きっかけ

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きっかけ

 がたん、ばたんという椅子が倒れる音と何かがぶつかる音が響く。 「放せ、孝也どういうつもりで、そんなこと」 「何を怒っている、櫂?」  端正な男らしい顔の男がやや強引にその逞しい腕の中に俺を閉じ込めようとする。まるでそうしてしまえば袋の中に入れられた鳥みたいに大人しくなると言わんばかりに。  何で分かんないんだよと大声で喚きたい。こんなにも傷ついているのに。 「うるせえっ、俺はてめえの玩具じゃねえんだよ、このタコ」  相手の高級な革靴の甲を思いっきり踏みつけると手が緩んだ。逃れるために今度は相手を思いっきり突き飛ばした。 「あっ」  がつんっ。  目の前で後ろに倒れた孝也がごついデスクの角に後頭部をぶつけ、重い音が響いたと思ったら床に沈んだ。  たった声一つきりで。  それはスローモーションのようにゆっくりと目の前で起こった。 「孝也? なあ、嘘だろ? おい、しっかりしろ、孝也?」  孝也は何の反応もしない。  なんてことを俺は。  頭の中が真っ白で助けを呼ぶことも浮かばない。  死んで――しまったのか。そう思った途端、窓に目を向けた。  何一つ確かなものを掴めなかった人生。とうとう俺は人を殺してしまった。もう終わり、終わりにしよう。  のろのろと動かない孝也の側から立ち上がり、倒れた椅子を手にとって窓まで行く。そして、それを叩きつけた。  何度目かに割れてできた空間に、俺は飛び込んだ。 「あのさ、急で悪いんだけど」 「……んあ?」  窓から身を投げたはずの俺に話しかけてくるのは十代後半に見える男だ。意味が分らず、ともかく身を起すと飛びだした階から四階分下の構造上付き出た建物の屋根部分に引っかかっていた。 「俺、死ねなかったのか」  へましてしまった。孝也を追って死ぬはずだったのに俺ってどこまでドジなんだ……。 「あのさ、一人盛り上がってるとこ悪いんだけど、説明させてくんないかな」  茫然自失の俺にしつこく声がかけられ、仕方なしに顔を上げる。 「おまえ、誰?」 「ふつーそれもっと早く聞くとこでしょ。まあいいや。さっきの質問だけど」  長めの前髪をかきあげながら男は斜めがけした鞄から書類を取り出した。 「質問なんて……」 「え? さっき俺死ねなかったとか言ってなかった?」 「ああ、そのこと」  いや待て、何で自殺しそこなってるのに、普通に話をしているのか自分でも分からない。たぶん世間話でもするみたいな目の前の男のせいだろう。 「あんたの状態は、死んでないけど生きてもいないっていう、まあ……生きてた頃と同じ中途半端な感じなんだよ」  今、相当酷い事を言われてないか? 「おまえ、俺の何を知ってるんだよっ」  掴みかかろうと出した手をあっさりと避けて、男は「はい」と手にした書類を寄こしてきた。 「なんだ、これ?」 「自己紹介がまだだった。ええと俺は貫太郎って言います。冥府招魂課の職員で新人のあなたの担当教官です。よろしく」  手を出されて空いていた手で思わず握手してしまったが貫太郎というちょっと古臭い名前の男が言った意味がまるで分からない。 「冥府? 招魂? 新人? 担当教官?」 「まあまあとりあえず、いいからさ、ここに名前書いてよ」  とんとんと書類を人差し指で叩きながら、胡散臭い不動産屋の親父みたいな事を言う貫太郎に紙を突き返してやった。 「何だよ、俺にちょっかい出すのは止めろ。変なもん売りつけようとしても無駄だ」 「えっと……どう言えば……」  顔にぶつけられた書類を手に怒るでもなく、貫太郎という男は天を仰いだ。こいつは頭がおかしいんじゃないだろうかと密かに俺は思う。  長めの前髪でよくは見えないが、細面のすっきりした顔だろう。手足も長く背は自分と同じか、ちょっと高いくらい。もう少し、逞しかったら好みとも言える。フード付きのパーカーにストレートのデニムというありがちな服装で、俺も休日はこんな格好だ。そこにバイク便の兄ちゃんがかけていそうな鞄を斜めがけしていた。  だが、ビルの屋根に落ちていた俺の前に普通にいるところがすでに変だ。でもって変な勧誘活動をしているのが怪しすぎる。もしかして新手の宗教の勧誘なのか。 「俺、無宗教だから」 「……そうなの? さて、これに名前書いてよ。書かないとどっちにも行けなくなるよ、おたく」 「どっちもって?」 「生と死。それとも幽鬼になってそこら辺で彷徨っていたいんならそれでもいいけど?」  そこにカアと大きな鴉の鳴き声がした。  すると男が鴉の鳴き声に反応したかのようにデニムに挟んでいたものを素早く抜く。 「伏せろっ」  頭を乱暴に押さえられた俺の頭越しに貫太郎の持ったオートマティックの拳銃が唸りを上げる。そこから出たのは青白い光で、知らぬ間に大口を開けて向かってきていた深海魚みたいな物体はべちゃりと粉砕された。スライム状の塊がそこら中にべたりとひっついたと思うと即座に白い煙と共に消える。 「……い、今の何?」 「今の? ああ、これに名前書かないとあんたがなるもの」 「えええ?」  ――あの深海魚みたいなもんになる? そ、それは 嫌だっ。っていうか、拳銃ってここは日本じゃないか。やばい、こいつヤバ過ぎる。死ねないのならここは名前を書いて解放されたら警察に出頭しよう。同じ捕まるんでもこいつだけは嫌だ。訳が分らな過ぎる。  震える手で貫太郎が指さした場所に名前を書いた。 「はい、これあんたの控えね」  貫太郎はやれやれと笑って俺を見た。そこへ彼の肩にさっきの嘴の一部が白い鴉がとまる。 「では改めて。黒宮 櫂君、今日から君は冥府招魂課臨時職員です。わたしは指導教官の貫太郎。で、これは俺の相棒の『ちょっと白』。どうぞよろしく」  挨拶のようにカアと貫太郎の肩の鴉が啼いた。 「冥府? 臨時職員?」  俺は知らぬ間に死神になっていた。
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