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若狭国の入定洞3:頼りになる人たちと共に
洞窟の中は、明かりがないせいで薄暗く、かつ大変狭い場所だった。高さは約一・五メートル。幅は人がふたりも並べば狭く感じるほどで、奥行きもそれほどない。中に、ぽつんと石碑が設置されているだけの場所だった。
ここで、八百比丘尼は「入定」した。入定とは、僧が衆生救済のため、永遠の瞑想に入ることを言う。断食をし、鐘を鳴らし、読経をあげ……体はやがて、即身仏となる。
けれど、私は幽世で活動している八百比丘尼を知っていた。だから、ここで彼女が亡くなったとか即身仏になったとか言われても、正直納得ができない。
すると、洞窟に入るなり、玉樹さんはくるりとこちらに振り返ると、やや得意げに語り始めた。
「さあさ、ここは物語屋の出番でしょうな。聞くも涙、語るも涙――可哀想な、ひとりの女の話をしやしょうか」
「待って、時間がないの。今、それをする必要があるとは思えないんだけど」
「おやおやおや。夏織、急いてはことを仕損じる……そんな言葉をご存知ですかい? 急がば回れ、でもいい。貸本屋の娘だ。知らないとは言わせませんがね」
思わずムッとして、玉樹さんを睨みつける。すると、彼はクククと喉の奥で笑うと、胸に手を当てて、軽く頭を下げた。
「語りたくなるのが、物語屋の性分でしてね。大事な、だぁいじな養父に危険が迫っていると焦るのはわかりますが……少々、お耳を拝借」
「……」
「昔々、若狭にある東勢村というところに、玉のように美しい娘がひとりおりました……」
そして、玉樹さんは語り始めた。初めは不承不承聞いていた私だが、その巧みな話術にすぐに惹き込まれていった。
それは、八百比丘尼が八百比丘尼になるまでの話だった。
娘が十六歳の頃、娘の父親はある男の家での夕食会に招かれていた。その男は、代々その地に住んでいた者ではない。いつのまにか住み着いていたのに、周囲に受け入れられていた不思議な男。
「その男は『竜宮からの土産』だと言って、芳しい香りを放つ、得体の知れない肉を馳走してくれました。ですがね、父親は口にするのを拒んだんですわ。なぜなら、それが『人魚』だと知っていたのでね」
人魚……それは、肩から下が魚、白い二本の腕に子どもの頭を持った奇妙な生き物のことだ。それを、どう調理しようかと料理人たちが相談しているところを、父親は予め目撃していたのだ。
「ですがね、父親は食べはしませんでしたが、妻や娘への土産話のタネにでもしようと、その肉を何切れか持ち帰ったんですわ。……それが、わが子の運命を変えるとは、露ほどに思いもせずに」
娘は、父親が持ち帰ってきたその肉に興味を抱いた。試しにひと欠片だけと食べてみたところ、そのあまりの美味しさに娘は虜になってしまった。結局、人魚の肉片を全部食べきってしまった娘は――それからというもの、まったく老いることがなくなってしまった。
「それからが悲劇の始まり、始まり」
玉樹さんは、にんまりと怪しい笑みを浮かべると、左手を大きく広げて語った。
「娘は大変美しかったので、裕福な家に嫁ぎやした。優しく、嫁を心から愛してくれる素敵な旦那様……娘はたいそう幸せだったそうです。ですが、忘れちゃいけない。娘は決して歳を取ることがない。愛する人は老いていき、『変わって』いく。けれども、本人は『不変』のままだ!」
――それが、どれだけのことか。アンタにわかりますかい?
