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猫恋
唐突ではあるが、吾輩は猫である。名前はトラだ。吾輩がトラ猫であることから付けられた。安直すぎるだろう。
名刺を持っていれば、人間の言葉を話すことができたなら、この名前に意見を言うこともできる。しかし所詮吾輩は猫なのだ。思うとおりにはいかない。
言い忘れていたが、吾輩には主人が二人いる。ミクとその恋人であるマサナリだ。
マサナリは「マイケルジャクソン」「ベッカム」などと吾輩の風貌には似合わない、明らかに名前負けするような名前を提案してきた。
それに「馬鹿じゃないの?」と一蹴して「トラが覚えやすくていいでしょう」と提案したのがミクだ。
今日もいつもの通りにベランダから飛び出ていき、散歩に出かけた吾輩。
しかし、ネズミを咥えながらご機嫌で帰ってきたらミクがいなくなっていた。ミクに見せたかったのだがな。
「……ごめんなトラ。これからは俺がお前の世話をするからな。あとそのネズミはペッしなさい。汚いぞ」
その言葉に後期高齢猫である吾輩はすべてを察した。どうやらマサナリはミクに振られてしまったらしい。
出て行かれたことが酷く堪えているらしく、頼りなく笑っていた。それが痛々しくて、ネズミをそのまま床に落としてスリスリと頭をマサナリの手に擦りつけた。
彼は最初こそ吾輩の頭を優しく撫でていた。しかしすぐに「おじいちゃん猫にスリスリされてもなぁ」などと暴言を吐く。
折角吾輩が励ましてやっているというのに。やはり慣れない真似はするものではないな。
「ミクにさ、愛想尽かされちゃったんだよな」
そんなことはわかっている。
ミクは聡明で美人で家事も得意で優しかった。そんな完璧な女性が何故こんな男と付き合っているのか疑問に思っていたほどだ。
それに対してマサナリは、見てくれはいいとは言えず何をやらせても中途半端。加えてすぐに物事を投げ出しているような好い加減な男だ。
マサナリとミクはお世辞にも釣り合っているとは言えないカップルだった。
だからこそ何れはこんなことが起きるとは思っていた。どうやらその時期は予想よりも早かったようだが――。
「こんな暮らしはもう耐えられない、堕落するだけだって言われてさ。まあ当然だ……俺、生きてて良いのか分からなくなるんだ」
「もう、いっそのこと死んでしまいたいな」
何を馬鹿な事を言っているのかと怒鳴る代わりに、「ニャー」という声が漏れた。呆れからくる鳴き声だ。
なんの才能もないくせに夢ばかり追いかけているような男を支えるのには根気がいることだっただろう。
ミクも自分が堕落していくのが怖いこともあっただろうが、このままではマサナリが本当にダメ人間になってしまうのではないかと危惧したのだろう。
人間堕ちるところまで堕ちれば変わるかも知れないと考えたのだ。やはりミクは頭も性格も良い。
そんな彼女の気持ちも分からずに生きてて良いのか分からないだの、死にたいだのというような男は敢えて言うならばクズだ。
「慰めてくれるのか? トラは優しいなぁ」
先ほどの呆れから漏れ出た鳴き声を慰めと勘違いしているのだろう。吾輩のことを膝に乗せると顎を撫でてくる。
心地が良いのでそのまま好きにさせてはいるが、本当におめでたい頭をしている男だ。
だが本当にそんな男が哀れに思えてきて、腹を天井に向ける「へそ天」というポーズを決め込んだ。普段からマサナリがしつこくさせようとしてくるポーズだ。
マサナリは吾輩の腹に顔を埋めてきたので、調子に乗るなという意味で顔面を蹴り飛ばしてやろうとする。しかしそれもすぐに考え直した。
良い年をした男が猫の腹に顔を埋めて涙を流しているというのはどういうことなのだろう。
「俺……ミクがいなきゃ、無理なんだよ」
泣きながらそんなことを言われても、どうする事もできない。吾輩は人間の言葉を話せるわけでもないし、解決策を嵩ずることもできない。役立たずだ。
マサナリの辛さがマサナリにしかわからないように、ミクの苦悩もミクにしかわからないのだろうな。
きっとミクは辛い時や苦しい時に自分自身で解決させたり、自分自身を救う勇気や気持ちをもって欲しかったのだろう。
「ニャ、ニャーッ」
「そう、だよな。俺、頑張ってみるよ。トラ、ありがとうな」
何故か分からないが、どうやらマサナリのスイッチを押したらしい。早速切り替えをした彼はキッチンへと向かっていくと、そのまま吾輩に食事を与えてくれた。
その日から、マサナリは心を入れ替えたようだった。家の掃除や洗濯も食事の支度も吾輩のぶんまで用意するようになった。
工事現場での仕事をするようになった。「辛い」「苦しい」「辞めたい」と言いながらも吾輩をもふもふして乗り切っている。
少しずつ変わってきたマサナリをそばで見ている身としては、彼に幸せがやってくると嬉しいと思うようになっていた。
「……ただいま」
そんなある日、聞き覚えのある声が耳へ入った。玄関まで急ぐマサナリに続いて吾輩も玄関へ向かう。
バツが悪そうに俯くミクに部屋へと入るよう促すマサナリ。
今までならばこんなことがあろうものならきっと大喧嘩が勃発するだろう。しかし今回は二人共落ち着いている。
リビングに移って会話を始めたのだが、何故か吾輩はミクの膝の上に乗せられ、撫でられていた。
「……ずっと、マサナリには自立して欲しくて。私といたらきっと駄目になるよ。だから出て行ったんだけど……心配でちょくちょく見に来てた」
「そう、だったのか?」
「うん。トラのことも心配だったし。でも私がいなくなっても上手くやっていけそうなんだよね」
複雑な顔をしているミクにマサナリは首を横に振って否定をした。
そしてミクの膝の上で撫でられている吾輩を見つめながら真剣な顔で言葉を投げかけた。
「ミクがいなくなって、トラと一緒に過ごしてきた。大変だけど仕事も見つけた。頑張ってるけど……でも、やっぱりミクがいないのは寂しいんだよな」
「……本当? 私、許してくれるの?」
「悪いのは俺なんだ。だから、これからもそばにいて欲しい」
「ありがとう。また、よろしくね」
いい雰囲気だ。吾輩は邪魔者だろうということがわかった。何せ空気の読める猫なもので……。
膝の上から下りようとすると、ミクが吾輩のことをギュッと強く抱きしめた。マサナリも笑いながら吾輩の前足を触っている。
邪魔者は退散退散と気を使ってやっているというのに。
「……ありがとう、トラ」
「どこ行くんだ、トラ。今日はお祝いにカリカリいっぱいやるからな」
そうか、カリカリをくれるのか。ミクがいなくなる前はそんなことなかったのに。
ミクがいなくなったことでマサナリが変わった。マサナリが変わったからミクが返ってきた。そしてその二人に吾輩は愛されている。
吾輩も二人を愛しているという意味を込めて、「ニャ」と小さく鳴いて見せたのだった。
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