不思議な満月と不思議な死神

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月が綺麗な夜を選んだ。そうすれば、恐怖がやわらぐ気がしたから。 ひとり暮らしのアパートから3時間ほど車を走らせた山奥に、知る人ぞ知る自殺スポットがある。 多くの命を看取ってきた場所なだけあって、空気が淀んでいるのを嫌でも感じる。 ここへやってきた理由はもちろん、この世から手を放したくなったからだ。 所々板の抜けたボロボロの橋の上に立って空を見上げると、そこには美しい満月。 満月には不思議な力があるという話を耳にしたことがある。 その見えない力が恐怖ですくんでいる俺の背中を押して、あの世への後押しになってくれればいい。 もっとも、満月にそんな力があるわけではないだろうが、なにかの力にあやからないと、俺は一生ここから身を投げることはできなそうなので、見当外れな考えでも信じ込んでおく。 下を見ると、ただ暗闇が広がっている。反射的に光を求めて再び空を仰いだ。 変わらない、美しい満月。その神秘的な光。 改めて死というものを意識すると、とてつもなく怖くなってきた。 しかしこれから先を生きていくのも、俺にとっては怖いことだった。 未来なんて、必要ないと思った。 生よりも、死を意識する日が多くなった。 だから、ここへやってきた。 気持ちを落ち着かせると、闇が、手招きをしているように見えた。 それは俺の目に魅力的に映った。 大丈夫だ、怖くない。 静かに落ちていこう、月の光も届かない深い闇へと。 俺はゆっくりと、前方へと体重を移動させて体を傾けていった。 「青年、そこでなにをしておるのじゃ?」 それは唐突だった。 静寂に割り込んで空気を揺すった声が、死へ向いていた意識を生へと引き戻す。 せっかくの覚悟に水を差されてしまった。 戸惑いながら声の主を探すと、不敵に微笑んでいる女性がすぐそばに立っていた。 俺は驚いた。こんなに間近にいるのに、まったく気配を感じなかった。 「この場所は青年にはちと刺激が強かろう。帰路に着いたほうがよいぞ」 リアルでは遭遇したことのない、時代劇を思わせる喋り方。 かと思うと、黒いロープに身を包んだ服装は魔女のようで、その手には杖が握られている。頂きにはめこまれた宝玉が、月下の下、光をたたえていた。 目の前に立つこの女性が何者なのか、まったくわからない。 困惑のあまり反応ができないでいる俺の顔を、彼女はまじまじと見つめてきた。 あまりに執拗な視線に、俺も対抗心から彼女を注視した。 いくら満月の光があっても、さすがに色彩細やかに視覚に映るわけではない。 彼女の黒い衣は闇と同化して、白い顔だけが浮かび上がっているようで不気味だった。しかし彼女の紡ぐ声は不思議と温かみに溢れていた。 「青年よ、今日はまたなぜこのような場所へと来たのじゃ? ただの通りすがりか? それとも道に迷ったのか?」 「そういうあんたこそ、なんでこんな場所にいるんだ」 少しためらいながら尋ねると、彼女は胸を張って答えた。 「私はただの通りすがりじゃ」 「嘘つけ、こんな場所を通りがかるわけないだろ」 「決めつけはよくないぞ、青年。現に私はここにおるじゃろう」 「というか、その喋り方もなんなんだよ」 「ほぉ、無口な青年かと思っておったが案外喋れるではないか」 「あんたがいろいろツッコミどころがあるからだろ」 「なんだと? 私はしがない死神だぞ、ツッコミどころなぞあるものか」 「死神!?」 耳を疑って聞き返すと、彼女はうむ、と頷いた。 「むしろ魔女だろ、服装的に」 「いいだろう、死神が魔女のコスプレをしておっても」 「コスプレだったのかよ!」 「そなたの死神像はどのようなものだったのじゃ?」 「どんなって。……大きな鎌を持ってて」 「それじゃよ、それ。私の腕力であの大鎌を扱うのは無理じゃ」 「だからってコスプレするなよ」 「人の趣味にケチをつけるでない」 「人じゃなくて死神だろ」 「私は生まれながらに死神だったわけではない。 人の生を生きた、生前というものが存在するのじゃぞ」 「そうなのか? どうやって死神になったんだよ」 「生前から死神志望だったのじゃ。そしたらなれた」 「死神志望ってなに!?」 「魔女志望でもあった」 「両立は無理だろ!」 「だからそう決めつけるでない。