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私は生きている。ひどい傷跡が残ったわけじゃない。私は生きている。
ふと足を止めて空を見上げた。月はそこにあり、優しく光を注いでくれる。月が好きな人がいた。母の妹だった。中学三年生の頃だった。母の妹の英子さんが尋ねてきて、私の進路はどうするのかと訊いた。母は煩わしそうに、適当に就職するでしょと答えたのだ。部屋の隅で正座をさせられていた私もそのつもりだった。高校は出してもらえないと思っていた。英子さんは嫌そうな顔をしていた。「今時、中卒で仕事なんかないでしょ。あんたこの子にすねかじられたいの?」「そんなわけない。義務教育を終えたらさっさと出て行ってもらう」「家を出すのは良いけど、中卒で仕事なんかないよ」「風俗でもなんでもやればいい。体を売って生きていくしかないよこの子は」「この子の器量じゃ男は買わない。高校だけは出さんと、結局お姉ちゃんが馬鹿を見る。売春婦の姉がいるんじゃ、下の子の就職や結婚に差し障りがあるかもしれない。お姉ちゃんが馬鹿を見る」英子さんの言葉に私の胃の腑は冷えていき、母はいらいらと顔を歪ませていた。「お姉ちゃん、お金が惜しいなら私が出そうか」英子さんはそんな提案をした。私はぎょっとして英子さんを見る。英子さんはこちらを一瞥もせず、睨むような目をする母ばかり見ていた。「私だって姪っ子が売春で警察沙汰なんかになったら嫌だし。どんなに嫌でも血のつながりは切れないからねえ」「……あんた、昔っからこの子を引き取りたいって言ってたね」初めて聞く話だった。「今はそんなこと思ってないよ。この子、年々お姉ちゃんの前の旦那に似てきてるし。下の子はお姉ちゃんに似てるのにね。お姉ちゃんがこの子を嫌うのもわかるよ。でも高校は出しとかないと。あそこの家の子は高校にも受からなかったってひそひそされたくないでしょう」母はしばらく考えていたが、深く深く深く息を吐き出した。「あんたが全部出すって言うなら」「うん、全部出すわ。受験料も入学費も制服代も。私は気楽な独り身だからね」母と英子さんの話し合いに、生まれて初めて胸が高鳴った。高校に行けるなんて。高校生になれるなんて……。その日、遅くまでうちで過ごした英子さんは、帰り際に言った。「だれか駅まで送ってよ」母は面倒だから嫌だと言い、妹はもちろん夜中に出歩かせるわけがなかった。「じゃああんたでいいわ。送って」英子さんは嫌そうに言うと、私の腕をひっつかんで一緒に家を出たのだった。そうだ、あの日も、今日みたいに月が高く上っていた。三日月だった。英子さんは私の腕を引いて黙ってずんずん歩いていたけど、しばらくして立ち止った。振り返った英子さんは綺麗な優しいほほえみを浮かべていた。
「大きくなったね」それはとても優しい声だった。「さっきはごめんね。器量が悪いとかいって。あなたは世界一かわいい。お父さんに似てるなんて言ってごめん。あなたは両親には似ていないよ。私に似てる」英子さんは私の手をそっと握りなおした。少し早口だけどしっかりと英子さんの気持ちが伝わってた。伝わったからこそ意味が分からなくて怖かった。「高校に行きなさい。商業高校とか、専門学校とか。そういう、資格が取れるところ。そして卒業したら逃げなさい。おばちゃんに言えるのはこれだけ」「英子さん……」胸が詰まって何も言えなかった。そう、お礼の言葉すらも。「ねえ見て、月。私月が好きなの。綺麗だよねえ。自分から光ってないなんて信じられないよね」私も英子さんに倣って月を見上げた。月がきれいだなんてその瞬間まで知らなかった気さえするのだ。「月はねえ、いつかは必ず満ちるでしょ、そしてまた欠けるけど。また満ちる。その繰り返し。だから生きてね。生き延びてね。今は不自由でも、あなたの人生はあなたのものだからね」握り合った手が熱かった。こんな優しい言葉をかけられたのはきっと生まれて初めてだったのだ。「助けてあげられなくて、ごめんね」何も言えず、私はただぶんぶんと首を横に振った。その英子さんも昨年亡くなったそうだ。母の葬儀にこないので妹に尋ねたらそう教えられた。そのことの方が悲しかった。誰も私に英子さんのことを知らせてくれなかったんだと。妹は困惑顔で、お姉ちゃん英子さんにだって嫌われてたでしょ、高校の費用だって渋々出してもらってたんでしょ?と言ってきた。そうだよ、とだけ答えた。もう偽る必要なんてなくなったのに。妹に英子さんとの真実を語りたくなかった。私は生き延びた。これからも生きてく。普通の顔をして、当たり前な幼少期を過ごした人と同じように。もしも妹が本当に母と同じことを子供にしてしまったら、私は英子さんのようにできるだろうか。
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