もしも私達がいつかここから居なくなってしまうとしても(金継ぎ師弟の恋にはなれない恋の話・〇.七)

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   * 「こんにちはー、平取です」  途中のおにぎり屋さんで買ったおにぎりとインスタント味噌汁を持って、玄関を開けて声を掛ける。  返事がない。仕事中かな。  勝手知ったる師匠の家だから、勝手に上がる。でも、邪魔しないように、なるべく静かに。  作業部屋の戸を音を立てない様に開けて、気配をころして、そーっと覗く。  ……ああ、やっぱり。  また先生の周りだけ、時間が止まってる。  音も聞こえないし、風も吹かない。  真空みたいな、水底みたいな。  でも、筆を持ってる右手は、淀みなく動いている。力んでもいないし、気負ってもいない。ただ淡々と線が描かれ、あるべきところに漆が置かれる。  生きてるって、こういう事を言うんだな。  ……なんて、変なことを想う。 「エプロン、そこ。」  声を掛けられて、はっとした。  気付かないうちに、筆は置かれていた。いつの間にか手じゃなくて横顔を見てたらしい。  自分の間抜けさに、顔が熱くな……  ……ったのは、束の間だった。 「……先生?」 「何だ」  先生が、筆を洗いながら答える。 「エプロン……もしかして、私が脱いだそのまんまですか?」  前回私が座った椅子の上に、ぐちゃっと。シワっと。だらしなく。脱いだままの形で、エプロンが置かれている。 「そのまんま以外にしてやる理由が俺に有んのか?」  無い。無いよね。  先生は、先生だもんね。 「……ご連絡、ありがとうございました。教室、急に休んで、すみませんでした」  エプロンを、畳んでビニール袋に入れて仕舞う。畳むのに手袋した方が良いかなって一瞬思ったけど、その位ならと思って素手のままにした。 「気にすんな。教室つっても、どうせお前と俺だけだ」  先生が筆を片付けながら言うのに、持ってた袋を差し出した。 「変更、来週の同じ曜日の、同じ時間でお願いします。……で、これ、お詫びとお礼です」 「何だ?」  受け取って中を見た先生は、嫌そうな顔をした。 「おにぎりです。」 「……誰の?」 「先生のです。」 「こんなに、食えるかよ……」 「食えます。食ってませんよね?」  決め付けたら、無言でますます嫌そうになった。  買ってきて良かった。この顔は、絶対、何も、食べてない。 「二食分ありますから。お味噌汁はお湯注ぐだけです、お茶淹れるついでに作れます。半分食べて、残りは冷蔵庫に入れといて、明日中に召し上がって下さい。ではまた来週」 「待て、千都香」  ぺこっと頭を下げたら、呼び止められた。 「はい?」 「これ、お前も食え。」 「え。私はもうこれで失礼」 「じゃあ返す」  返されても。けれど、そう言った先生はものすごくぶすっとしていて、寄せられた眉の下の目は、ものすごく本気だった。  諦めよう。仕方ない。 「……分かりました。お湯沸かします」  私は先生の手からさっさと袋を受け取って、台所に入った。
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