月天の下にて哭く

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 昔人(むかしびと)の語りて曰く── 「望月の夜には出歩いてはならぬ」  わたしの村の子供達は、そう言い聞かされて育ちました。わたしも、おっ父やおっ母に小さい頃からなんべんも言われていました。  わたしの村は、山合いの静かなところでした。皆で小さな段々畑や田んぼを耕して暮らしていました。  山の向こうではたびたび戦もあるという話ですが、ここまでは及んで来ませんでした。時折やって来る行商の人や街に作物を売りに行った村人達の話を、わたし達はまるでよその国のことのように聞いていました。  村の外れには高い石段があり、その上のお社には山神様が祀られていました。山神様は村に豊作をもたらす神様ですが、同時にとても恐ろしいものでもある、と言われていました。  小さい村でしたので、子供であっても畑や家の仕事はしなければなりません。わたしも鶏の声と共に朝早く起きて、水汲みなどをしていました。  村の共同の井戸から水を汲んで、何度も台所と往復します。まだわたしの力では、桶を一つ持つので手一杯です。 「さよ姉、水汲んで来た」 「済まぬな、たえ。水瓶に入れておいておくれ」  さよ姉は、わたし達兄弟の一番上の姉でした。今年十六になり、村で一番の器量良しと言われていました。近いうちに村の若い者の誰かと夫婦になるのだろうと、わたしも周りも何となく思っていました。  きっとさよ姉の花嫁姿は綺麗だろうな。そんなことを思いながら、わたしは再び井戸に向かいました。  その人達が来たのは、突然でした。  おっ父やおっ母に言われ、わたしは山へ焚き付けの小枝を拾いに行きました。せっせと燃えやすそうな小枝を拾っていると、不意にそばの藪からガサガサという音が聞こえて来ました。  わたしは山の獣かと思って身をすくませました。でもわたしの目の前で藪をかき分けて出て来たのは、立派な鎧を身に着けたお侍様でした。 「これ、そこな娘!」  お侍様は、わたしを見つけると声をかけて来ました。 「この近辺の村の者か?」  わたしは何だか怖くて、黙ってうなずきました。 「丁度良い。我らが逗留し、休める場所を探しておる。適した場所はないか」  声をかけて来たお侍様の向こうに、もう一人鎧を着たお侍様が、お付きの人に支えられるようにしているのが見えました。どうやら身分の高いお侍様のようでした。他の御家来衆も含め、御一行は全部で四〜五人はいるでしょうか。  ここは小さい村なので、宿などありません。わたしは、御一行を村で一番大きな名主様の屋敷に案内することにしました。 「かたじけない」  もう一人のお侍様は、どうやら怪我をしているようでした。最初に声をかけて来たお侍様よりは大分若く、さよ姉より少しばかり歳上なだけに見えました。でも、着ている鎧は他の方々よりも豪華な感じだし、他の方々の態度もこのお侍様にかしづいているようでした。  きっとこちらのお侍様の方が偉いのだろう。子供のわたしでも見当が付きました。  兜の下から垣間見えた若いお侍様の顔立ちは、村の若い衆とは全く違っていました。凛々しく美しい、正に若武者と言った風情のお方でした。  お侍様の御一行を名主様のお屋敷まで連れて行くと、村中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになりました。  あの若いお侍様はこの国のお殿様の息子──つまり、この地の若様だったのです。わたしに声をかけて来たのは、若様のお守役の方でした。  今この国は隣の国と戦をしていて、若様は初陣を飾られたのですが、敵襲を受けてお怪我をされました。守役様と御家来衆が若様を守り、この村まで落ち延びて来られたのでした。  村の男衆が総出で若様の前にひれ伏し、お迎えをしました。御一行をもてなすご馳走を作るべく、作物や山の幸が持ち寄られました。