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あの子がいなくなった
とある国に王子様がいました。王子様には幼馴染で婚約者の右大臣の娘がいました。彼女は優しくてよく笑う少女でした。王子様はそんな彼女が大好きで大切でしたし、婚約者であることを心底嬉しく思っていました。小さな王子様は彼女の手を引いて
「ずっと一緒だよ。俺が守るから。」
と言っていました。お城の裏庭に生えているシロツメクサを摘んでは指輪やら冠やらを少女に渡して、将来を誓っていました。彼女もそれを嬉しく思っていましたし、将来王子様と結婚することを信じて疑いませんでした。
けれど王子様が彼女より明らかに身長が高くなり、手の平が彼女の拳を軽々と包みこめるようになるころから、王子様は素直になれなくなってしまいました。将来結婚するのは決まっているのだから気にしなくてもいいのに、周りの友達に揶揄われるのも、可愛らしいだけじゃなく美しくなっていく少女を見るのも恥ずかしくて仕方なかったのです。
当たり前のように繋いでいた手をほどいて、当たり前のように毎日会っていたのをやめました。意図的そうして少し経つと、今度は触れたくても触れるのが怖くなりました。少女が自分をどう思っているのか分からない。もしかしたら嫌われてしまっているかもしれない。嫌がられないように優しく触れて、それで拒絶されたらどうしよう。だって触れ方が嫌な触れ方じゃないのに嫌がられたら、それは俺が嫌ってことじゃないか。それでも王子様は彼女に触れたくて仕方がありませんでした。彼女は冷たくなった王子様に対して以前と変わらぬように微笑んでくれます。分かっているという風に。その笑顔が大人びていて、変わっていないはずなのに彼女がどんどん変わっていって、自分が置いていかれてしまっているような気がしたのです。
触れたい。怖い。置いていかないで欲しい。素直になれない。傍にいたい。恥ずかしい。笑われたくない。けれど、どうか、嫌わないで欲しい。
こんなにも自分は彼女が眩しく見えて、以前と同じようには見ることが出来ないのに、彼女は自分を子供の時からずっと同じように見ているのではないか。王子様はそんな風に思いました。そんなのは嫌でした。もっと自分と同じように自分を見て欲しい。他の誰とも違う風に見て欲しい。
たくさんの想いがグルグルしている王子様は庭のベンチで俯いていました。王子様を心配してやって来た彼女は王子様に声をかけ、手を伸ばしました。
パンッ
乾いた音がして、王子様は目を見開きました。少女も手に走った痛みに目を見開きました。そうして目と目が久しぶりにあって、王子様は思いました。彼女が自分に誰にも見せたことが無いような表情を向けていると。
(ああ!もっと早くこうしていれば良かった!!)
王子様が彼女に手を上げるようになったのはこの日からでした。だって掴めば、殴れば、彼女に触れられるのです。嫌がることをしているのは分かっていました。だからこそ彼女が嫌な顔をするのは暴力によるものであり、自分への嫌悪ではないと思うことが出来ました。そして彼女の表情に怯えやら絶望やら、今まで彼女が他の人に見せたことがないような表情が見えて、王子様は大変満足しました。
けれどそれもすぐに薄れました。怯えや絶望は良い感情ではありません。王子様は好きな子にそんな感情を向けられたいわけではありません。だからそんな感情を浮かべる彼女にイライラが募って暴力はエスカレートしてしまいました。
ある日王子様に一つの縁談が持ち込まれました。それは右大臣の娘である彼女と結婚するよりも利益が大きいものでした。しかし王子様は彼女のことが好きでした。そう言えば王様は顔を歪めました。
「もうお前たちの関係はどうにかできるようなものじゃないだろう。」
王子様は頭が真っ赤になりました。何かを言った気がしますがあまり覚えていません。気が付いたときには近衛兵に連れられて部屋から追い出されていました。王子様は呆然としてから縁談を思い出して髪をかき回しました。イライラしてどうにもなりません。ここ最近の発散方法は彼女に手を上げることで解決していた王子様です。無意識のうちに彼女を探す彼の目の前に一人の女性が現れました。それは以前社交の場であったことがある隣の国の姫、今回の縁談の相手でした。
「こんにちは。」
「こんなところで奇遇ですね。ただ、あいにく今は急いでいまして。」
その場を後にしようとする王子様に姫は言いました。
「あの子を殴りに行くの?」
その言葉に王子様は足を止めました。城の人たちにある程度知られているのは知っていましたが隣の国の人にも知られているとは思わなかったのです。振り返れば姫はにっこりと笑っていました。
「痛い思いをさせるなんてダメじゃない。あの子はあなたをずっと好きだったのに。」
そう言って笑う姫はまるで人間じゃないもののようでした。隣の国では魔法やら妖精やら不思議な術を使うのだと聞いたのはいつのことだったでしょう。王子様はいても経ってもいられなくなって走り出しました。姫が怖かったからではありません。好きな少女に会いたくて仕方がなかったのです。会いたくて、顔が見たくて、存在を確かめたくて仕方がなかったのです。
そうしてたどり着いた彼女の部屋。扉を開けると部屋の中には誰も誰もいませんでした。落とされた証明、開け放たれた窓。窓から入ってきた風がカーテンをふわりと揺らしていました。王子様には窓の外を見る勇気がありませんでした。ただ、大好きだった少女がいなくなってしまったという事だけは分かってしまいました。そう、王子様は大好きだったのに大切にしなかったのです。接し方を決定的に間違ってしまったのでした。
少女が泣いている。部屋の隅っこで膝を抱えて。
「痛いの?」
尋ねれば頷かれた。ならば痛くて泣いているのか。尋ねれば首を振られた。
「怖いの?」
尋ねれば視線を彷徨わせた。単純に怖いわけでは無いらしい。一体どうすれば良いのだろう。何が少女を泣かせているのだろう。少し困りながら尋ねれば少女はしゃくりあげながら言った。
「あの子が、いなくなっちゃった。」
「私のことを大好きだって、大切だって、守るって言ってくれたあの子が」
「優しいあの子が、いなくなっちゃった。」
そうか。あの王子様は既に少女の中では好きだった人ではないらしい。既に、別物。そんなものに縛られていても意味がないだろう。いなくなったなら戻ってくるとは限らない。
「そろそろ楽になっても良いんじゃないかな。」
そう言って頭を撫でれば少女は静かに頷いた。
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