可能性があるかぎり、不可能はないのじゃ」 そう言うと、彼女は得意げに笑ってみせた。 たしかに、経緯ははなはだ不明だが一見不可能と思える死神となる夢を叶えたこの女性なら、魔女との両立も可能なのかもしれない。 それにしても、まさか生涯で死神に出会う日がくるとは思っていなかった。 ……いや、彼女は死神。 だとすれば俺たちが出会うのは必然というものだったのだ。 「もしかして、あんたは俺のお迎えにきたのか?」 「迎え? なんのことじゃ?」 「見ればわかるだろ、俺はここから飛び降りようとしてたんだよ。 だから俺の魂を取りにきたのかと思って」 俺の言葉を受けて、彼女は怪訝な顔をした。 「青年よ、そなたはその生を自らの手で終わらせようとしておったのか?」 「だからそう言ってるだろ」 「なんとたわけたことを。私が偶然にもここを通りがかって命拾いしたな」 「は? 俺は命を投げ出しに来たんだ。拾われる必要はない」 「命は投げ出すものではない、育むものじゃ」 死神とは思えないような言葉が飛び出してきて、俺は動揺した。 「あんた死神だろ? 魂を取るのが仕事じゃないのか?」 「それは青年、そなたのイメージであろう」 「そうかもしれないけど」 「私はなるだけ、天寿を全うしてほしいのじゃよ。自ら命を絶つ人間の姿なぞ、見たくはないのじゃ。 だからそなたが投げ出そうとした命を拾えて、私はよかったと思っておる」 死で固められた俺の脳内に、彼女の言葉がそっと寄りかかってくる。 胸を突かれたような心持ちになった俺は、彼女から視線を逸らした。 「して、青年よ。そなたが命を投げ出そうとしておる、その心とは?」 「……なんで、あんたに話さないといけないんだよ」 「よいではないか、こんなにも月が綺麗な夜じゃ。語ろうではないか」 俺は遺書も残さず、誰にも何も告げず、ここから身を投げるつもりだった。 だが不意に目の前に現れた死神と名乗るこの女性に、話してみてもいいかと思えた。 この気持ちの変化は、満月の不思議な力のせいにでもしておこう。 「社会人になってから、ずっと職場が苦だった。そんなの俺にかぎった話じゃないことくらい、わかってる。 上司からの圧力や同僚からの嫌がらせ、仕事の妨害、なんとか受け流してたけど、気づいたときにはもう、どうしようもないくらい生きているのが怖くなってた。 思い切って転職しようと仕事を辞めたけど、人が怖くなってまともに話すことができなくて、面接にことごとく落ちた。だんだん、引きこもることが増えていった。 ……あるとき、今日のお昼ご飯どうしようって、生きるための心配をしている自分がばからしくなった。こんなにも生きていたくない自分が、どうして生きるために苦悩しないといけないのか。 ……手放してしまおうと思った。そうすればもう、苦しまなくていい、悩まなくていい。 俺は、自分から、命というものから、解放されたいんだ」 喉の奥に力が入り、後半はうまく声が出なかった。 彼女は微笑んだ表情のまま、俺の話を聞いていた。 「今が辛くて命を捨てる、もったいないのぉ」 「……俺には、もったいないなんて思えないから」 「生きていればいいこともあろう」 「いつなんだよ、それは。俺は泥沼にはまって、抜け出せずに人生を終えるんだ」 「だから決めつけるでないと言うに。悪い癖じゃぞ、青年」 俺は生きることを放棄しにきた。 だから諭すようなセリフなど聞きたくはなかったので無性に腹が立った。 「なんで死神に説教されないといけないんだよ。 あんた死神だろ、だったら今すぐ俺の命を終わらせてくれよ!」 荒げた声が、振動して暗闇に溶けていく。 こんなに殴りつけるように怒鳴ったのは、いつぶりだろう。 人から罵倒される日々を送ってきても、感情を表に出すことはなかったのに。 「青年は、なにかしたいことはないのか?」 彼女は動じることもなく、そんなことを聞いてきた。 温かみの溢れる声音で、笑みを浮かべて。 そんな対応のおかげで、昂った俺の心はすぐに落ち着いた。 「したいこと……?」 「そうじゃ。夢とまでいかなくてもいい、些細なことでも、やってみたいことはないのか?」 「……わからない。昔はあった気がするけど、もう思い出せない。 思い出したとしても、きっと叶わないから意味はない」 「決めつけるなと何度言わせる気じゃ、青年」 彼女はこつん、と杖の先で俺の頭を小突いた。 