お怪我の手当や身の回りのお世話は女衆の方が良かろうと、村の女達も集められました。その中には、もちろんさよ姉の姿もありました。  心づくしのご馳走や熱心な手当てが効いたのか、若様は見る見るうちに元気を取り戻しました。  そしてそのまま、日にちが経って行きました。  守役様達は、最初のうちはここまで敵の追手が来るのを恐れていたようで、毎日代わる代わる村の外れまで物見に立っていました。  しかし、さしもの敵もこちらの山の中までは追って来ず、村は平穏なままでした。  これはもう大丈夫だろうと守役様は考えられたようで、殿様のいらっしゃるお城に若様の無事を知らせるべく、使いに立たせました。  お使いの方は若様についていた御家来衆の中では一番の俊足で、あっという間に峠を越えて行きました。お使いの方がお城まで戻ればすぐにでも迎えが来るだろうと、守役様も御家来衆もほっとした様子でした。  その夜は、明るい満月の夜でした。  夜半、わたしの隣で寝ていたさよ姉がそっと起き出したのに気づいたのは、わたしだけでした。他の家族はみんなぐっすりと寝入っています。さよ姉は皆を起こさないように、そっと家を出て行きました。  わたしはさよ姉のことが気になって、同じように忍び足で外に出ました。満月の夜は出歩いてはいけない。それなのに、さよ姉は何処に行くのかと。  さよ姉は確かな足取りで夜の道を急いでいました。わたしは、さよ姉を見失わないように気をつけながらも、恐る恐る歩いていました。明るい満月が、まるでこちらを見ているようでした。  わたしの胸はどきどきしていましたが、それは夜道が怖いからなのか、禁を侵していることで気分が高まっているからなのか、さよ姉の秘密を垣間見ようとしているからなのか、わたし自身にもわかりませんでした。  やがて、さよ姉は立ち止まりました。物陰から、誰かが姿を見せました。 「──さよ」  その人がさよ姉に呼びかけました。 「若様……!」  月明かりに照らされたのは、確かに若様の姿でした。二人はひしと抱き合いました。 「お逢いしとうございました」 「わしもじゃ、さよ」  月明かりの下で口付け合う二人を見て、わたしはそろそろとその場を離れました。わたしの足取りは徐々に早足となり、二人の姿が見えないところまで来る頃には全速力で走っていました。  どういうわけか、涙がぽろぽろとこぼれていました。図らずもさよ姉の女の一面を見てしまい、動揺していたのかも知れません。そのままわたしは、夜の村を駆け抜けました。  いつから二人がそんなことになっていたのか、わたしには判りません。さよ姉も若様のお世話をするべく名主様のお屋敷に行っていたので、その時に見染められたのでしょう。  ……祭りの夜、手に手を取ってそっと祭の輪を去って行く若い衆と娘の姿を何度か見た覚えがあります。  月明かりの中で逢引をしていたさよ姉達の姿を見ると、「望月の夜に出歩いてはならぬ」というのはもしやそういうことであったのかと、何とはなしにそう思いました。  翌朝、さよ姉は何事もなかったかのように働いていました。その姿は昨日までと同じようにも、何かが少しだけ違っているようにも見えました。  それから何日かして、お城からのお迎えの方々がやって来ました。馬に乗った若様はやはりとても凛々しく美しく、でも見送りに来たわたしやさよ姉の方はちらりとも見ませんでした。  こうして、若様達はこの村を去って行ったのです。  若様達が去り、村には元通りの平穏な空気が戻って来ました。お殿様からは若様が世話になった礼として、名主様を通じて村へご褒美をいただきました。しかし、それはあくまでも村全体のことで、若様からさよ姉には何も便りなどはありませんでした。  さよ姉は、一見以前と同じように振る舞っていました。畑を耕し、炊事や洗濯をし、弟や妹の世話をしていました。  でも、人の見ていないところでは、さよ姉は一筋の涙をこぼしたり、ため息をついたりしていました。