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何も変わらないにしても
緊迫した貫太郎の声に俺は動きを止めた。もう犯人は死んだのに。なんでそんな声を出すのかと聞こうとした俺は、犯人の胸に何にも反応が無いのに気付く。なんで光ってないんだ?
倒れている男の背中に違和感を感じた。
生きている証の温かい色でも、死に行く時の青い色でもない。
何かがずるずると肉を引きずる音がする。
ふいに投げ出された手がにゅううっと床を這って行く。くたりと服が沈んだかと思うと手がどんどん伸び、枝分かれして増えながら車内を一杯にしていった。
一つ一つが小さいくせに全部が肉色をした完ぺきな手だった。指があり、爪がある。それなのに一つ一つが自分勝手に動いているようにばらばらで不規則な動きをしていた。
それ、は俺の方にもくねくねと指を伸ばす。気持ち悪くてそれを弾き飛ばすと急いで起き上った。その瞬間、へたりこんでいた胴体部分がぼこぼこと動き出す。
「む、胸が……っ」
運転手の喉や胸や胴にも手は巻きついて彼を締めあげている。しかし、彼には見えていないのだ。彼だけじゃなく、俺と貫太郎以外は誰にも見えていない。
「オマエヲノ カクヲ ヨコセ」
雄たけびのような、それでいてはっきりとその化け物は人語を吐き出す。男はすでに魔に喰われていたのだ。
足元に絡んでくる無数の腕をがつがつと踏みながら、貫太郎はポケットからメモを取り出して見ると苦しんでいる運転手に声をかけた。
「白坂 元さんですか」
「そ……そうだ……」
確認を取った貫太郎は腰に刺していた拳銃を抜きだすと、化け物の触手に向けて引き金を引いた。
ズオオオオオオオンと弾では無く眩しい光が発射されて、運転手の喉にあった腕が吹き飛んで目の前の硝子に飛び散る。
ぐしゃりと熟れた果物を叩きつけたような音と肉が腐ったような匂いが立って吐きそうになった。そこで運転手の胸元が淡い黄色に見えることに気づく。貫太郎の呼びかけに答えるということは白井さんはもう命が尽きようとしている。
一本の触手を吹き飛ばされて、ざわっと他の触手たちの動きが止まる。次の瞬間、それらは大挙してバスの前方に押し寄せてきた。
それに向けて貫太郎がピストルを撃っている。しかしその数が半端じゃない。
「くそっ、櫂おまえこれを使え」
後ろに向かって貫太郎が投げた片刃の剣が座席の背もたれにぶすりと刺さった。恐る恐る引きぬいて構えたが、どうしたらいいのか分らない。気持ち悪い触手の巣になった車内で立ち竦んでいると、ゆらりとバスが動き出した。
「貫太郎、バスがっ」
「白井さんが亡くなるんだ。急げ、魔物に先を越される」
大声で叫ぶと触手の間から貫太郎が叫び返してきた。白井さんがブレーキを踏んでいた足が離れたということか?
それとも触手が悪さをしているのか。このままだとバスは何かにぶつかるまで止まらないかもしれない。
めちゃくちゃに手を振り回しながら前に進んで白井さんの元に行く。白井さんの胸は黄色から青みを帯びた色になっていてもう猶予は無かった。
「白井さん、逝きましょう」
呼びかける俺に白井さんは蒼白な顔で首を横に振る。
「乗客の安全が……先だ」
白井さんの気持ちも分るが、俺の腕では白井さんに絡まる触手を切ることしかできない。触手が勝手にシフトレバーを動かしてスピードを上げようとしているのが目の端に見える。
「貫太郎、来てくれっ」
触手の壁に大穴が開いて、貫太郎がこちらに飛び込んできた。俺の視線の先を見て貫太郎は白井さんの足の上からブレーキを思い切り踏み込むと、サイドブレーキを引く。
がくんと車体は大きく動き、乗客の悲鳴の中バスは再び止まった。
「貫太郎っ」
「櫂、だいじょう……」
貫太郎の声が途中で途切れる。胸には犯人が持っていたナイフが刺さっていた。見る間にナイフを持ったままの血まみれの触手が貫太郎の胸を突き破って俺の方へずるずると這ってくる。
駆け寄ろうとすると貫太郎が掌を俺に向けて止めた。そうするうちにもげぼっと貫太郎が血を吐く。そしてぐらりと体が傾いだ。自分の胸に開いた穴を通る触手の動きに足を取られ、片膝をついた形で貫太郎が床に蹲る。
「くそっ……」
そう呻くように口にすると、貫太郎は自分の血で真っ赤になった触手を両手で掴むと思いっきり引っぱった。
ぶちぶちと筋か何かがちぎれる音がする。ゴムの被り物を破ってるように大きく伸びたかと思うとそれは突然ぐしゃりと潰れたように千切れて散った。
「櫂……白井さんに覆い被さってそこを動くな」
返事を待たずに貫太郎は、拳銃を構えて犯人の服の残骸に向けて引き金を引いた。
恐ろしいほどの光が一点に集中する。眩しい光に目が眩む。さっきは白井さんに当たるのを気にして威力を抑えていたらしい。
肉が焦げるような匂いと熱さに耐えながら俺は運転席でハンドルに突っ伏する白井さんを庇うように背後から抱えていた。
長いような短いような――形容しにくい時間の後、光は突然消える。それと共に車内にあった触手の残骸は跡かたも無く消えた。
「白井さん、バスは止まって乗客は安全だ。あんたはバスジャックされて犯人に刺されて死ぬはずだった。俺達のせいで死因が多少変わってしまったけど、ぐずぐずしてるとさっきの化け物と同じになる」
貫太郎の言葉に白井さんが頷く。
「死んだことは死んだんだな」
「ああ、バスジャック犯とやり合って、ショックから心臓発作を起こしたって感じかな」
そうかと白井さんは被っていた帽子を脱いで大きなため息をついた。それから乗客に向かって話しだす。
「ご乗車ありがとうございました。お忘れ物の無いように気をつけてお降りください」
立ち上がって深くお辞儀をした白井さんの姿を乗客は知らない。それでも白井さんは深くお辞儀をする。
善行がすべて報われるわけじゃない。
それでも人は正しいことをする。
それは自分のためになる。そのことを知っているから。あるいはそれが自分の生へのけじめだから。
すうっと青い玉が宙に上がる。それを貫太郎が掴んで鞄にしまった。胸からはまだ血が流れていた。
「大丈夫か?」
「こんなの……見せかけだ。すぐに塞がる」
こともなげに貫太郎は言うけど、痛みは感じるはず。貫太郎の仕事は前も大変だった。いつもこんな過酷な仕事を請け負っているのだろうか。
「貫太郎、俺触ってもいい?」
嫌だと言われなかったことにほっとしながら、貫太郎を抱きしめた。それで何も変わらないにしても。
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