6人が本棚に入れています
本棚に追加
■
その年の四月二十日は、土曜日だった。
件のビルにも正式名称はあるのだろうが、「墜落ビル」の名前があまりにも有名になってしまっている。
地上十二階建ての、周囲のそれらよりはやや背の低い、古めかしいビル。
十年間で四人が、屋上から飛び降り自殺している。だから墜落というよりは飛び降りビルなのだが、さすがにそこまで直接的な表現は、誰しも気が引けるのだろう。
当然、今ではしっかり施錠がされているはずだった。しかしどうした具合か、この日は屋上へ続く鍵が開いていた。
「き、君、止まってください」
薫子の必死な声は、今まさに屋上の手すりを乗り越えた男子中学生に向けられている。
「お願いですから、は、早まらないで」
黒いロングヘアが、風に弄ばれて暴れる。薫子と同じくらい黒い髪の少年は、手すりの向こうから薫子を見つめ返した。
「お姉さん、どなたか知りませんが、止めないでください」
「と、止めます。いいですか、飛び降りるのはいつでもできますから、その前に私とお話しましょう。そのままでいてくださいね」
「お姉さん、僕はですね……」
そして明日磨は、その日まで抱いてきた苦悩を薫子に告白した。
唐突な告白ではあった。薫子が、驚きで目を見開いている。
「それでもお姉さんは、僕が飛び降りないべきだと思いますか?」
「あ……」
「あ?」
「あったりまえじゃないですか!!」
「う、うわっ!?」と明日磨がたたらを踏む。
「ああっ! 飛び降りてはいけません!」
薫子が明日磨に駆け寄り、その手首を掴んだ。
「い、痛い! ち、違う、今のはお姉さんの剣幕にびっくりして」
「どこの誰ですか、そんなことを言ったのは! 私は暴力は嫌いですが、今すぐ懲らしめてやります! 案内してください!」
「誰って、学校の皆ですよ……」
「先生は何をしてるんです!?」
「気にするな、とだけ言ってましたね」
「君にじゃありません! 君にそう言った人たちにです!」
「いや、まあ、特に何も……」
「特に何も!?」
薫子はひらりと手すりを乗り越え、明日磨と同じくビルのへりに立った。
「あ、危ない! お姉さん、ちょっと向こうに戻って! なんでこっちに来たんですか!?」
下方からビル風が吹き上がってくる。それだけで、二人の足元は危うい。
「いいですか、私が必ず、君が受けた理不尽な仕打ちの仇を取ってあげます。それまで決して、早まったことをしてはいけません。いいですね!?」
「は、はいっ。分かりました、分かりましたから胸元で握り拳して手すりから手を放さないで!!」
「え? ひ、ひええっ!?」
「ぼ、僕じゃなくて手すりを掴んでくださいうわあ怖い痛い落ちるううう!!」
幸い、喧騒は誰にも見とがめられることなく。
二人は、手すりの内側へと戻った。
最初のコメントを投稿しよう!