生き延びた月の下

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妹の咎めるような視線に耐えきれなくなって、私は立ち上がった。 「コンビニ行ってくる。あんたは何か欲しいものないの?」 妹は一瞬目を見開いたが、あきらめたように首を横に振った。 「何もいらない」 「そう」 私は静かに和室を出た。障子を閉めるとため息がこぼれた。財布だけを握りしめて外に出ると、三日月がすっかり高い位置に登っていた。今日は月がやたら明るくて、外灯の少ない田舎道もそう暗くはない。虫の鳴き声に耳を澄ませながら徒歩15分の道をたどる。母は、月が好きだっただろうか。ふとそんなことを思う。月を見上げる習慣が、あの人にあったのだろうか。そんなことさえも私はしらないのだった。かつて頻繁に歩いた道を歩けども歩けども、母との良い思い出はよみがえってこない。この道で突き飛ばされたなとか、髪を掴まれたなとか。あんたなんか産まなきゃよかったと叫ばれたなとか。そんなことばかり思い出す。母は、私を憎んでいた。子育ての苦手な人だったわけではないと思う、妹は立派に育ち、母のために泣けるのだから。私が悪かったんだろう。私が、全部。殴られて育ってきても、詰られて育ってきても、私は生き延びたから。生き延びたのだからそれは結局のところ親のおかげなのだから感謝すべきなんだろう。いつまでいじけてんのと何番目かの彼氏に呆れたように言われたこともあった。もう大人なんだから、いつまでも親のせいにするなよと。何も知らないくせに、と私は叫んだ。その叫び声は母親が私を責めるときと同じ声だった。どうして。私を苦しめた人間と私はどうしてこんなにも似ているのだろうとそのとき絶望した。なんのことはない、親子だからだ。親子だから私たちは似ている。親子なのに愛し合うことができなかったのに、なのにそれでも似ている、親子だから。母親はいつも私に冷たかった。幼児の頃、私が転ぶと母は激怒した。人前であっても大声を出した。おまえは、どうして、そんなに、どんくさいんだ!! ごめんなさい、おかあさん、ごめんなさい…… できることなら、私は、死んだ母ではなく、あの頃の自分を抱きしめてあげたい。 泣くな、転んだくらいで泣くんじゃない! じゃあお母さんが死んでも泣かなくていいよね、お母さんが死んだくらいじゃ泣かない、それでいいよね、私。母の葬儀の後だと言うのに。喪服で歩いているというのに。涙は一滴もこぼれない。妹と母の間には素敵な思い出があるのかな。私がもらえなかったものがあるのかな。こんな考えも「いじけてる」ということになってしまうんだろう。苦しかった、愛されたかった、しんどかった、それを証明するには死を選ぶしかないのだ。生き延びたのだから大したことはなかった、というのが世間の目だ。虐待死した子供たちに優しい言葉を与え、殺した親に憤り、だけど生き延びた、かつて子供だった人間にはいつまでもうじうじするなと叱る。いくつ不幸を抱えていたって、生きている限りは頑張らなきゃならないのだ。生きている限りは元気じゃなきゃならないのだ。普通に振る舞わなきゃならないのだ。当たり前に三食食べさせてもらい、転んだら優しい言葉をかけてもらうような普通の子供時代を過ごした人たちと同じように生きなきゃならないのだ。私は、生き延びたから。
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