俺が口元をむっとさせると、彼女は笑い声を上げた。 月明りが、愉快に笑う彼女の顔を照らしだす。 満月のような神秘性も、夜のような静寂も、この場所に漂っている独特の淀みも、どれにも当てはまらない異質なこの彼女に、俺の視線は吸い寄せられていた。 「やりたいことが思いつかないのなら、今はそれでよい。 なぜなら、人間は欲する生き物であるから、なにかを求めてやりたいことを見つけるものなのじゃ」 「見つけたって…しかたないじゃないか」 「目標ができれば張り合いも生まれよう。やりたいと思ったことは、できると思ったことじゃ。 しかたないなんてことはない。叶わないなどと決めつけるな。 可能性があるかぎり不可能はない、そう言ったであろう」 「可能性なんて……俺には、重たすぎる」 生きる上で、いろんな可能性というものがあるのはわかる。 それが代わるがわる選択肢として現れて、人生を左右していく。 俺は疲れた。選択をすることに。 俺が選んできた道はことごとく間違っていた。 もう、進む自信なんてない。戻る道なんてない。 断ち切るしか、ない。 「ふむ。そんなに命がいらぬというのなら……もらってやろう」 心がざわりと動いた。 「本当か?」 「ああ。逆に問う。青年、そなたは私に命をくれるか?」 死への恐怖はもうない。あるのは死への期待だ。 俺は暗闇の先を、自分が自分ではなくなる瞬間を、今か今かと待ちわびている。 「ああ」 迷うことなく、頷いた。 「よろしい」 彼女はにっこりすると、とたんににやりと口角をつり上げた。 「ああそうだ。私はそなたの命はもらうが、魂は取らない」 「……どういうことだ?」 「つまりはそなたの命日は今日ではないということじゃ」 「は?」 「青年、私はそなたが命を投げ出すことを拒否する」 「はぁ!?」 がなるような大声を上げた俺に、彼女はくつくつと袖を口元に当てて笑っている。 「もはやそなたの命は私のものじゃ。文句はあるまいて」 「ありまくるわ! 俺がここにきた意味がないだろ!」 「なにを言うておる、意味はあるじゃろう」 「どんなだよ!」 「青年と私が出会った。青年の生への可能性が広がった」 「絶望の可能性でしかない」 「そう悲観的なことばかり言うでない。ひとりでいるからしんどいのじゃ。 青年、私がサポートしてやろう。青年が天寿を全うできるように」 「サポートって……。死神にサポートされる人生ってなんだよ」 「やりたいことがないと言っておったな、青年。 死に意識を傾倒するのでもよい、生きたいと思わなくてもよい。 だが私はそなたの命を譲り受けた以上、納得のいく死以外は受理せぬ。 それ故、まずは私を納得させることを目標にしてみるのもよいのではないか? 生きるためにあがくのではなく、命を手放すためにあがいてみる。 ……というのも、一興ではないかの?」 「そんな殺生な……」 時代劇風の台詞を自分が口にする日がくるなど思いもしなかった。 肩を落とした俺に、彼女はまた声を上げて笑った。 「生きると考えるから辛いのじゃろう? どうせ手放す命ならと考えれば、少しは気が楽になるのではないか?」 「……そんなふうに考えたことなかった」 雲が流れて、手招きしていた闇に、月の光が注がれた。 満月には不思議な力があるというのは本当なのかもしれない。 あんなに魅力的に映った闇よりも、今は光を求めている自分がいる。 もう少し、命を繋いでいてもいいかもしれないと思えた自分がいる。 そんな気持ちの変化が受け入れがたく、俺はわざと素っ気ない言葉を発した。 「……今日で終わらせるつもりだったのに」 「死神と出会ったが運の尽きじゃったな」 「もともと運はないから、やっぱり必然だったのか……。はぁ、明日があるって怖い」 「なにを言っておる? そなたには死神がついておるのじゃぞ? もう恐れるものはなかろうて」 「冷静に考えたら、それ目立ちすぎないか?」 「そなたからは命を頂戴した手前、視認可能となっておるが、他のものの目には映らぬ。安心せい」 「……おかしくないか? 命の取り引きする前から俺にはあんたのこと見えてたし」 ふと浮上した疑問を口にすると、彼女は持っていた杖を空へと掲げて、その先で夜空の象徴を示すと、優しく微笑んだ。 「それは、今宵が満月だからじゃ」
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