さよ姉のそんな姿を知っていたのは、わたしだけだったと思います。さよ姉は誰にも自分の内心を見せませんでした。  次の満月の夜。わたしの隣で寝ていた筈のさよ姉が、そっと床を抜け出した気配がしました。 (若様はもう居らぬというのに、さよ姉は何処へ行くつもりだろう?)  気になって、わたしは前と同じようにさよ姉の後をつけて行きました。さよ姉は迷いなく、何処かを目指して歩いています。見知った道である筈なのに、夜の道は昼とは全く違ったように見えました。  辿り着いたのは、高い石段の上にある山神様のお社でした。鳥居をくぐったさよ姉は奥のお社に柏手を打ってお祈りし、鳥居のところまで戻って来ると、そこに小石を一つ置きました。再びお社まで行ってお祈り、鳥居まで戻って石を置きます。さよ姉はそれを何度も繰り返していました。  ──さよ姉は、お百度を踏んでいたのです。さよ姉の表情は真剣で、鬼気迫るようにも見えました。わたしは何だか怖くなって、帰ろうとしました。  その時。  わたしの足下で、草ががさりと音を立てました。静かな夜の空気の中、わずかな音でもよく響きます。 「誰じゃ⁉」  さよ姉の声が飛びました。 「誰か居るのか?」  わたしはおずおずと出て行きました。 「たえ……!」 「許してさよ姉、夜中に出歩いて。さよ姉のことが心配になってしもうて……」  さよ姉の表情が和らぎました。わたしに近寄り、優しく抱き締めてくれます。 「良いよ、たえ。こちらこそ済まぬな、たえに心配をかけて」  手をつないでの帰り道、さよ姉は説明してくれました。 「望月の夜に山神様のお社でお百度を踏むと、どんな願いも叶うという。ただし、月の出ている間でないとならぬし、人に見られてもならぬ。だから望月の夜は、出歩いてはならぬのじゃ」  ならば、わたしはさよ姉の願いを邪魔してしまったことになります。わたしは泣きたくなりました。 「……済まぬ……」 「気に病むな。恐らく、山神様でも(われ)の願いは叶えられぬじゃろうから」  さよ姉の願いは、若様に関することに違いないのです。口ぶりとは裏腹に、さよ姉の表情は苦しみをこらえているようでした。でも、月の光に照らされたさよ姉は、とても綺麗に見えました。  ……結局、さよ姉の願いは叶えられませんでした。  隣の国との戦が終わり、和睦の証として隣の国の姫様が若様の正室としてこの国に入ったのです。  この村までその話が伝わった頃には、婚儀も何もかも終わった後でした。お城では華やかにお祝いの宴が開かれたそうですが、わたし達は噂でその様子を聞くしかありませんでした。  さよ姉は、ただ微笑んでその話を聞いているだけでした。  しばらくはいつも通りの日々が続きましたが、それも長くはありませんでした。  隣の国とは比べ物にならないくらいの大国が、この辺り一帯を統一しようとこの国に攻め込んで来たのです。  大きな戦は、この村の者も否応なしに巻き込んで行きました。ある者は戦に駆り出され、またある者は手柄を取って立身出世を目指そうと自ら戦に向かいました。  ですが、相手は大国です。兵の頭数も、刀や槍や弓矢も、兵糧も、向こうの方がたんとありました。この国の兵は段々と押されて行きました。  あの砦が落ちた、あの地の偉いお侍様が討たれた。そのうち、お殿様のお城も落ちるかも知れぬ。いや、落ちるのも時間の問題だろう。そんな話が、村人達の間でもひそひそとささやかれるようになりました。  さよ姉は、そんな話を無表情で聞いていました。  長月の満月の夜でした。煌々と輝く月が、天高く登っていました。  真夜中、さよ姉が起き出して来たのがわかりました。さよ姉はわたしの耳元で、そっとささやきました。 「たえ。そのままで聞いておれ」  わたしは寝たふりをしながら、さよ姉の言葉を聞いていました。 「今宵、我は再び山神様のお百度を踏む。……ゆめゆめ、ついては来るな」  わたしは目をつむったまま、こくこくとうなずきました。