったが、正和からは無理してでも買えと背中を押された。借金をする事によって仕事が頑張れる……これが正和の哲学だった。心の中で愛車に挨拶をすると大通りに向かって歩き始める。
千葉市緑区は近年の開発行為や土地区画整理事業に伴い閑静な住宅街へと変わっていった。俺が小さい頃、父と正和の家を訪れた時の近辺は山や田畑に溢れていて緑豊かな景色だった。住宅街が出来れば、それに伴ってショッピングモール等の商業施設や学校等がこぞって立ち並ぶようになり、今では県内でも有数の地価が上昇している場所となっている。
当然正和が所有している駅前の土地や他にも所有している土地に売却の話が挙がってきたが、一部を除いて正和は手放さなかった。俺がその理由を以前正和に尋ねたが、答えは返ってこなかった。何か特別な理由があるのだと考えている。その何かは未だ解らずにいた。
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