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若狭国の入定洞4:待ち受けていたものは
「――白い椿が枯れていたら、私の命は尽きていると思ってください……そう告げてから、もう何年過ぎたかねェ。今年も美しい花が咲いた。純白の、穢れなき椿の花が」
水明と手を繋いで入った、石碑の奥。にゃあさんが言ったとおり、そこには空間が広がっていた。天井に裂け目があるらしく、朝日が一筋差し込んでいる。けれども、圧倒的に光量が足りていないせいか、辺りは薄ぼんやりとしか見えない。壁際にずらりと並ぶ奇妙な形をした岩々が、時折、人の姿に見えて酷く圧迫感がある。
そんな場所で、八百比丘尼は幽世で見たのと同じ笑みを湛えたまま、私たちを出迎えた。八百比丘尼は手にした白い藪椿に鼻を寄せると、僅かに眉を顰めた。そして、それを無造作に地面に放り投げて言った。
「椿は、香りが弱くていけないね。……いらっしゃい。寛げるほど綺麗な場所じゃないけどねェ。ゆっくりしておいきよ」
「東雲さんは⁉ クロや、玉樹さんは⁉」
すると、八百比丘尼はゆらりと片手を上げた。そして、ある場所を指差した。それは、大小様々な奇岩が並んでいる場所だった。
「……っ! 東雲さん!」
「クロ!」
私たちは、八百比丘尼が指差した方向に向かって走り寄った。するとそこには、クロ、玉樹さん……そして東雲さんが、折り重なるようにして倒れていた。一番上に乗っていた玉樹さんをどかして、意識がない東雲さんの体を揺さぶる。私の横では、水明がクロに声をかけてやっていた。
「……ちょっと、この扱いは酷くないですかね……」
横に転がされた玉樹さんは、ぽつりと文句を溢して、また目を瞑ってしまった。頭から血が流れている。何か硬いもので殴られたのかも知れない。
若干、申し訳なく思いつつも、玉樹さんのことは置いておくことにした。それよりも、東雲さんだ。
「東雲さん、東雲さん‼ 起きて……」
私は、一向に意識を取り戻さない養父を強く抱きしめた。東雲さんの匂いがする。けれど、その手は私を抱きしめ返してくれもくれないし、雑な手付きで撫でてもくれない。それがどうしようもなく悲しかった。
「どうして‼ どうして、こんなことをしたの‼」
思わず、八百比丘尼に向かって叫ぶ。すると、八百比丘尼は薄ら笑いを浮かべて、煙管をぷかりと吹かした。すると、煙草の白い煙が、天井から差し込む僅かな朝日を反射して、暗闇の中に糸のように広がった。
「どうして? そんなの、気に入らなかったからさ」
「何が気に入らなかったの。東雲さんが何をしたっていうの‼」
「何を? ――馬鹿だねェ。自分で考えろ……と、親切じゃない私はそう言いたいところだが、今日は教えてやろう。その男は、やりすぎたのさ」
すると、八百比丘尼はコォンと近くの石に煙管を叩きつけると、忌々しそうに顔を歪めて言った。
「その男は、私の世界を壊そうとしている」
「壊す……?」
思わず首を傾げると、八百比丘尼はどこか遠くを見ながら言った。
「昔から、変なことばかりする男だと思ってたんだけどねェ。人間の子どもを助け、育てたりね。命は大事だからねェ。私だって、尼僧の端くれ。無駄な殺生はいけないことくらいは知っている。仕方のないことだって、それくらいは目を瞑ってやったさ」
「子ども? それって、私のこと……?」
「そうさ。あやかし共が、アンタのせいで牙を抜かれたみたいに穏やかになっていったのは誤算だったけどねェ。どうしてそう、簡単に変わるのかねェ。何のための幽世だって話だよ。『代わり映えのない日常』『古いものが古いままの世界』。それが、幽世だろ? ……まあ、それは私には直接関係ない変化だった。好きにすればいいと思っていたんだがねェ」
八百比丘尼はそこまで語り終えると、東雲さんをおもむろに指差した。
「なのにその男……ある日、私のところにやってきて言ったんだ。『本を作りたいから、取材をさせて欲しい。幽世に、新しい風を吹き込みたい』。……目眩がしたねェ。新しい風‼ アハハハハ! 何の冗談かと思ったよ」
そういえば、鞍馬山の大天狗も東雲さんが来たと言っていた。東雲さんの出版に対する情熱を考えれば、今まで話を聞いたことのないあやかしたちの下を、しらみ潰しに訪ねて回っていたのだろう。そして、東雲さんは八百比丘尼の下へも訪れたのだ。
すると、八百比丘尼は笑いを引っ込めると、途端に底冷えするような声で言った。
「ちっとも笑えない。……迷惑なんだよ」