玉樹さんは、最高に面白いジョークを言った時のように、お腹を抱えながら笑いを堪えている。私は、正直ゾッとしていた。笑えない、笑えるはずがない。愛される人に置いていかれる。愛する人の命が尽きるまでを、まざまざと見せつけられる。いや、愛しているからこそ、最後まで見届けてしまう。それはなんて、恐ろしく哀しいことだろう。
「娘は、それから何人かの下に嫁ぎました。ですがね、結局はすべてに置いて逝かれたんですわ。一説では、その数……三十九人」
「……そんなに?」
「ええ、ええ。多いでしょう? それだけの数を看取ったんですよ。ですがね、人間ってもんは自分と違うものに容赦がない。次第に村人に疎んじがられるようになってしまった」
娘は、生まれ故郷から逃げるようにして出ていったのだという。そして、当時は女性の命であった髪を剃り、出家して……八百比丘尼として全国行脚を始めた。
「八百比丘尼の伝説は、日本各地に残っております。人々を助け、神仏の教えを説く。八百比丘尼が植えた杉の木や、彼女がもたらした『椿』の伝説は今もなお、各地で息づいている。ですがね……やがて、疲れ切った八百比丘尼は、生まれ故郷であるこの地に舞い戻ってきた。なぜなら……」
「――長過ぎるこの人生を閉じるためだねェ」
その瞬間、洞窟の奥からするりと白い手が伸びてきた。
「ぐっ……!」
「余計なことをペラペラと。物語屋というのは、厄介なもんだねェ」
それは、玉樹さんの首に巻き付くと、強い力で締め上げ始めた。途端に、玉樹さんの顔色が青くなり、仕舞いには白くなっていく。
「離せ‼」
その瞬間、水明が動いた。ポーチから取り出した護符を素早く投擲する。すると、それは吸い込まれるように白い手に張り付くと、じゅう、と肉が焼けるような音がした。
「チッ」
すると、その手はするりと玉樹さんの首から離れた。けれども、意識を失ってしまった玉樹さんの襟首を、そのまま鷲掴みすると、洞窟の奥に引きずり込み始めたではないか。
「クロ!」
「わかったよ!」
水明の掛け声と共に、クロが風のように疾く駆けていく。けれども、玉樹さんの姿はあっという間に奥に消えていき、それを追いかけて行ったクロもまた消えてしまった。
「クロ! 玉樹さん‼」
堪らず叫ぶ。けれども、何も返事が返ってこない。不安に思って、思わず後ろを振り返ると、私の横をするりと何かが抜けていった。それは、黒猫のにゃあさんだ。
にゃあさんは、辺りを注意深く観察しながら、石碑の奥へと顔を突っ込むと……そのまま、上半身を壁にめり込ませた。
「えっ……‼ 嘘。にゃあさん⁉」
「夏織、ちょっと黙っていて頂戴」
思わず叫ぶと、まるで何もなかったかのように、にゃあさんはこちらを振り返った。そして、もう一度石碑の奥を眺めると――「この奥、行けるみたいね」と三本のしっぽを揺らした。
「よくわからないけれど、この先に空間が広がっている。随分と広いみたいよ」
「……変ね」
すると、ナナシが怪訝そうに眉を顰めた。
「この先、今は行けないはずよ。大昔はもう少し奥に行けたらしいけれどね。空印寺の和尚が行ってみたら、丹波の山中に出たとかって話もあるわね。空間でも歪んでるのかしら。……幽世じゃあるまいし、変だわ」
ナナシは「どこに繋がっていることやら」とため息を漏らすと、私の肩に手を置いて言った。
「でも――行くしかないわよね?」
「……うん」
私はこくりと頷くと、歯を食いしばって洞窟の奥を見つめた。
……正直、とても怖かった。何が待ち構えているのか予想もつかない。けれど、行かなければ。東雲さんを助けるためだもの、「娘」の私が行かなければ‼
するとその時、誰かが私の手を握った。
驚いて、そちらに顔を向ける。するとそこには、いつもどおりに無表情の水明がいた。
「俺が守るから、安心しろ」
「え……?」
「ひとりで気負うな。俺たちはお前の味方だ。頼れと言っただろう?」
その言葉に、ハッとして周囲を見回した。
そこにいたのは、親友のにゃあさん、私の母代わりのナナシ。それに――……水明。彼らは、ただの人間で特に特別な力を持たない私と違って、それぞれ大きな力を持っている。私なんかよりも、よほど頼りになるはずだ。
……ああ、忘れそうになっていた。
誰よりも頼りになる、私の大好きな人たちが、一緒にいてくれているじゃないか。
その瞬間、肩の力が抜けて気が楽になった。
同時に、水明がやや青ざめているのにも気がついた。
……そうだ、水明にとって、クロは大切な相棒なのだ。何かあったんじゃないかと、不安なのに違いない。すぐにでも追いかけたいだろうに、私のためにここに残ってくれている。それが嬉しくもあり、申し訳なくもあった。
「心配かけてごめん。クロ……大丈夫かな。早く行こう」
「ああ」
私は、水明の手を強く握り返すと、洞窟の奥へと向かって歩き出した。
すると、後ろの方で、ナナシとにゃあさんが何やら話しているのが聞こえた。
「ああん! 青春ね。青春だわ‼ いいわねえ。私もあと千年早かったら‼」
「ねえ、ナナシ。これって、そういうことなのかしら……」
「本人たちは、ちっとも気がついてないけれどね。そういうことに決まってるじゃない!」
ナナシはやけに嬉しそうにはしゃいだ声を上げると、一転、落ち着いた口調で語った。
「一刻も早く、東雲の馬鹿に報告してやらなくちゃね。じゃないと、可愛い娘が盗られちゃうわよって。アイツ、本当に手間がかかるんだから」
「まったく……肝心な時にいないのよ、あのオッサン」
「ね~‼」
ふたりはそう言って、盛大にため息をついている。私は振り返ると、「早く!」と急かした。すると、ふたりはやけに軽やかな足取りで、私たちの後に続いた。
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