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ステップアップ
「貫太郎?」
後ろを振り返ると貫太郎は俺の肩に手を置いた。
「嘘をついていた。初めからおまえは自分を助けるために冥府の臨時職員になったんだ。おまえのツレはたいした怪我じゃ無かった。頭部は出血が派手だからあんたは死んだと思い込んだんだろう。死にかけているのは最初からあんただけだ」
「それってどういうことだよ」
「これは最後の試練ってやつだ。あんたが自分を選んでいたら、冥府はきっとあんたが現世に戻ることを却下したろう。合格ってことだ。おめでとう、あんたは晴れて生き返る」
何か言おうとして喉に何かがつっかえているみたいに何も言えない。
ガラッと戸が開いてそこに入って来たのは頭に包帯を巻いた孝也だった。普段着の孝也が洗面器を持って俺の枕元にやってきて丸い椅子に座って俺の額に手を置いた。
「顔を拭こうな、櫂。気持ちいいぞ」
優しくお湯で絞ったタオルで顔を拭きながら、孝也は俺に話しかけていた。
「ごめんな、櫂。お前を傷付けていたのに気付かなかった。失うかもしれないと知って初めて俺は自分の気持ちに気がついたんだ」
布団から手を出して孝也はそっと唇をつける。
「結婚は取りやめになった。俺、会社を辞めることにしたんだ。今までのスキルを生かして独立することにした。そしたら、相手が断ってきたよ。でも全然辛くない。辛いのはおまえが家に居ないことだけだ」
嘘みたいな告白に足がふらついた。俺は一体どうなのか? 目覚めて孝也と暮らすのか?
「良かったな、あんた遊ばれていたわけじゃなかったみたいじゃないか。一旦、冥府に戻ろう。そこで沙汰を待つ」
肩に置いた貫太郎の手の感触になんだか切なくなった。
「抱きついていい?」
頷いた貫太郎に両手を回す。貫太郎も俺に両手を回した。肩口にお互いの息がかかる。抱き合ったまま冥府に飛んでいく間、ずっと考えていた。
前だったら、孝也の本心が分かって嬉しくて堪らなかったろう。今だって嬉しい。だけどそれだけじゃない。俺は自分で歩き出してみたい。
誰かの金じゃなくて、自分の力で生きてみたいと思うようになっていた。部屋で待たされて孝也に食わせてもらう生活に戻るつもりは無かった。
そういう利害の無いところで、果たして孝也を愛してしるのかと自問自答してみる。上手くは言えないけど、孝也に対する思いは愛じゃないと思う。凭れかかっていた中で育った甘えの延長みたいなものだったような……そんな気がする。
まだ、俺の中では孝也との恋は始まってなかった。生き帰れば進展するのか? それは分からない。ごめんと世話を続ける孝也に謝った。孝也の気持ちに気づかなかったことに、孝也の気持ちに応えられないかもしれないことに。
「ここで待ってろ」
貫太郎の部屋に着くと、俺を残して貫太郎は出て行った。あれから会話らしい会話も貫太郎とはできていない。
帰ってきたら俺は意識を取り戻す。これっきり貫太郎に会う事も無い。忘れちまえと何度も自分の胸に言い聞かせた。
でも、今までの記憶を持って生きていたいと思えるようになったのは貫太郎と会ったからだ。離れ離れになるとしたって忘れるなんてできない。
冥府に帰り、ベッドに腰を降ろして両手で顔を覆う。流れる涙は見せかけのものだ、そう思っても止まることなんてなかった。見せかけだろうがなんだろうが流す理由は嘘じゃない。
「櫂、病院に送るよ」
その言葉に驚いて顔を上げた。貫太郎が入ってきたのにも気付かなかったらしい。
「俺のこと、忘れる?」
ああと答えた貫太郎の腰に俺は抱きついた。
「なんで忘れるなんて言うんだよ、バカ野郎っ。俺は忘れないからな。貫太郎のことが好きなことを絶対忘れない、忘れられっかよ」
「も……言うな」
貫太郎が人差し指で俺の口を押えた。
「別れることは決まっていたろ? 仕方ない、お前は生きるが俺はもう大昔に死んだ人間なんだ……」
「今はおんなじ死神だ。今は一緒じゃないか。俺を拾っておまえは嫌だったのか? 思い出すのも嫌な存在になった?」
「そうじゃない」
「だったらキスしろよ。俺はおまえにもう会えなくってもこの思い出を大事にするから。最後に……キスぐらい……しろ」
口に当てていた貫太郎の指が俺の目元を拭う。
「命令口調のくせして泣くな。あんたの事、ほんとは俺だって忘れない」
「貫太郎……」
顎を掬われて上を向かされると貫太郎の口に俺のが塞がれた。涙がついた唇のせいなのか、別れが迫ってることが原因なのか、なんだかやけにしょっぱいキスで。そして同じくらい甘かった。
背中に回していた腕を貫太郎の首に回すと、自分から舌を出して貫太郎の唇を舐める。すると貫太郎の口が開く。舌で上あごの内側も頬の内側もくまなく舐めあげた。この味もこの感触も見せかけなんて……そんなの糞喰らえだ。
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