それを見て安心したのか、さよ姉はそろりとわたしの元を離れ、外へ出て行きました。  ──そして、朝になっても、さよ姉は帰って来ませんでした。  村の者が総出で探しても、さよ姉は見つかりませんでした。きっと神隠しに遭ったのだろう、ということになりました。  その夜。  十六夜の月が、満月と同じくらいに村を照らしていました。  わたしは何か胸騒ぎがして、夜中に目を覚ましました。外に誰かがいるような気配がしました。もしや、さよ姉が帰って来たのかも知れない。  わたしは外へさまよい出ました。月が叢雲に隠れました。月が隠れた暗がりに、誰かが立っているのが薄ぼんやりと見えました。 「さよ姉、か……?」  顔は見えませんでしたが、それは確かにさよ姉だと思われました。 「たえ」  さよ姉の声。 「帰って来たのか、さよ姉!」 「寄るな!」  嬉しくて駆け寄ろうとしたわたしに向かって、さよ姉の声が飛びました。わたしは驚いて、その場に立ちすくみました。 「それ以上、近寄ってはならぬ。……我は山神様の眷属となった。そなたらとは、最早相容れぬ」  雲が切れ、月の光が人影を照らしました。月明かりの下で浮かび上がったその姿は、すでに人のものではありませんでした。  頭には二本の角が生え、眼は金色にぎらぎらと輝き、爪は長く鋭く伸び、全身に血を浴びて真っ赤に染まっていました。  そして、その腕に抱えられていたのは、若様の首でありました。 「さよ姉、それは……」 「お城は落ちた。お殿様も討たれた。──何処の誰とも知れぬ者に討たれるより先に、我がこのお方に引導を渡したかった」  愛おしげに、さよ姉は首を撫でました。 「二度とは離さぬ。これより先は、永遠(とわ)に共に居ろうぞ」 「さよ姉は……それでいいのか?」  思わず、わたしはさよ姉に訊いていました。人を辞めてしまって、愛しい人を殺して手に入れて。それで、さよ姉は満足なのか。金色の眼からは、後から後から血の涙が流れ出ているというのに。  わたしの問いに、さよ姉は寂しげに微笑みました。 「最初から判っておったよ、我とこのお方が結ばれることなどあろう筈がない。共に居るには、こうするしかなかった。これは我自身が望んだこと。……なれど、何故(なにゆえ)にか哀しみが止まぬ……」  そして、さよ姉はまっすぐにわたしを見据えて言いました。 「いいか、たえ。そなたは我のようにはなるな。──この、恋に狂った姉のようにはな」  再び月に雲がかかろうとしていました。さよ姉は、静かにその暗がりに消えて行きました。 「さらばだ、たえ。おっ父とおっ母には、さよはもう死んだと伝えよ」  声だけが風に乗ってわたしの耳に届きました。  それから後、さよ姉の姿を見ることはありませんでした。  何日かして、お城が落ちたという話が村まで伝わって来ました。人の話では、兵がお城に攻め入る時、お城に鬼が居ったとか。若様を討とうと兵が入った時には、若様はすでに首が取られていたとか。鬼が若様の首を持って天空に姿を消したとか。そんな噂が人々の口の端に登り、やがて消えて行きました。  村の者達はそれからも、何度か戦に巻き込まれながらも変わらず田畑を耕して生きて行きました。  わたしも成長して、村の若い衆の一人と夫婦(めおと)になり、子供をもうけて暮らしておりました。  ですが、今でも月の明るい夜になると、山の奥から女とも獣ともつかぬ声が哭いているのが聞こえる気がするのです。  ほら、今宵も──月天の下にて、鬼が()く。    ◇  昔、或る村に娘ありけり。  領主の若君、村を訪れて娘と契り、捨て置けり。  娘、悲しみて鬼と化し、若君の首を取りて何処にか去らむ。  誠に恐ろしきものよと、人の口に上らむ。 (とある説話集より)  月天の下にてぞ哭く 我が戀は  想ひつのりて 鬼と化しなむ (詠み人知らず)
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