19人が本棚に入れています
本棚に追加
/70ページ
待てど暮らせど根が生えたように動こうとしないミノリに、とうとうラスボスと化したマヤさんが、鏡越しに声をかけた。
「ミノリちゃん」
「はい」
「口紅、つけてる?」
「えっ、あの、グロスを……」
・夜目にも、それと分かるように。
・アイカラーも口紅も、はっきりと濃く塗りましょう。
・ヌードカラーのグロスは、口紅とは言えません。
契約の時には、事務所の代表である堀田さんが。お座敷の前には、主にチーフを務めるマヤさんが。常日頃からアドバイスしているはずのメイクの心得を、ミノリは全く頭に入れていないようだった。
「鏡を占領するのは構わないけど、言われたことは守ってね」
ピシャリと注意したマヤさんの背中越しに、隠しきれない巨体を揺らしながら、カヨコさんが小さく拍手をしていた。
*
「だいたいね。あの娘、トロいくせに生意気なのよ」
ミノリがトイレに立つや、おてもやんばりにチークを塗ったカヨコさんは、陰口を炸裂し始めた。『濃いめのカラーを』というルールではあるけれど、カヨコさんのそれは、コントのメイクじゃなかろうか。
「こないだもさ……」
ピンクの頬っぺたを膨らませながら、カヨコさんは回想と共に毒を吐く。
*
その日のカヨコさんは、チーム内の最年長ということで、チーフとしてパーティー会場の仕切りを任されていた。往々にしてマナーのゆるいお座敷宴会と違い、パーティには事細かな取り決めやNG項目がいくつも存在する。
・シャンパン・ボトルを開けるタイミング。
・グラスの持ち方、手渡し方。
・空いた皿の回収方法……。
なかでも厄介なのは、料理の取り分けに関する作法だ。大振りなスプーンとフォークを片手で抱き合わせ、ハサミのように使いこなすには多少の鍛練が必要とされる。
カヨコさんの回想話に伴って、初めてパーティ会場へ派遣されることが決まった際、一夜漬けとはいえ、百均で購入したカトラリーで練習したことを私も懐かしく思い出した。
「私がチーフを務めたパーティ会場で、やりやがったのよ、ミノリのやつ!」
心配していた通りのことが起きた。片手で使用するはずのサーバー用カトラリーを、ミノリは案の定、右手と左手の両手で掴みかかると、山賊のようにワッサワッサと豪快に料理をすくい上げていたというのだ。
「その使い方はタブーだって……ミーティングでも念を押したでしょ!」
パーティ会場ゆえに、トーンを抑え気味に忠告したというカヨコさんに対して、
「だって、こっちの方が使いやすいじゃないですか」
あっけらかんと、さらには大胆にミノリは口答えしたというのだ。
*
「アタシ、ちゃんと言ったよ? ちゃんと言ったよぉ?」
思い出し怒りで地団駄を踏み、巨体を揺らすカヨコさんを「まあまあ……」と、その場で聞いていた私を含め三人で抑え宥める。その様子は、兄弟子にぶつかり稽古をつけてもらう幕下力士のように傍目には見えたかもしれない。
面白おかしく聞いていたはずが、エスカレートするカヨコさんの陰口は止まらず。
「あの子、処女だわね。おぼこさとか、気の利かなさとか。そう思わない?」
そんな風に振られ、「どうでしょう」と精一杯に言葉を濁し、曖昧な返答をするに止めた。
確かにミノリは天然の無作法者だけれど、裏表のある悪い子ではないように思う。カヨコさんも然りだ。きっと二人は似た者同士で、きっかけさえあれば仲良くなれるのかもしれない。とはいえ、私たちは仕事仲間であって、仲良しサークルの友人同士ではない。
余計なおせっかいや深入りは禁物だ……と、カヨコさんの漫談に耳を傾けながらも私は馬耳東風を貫いた。
最初のコメントを投稿しよう!