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最終話
「櫂ちゃん、じゃあわたしは銀行に行ってくるんで店番よろしくね」
「裕子さん、行ってらっしゃい。あんまり道草くわないでくださいよ」
声をかけると小柄な老婦人がころころと少女のように笑った。
「わたしが店番したって、品物のことなんか全然分からないし、近くに美味しいドーナツのお店ができたのよ。帰りに行ってきてもいいでしょう?」
これは大野さんは心配だったはずだと俺は苦笑いする。アンティークショップを経営していた大野さんは店を残していくのをとても心配していたのだ。子どもがいないせいか、奥さんの裕子さんはお嬢さんがそのまま年を取ってしまった感じで非常にキュートな女性なんだが……。
「裕子さんにおねだりされちゃあ仕方ないなあ。なるべく早く帰ってくださいね」
いつもこう言うしかない。きっと大野さんもそうだったんだろう。
はあいとこれまた少女のように返事を返すと裕子さんは店のドアを開けた。コロン、カランと音がしてドアが閉まる。
俺は求人広告を出していた大野さんの店に押しかけて、拝み倒して雇ってもらった。大野さんの心配は的を得ていた。奥さんの裕子さんにはまったくセンスが無い。経営力はあると言っていた大野さんは奥さんを買い被りすぎていた。と、いうか目が眩んでいたらしい。
この二年、仕入から何から必死で覚えていった。大野さんが残してくれた預金を食い潰しながら休日返上で働いた。当然給料もほとんど出ないが、裕子さんがガレージの上の離れを俺に貸してくれたおかげでなんとか食いつないでいた。
やっと、ここ数カ月ほどわずかだが利益が出るようになった。店を回すということがどういうことかということが少しづつ分かってきている。
なんにも知らない俺に全部任せちゃう裕子さんの度胸というか、無謀さに助けられてなんとかやってこれたのかもしれない。
平日の午前中は結構暇なので、書類を片づけようとパソコンを立ち上げる。そこにカランコロンとドアが鳴った。
「裕子さん、忘れ物ですか?」
事務スペースから店側に出て行く。
「自宅のテーブルが壊れたんだけど、ここは修理も頼めるのかな?」
「あ、あの……」
目の前に居るのは二年前に別れた孝也だった。
「できる?」
「あ、はい、修理は提携先の業者に回すので見せていただいてからのお話になると思います。この用紙にご記入お願いします。テーブルはコーヒーテーブルですか?」
「いや、食卓の方だ」
「じゃあ……材質はローズウッドでしたね」
「よく覚えているな」
孝也が書類に記入する手を止めて顔を上げた。前より痩せた気がして、それがまた彼の男っぽい大人らしさを醸し出していた。
ただの客として来たのではないことはもう分かってる。俺はどうしたいか? 事務的に話を進めながら俺は孝也の手元を見ていた。
「櫂……」
孝也が俺の名前を呼んだ。
「カア」
窓の外で鴉の鳴き声がして窓に視線を向ける。そこには、嘴の一部が白い鴉と目の蒼い鴉が塀に止まっていた。
貫太郎、俺を見てどう思っているだろうか。彼が何度かこれまでも見に来ていたのを知っている。結構やるなと思ってくれていたら嬉しい。
俺が何を選ぶのか見て欲しい。
いろんな事を経験するから。
自分の力で七転八倒するところも全部。
そして最後に、
貫太郎に話してやるよ、俺の長い話を。
そしたら、おまえはどんな言葉を聞かせてくれるんだろうか。
その時にも、やっぱり俺の魂を褒めてくれるだろうか。それまでに曇らないように生きていたい。
俺、結構がんばってるぞ。
窓に向かって口だけを動かした。目が合った気がしたのは願望だったのだろうか。願望だとしても俺と勘太郎はつながっていると思う。
そう思うのは勝手だろ? 充実した毎日を送ってやるさ。手始めに恋はどうだろうか。腐れ縁の男が目の前にいるのだから。
「孝也、久しぶり」
名前を呼ばれたことで孝也は緊張が解けたのか大きく息を吐き出した。
「櫂、もう一度俺のところに戻ってくれ」
掴まれた手の上に俺はもう片方の手を重ねる。
「戻らないけど、食事くらいはしてやっていい。俺達まだ始まってないだろ?」
「……? そ、そうなのか? い、いやそれでいい。いつ? 今日は?」
焦る孝也も悪くない。
そうは思わないかと窓を見た。
蒼い目の鴉が頷くように「カア」と一声上げて飛び立つと、隣の鴉も続いて飛んだ。どこに行ったのか見る間に視界から消えてしまう。でも、また会えると俺は知っている。
終わり
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