まるで能面のような顔になった八百比丘尼は、東雲さんを一瞥すると忌々しげにぽつりと呟いた。
「新しい風なんて、少なくとも私は望んじゃいない。やめておくれ。この世界を変えようとしないでおくれ。私はもう、何かが変わる世界にいたくない」
そして、懐から何かを取り出すと、高く掲げた。徐々に、太陽が昇ってきたのだろう。頭上の裂け目から差し込んでくる光量も増えてきた。そのおかげで、八百比丘尼が手にしていたものが、はっきりと見えた。
それは――東雲さんの「本体」。破かれた、掛け軸の片割れ。東雲さんの失われた半身だった。反対側の手には、ライターが握られている。八百比丘尼が指に力を入れると、小さな音がして、ライターに火が灯った。
「八百比丘尼、おやめ‼ アンタ、自分が何をしようとしているか、わかっているの‼」
ナナシが、悲痛な叫びを上げる。すると、八百比丘尼は酷く冷たい視線をナナシに向けると、苛立ったような口調で言った。
「うるさいね。そんなことわかってるんだよ‼ さあ、原稿を寄越しな。もしくは、その本とやらの刊行をやめると約束するんだ。さもないと、これを燃やしちまうよ? 付喪神にとって、本体がなくなることがどういう意味かわかるだろう」
付喪神は、器物に魂が宿ったものだ。その元となったものが失われる――それすなわち、付喪神の死。私は、あまりの恐ろしさに身震いすると、八百比丘尼に向かって懇願した。
「やめて……! 東雲さんを、これ以上傷つけないで! お願い‼」
すると、八百比丘尼は驚いたように目を見開いて、私をまじまじと見つめた。
そして、またクツクツと喉の奥で笑うと、「アンタがそれを言うのかい」と悲しそうに顔を歪めた。
「私を、もっと傷つけようとしている男の娘が、それを言うのかい?」
するとその時、ふわりと光るものが私の傍に飛んできた。
ひら、ひらと、宙を舞い、幻想的で儚い光を辺りに撒き散らしているのは――幻光蝶だ。
――どうしてここに、この蝶が。
驚きのあまりに、状況も忘れてその輝きに目を奪われていると――辺りが一気に明るくなったのに気がついた。明かりの中心に目を向けると、そこには八百比丘尼がいた。八百比丘尼は、何か大きな石に背を預けていた。その足もとから、次から次へと幻光蝶が姿を現している。……いや、違う――地面と石の隙間から、幻光蝶が我先にと、争うように溢れ出てきているのだ。
「ああ。朝が来たよ。現し世を夢見た蝶が、今日も幽世という虫かごから逃げ出した」
八百比丘尼は、まるで夢でも見ているかのような表情で、その様子を眺めている。
その瞬間、更に幻光蝶が溢れ出した。すると、辺り一面がまるで真昼のように明るくなり、周囲の光景を映し出した。
「……なんだ、これは」
それを見た瞬間、まだ意識の戻っていないクロを抱いていた水明が、驚きの声を上げた。
「石像……?」
そこにあったのは、ずらりと壁一面に並んだ石像だった。奇岩だと思っていたものは、すべてが石像だったのだ。老若男女、様々な年代の人たちの像が私たちを見下ろしている。時代が違うものもあるのだろう。服装も髪型も様々だ。それらに大量の幻光蝶が止まり、暗闇の中から浮かび上がらせている。人の形はすれども、人ならざるそれらは、無言でただそこにあった。
すると、呆気にとられている私たちに八百比丘尼は言った。
「夏織、変わらないものはいいと思わないかい? ずっと変わらず傍にいてくれて、心の隙間を埋めてくれる。置いていくことも、置いていかれることもない」
八百比丘尼はそう言って、背後にある一際大きな石像にもたれかかった。その石像は、年老いた男性を模していた。その男性は慈愛の笑みを浮かべて、まるで八百比丘尼に触れようとするかの如く、手を伸ばしている。
「変わらない……まさか。この石像の人たちは」
「そうさ、こいつらは私を置いていなくなった奴ら。私だけを遺して、逝ってしまった最愛の――家族たち。私は、自分で『変わらない』家族をここに作った! ……滑稽だと思うかい?」
すると、急に脱力した八百比丘尼は「玉樹がしていた話の続きをしよう」と笑った。
「愛しても、愛しても、ひとり置いて逝かれる。それを八百年も繰り返した私は、もう疲れ切っていた。涙も枯れ果てた私は、この洞窟の中で入定をすることにした。さすがの仏様も、飲まず食わずで一心不乱に経を上げ続ける私に、慈悲を与えてくれるんじゃないかって思ってねェ」
――でも、駄目だった。
八百比丘尼は、そう言ってくしゃりと顔を歪めた。
「そりゃそうさ。入定ってもんは、そういうためにあるんじゃないからねェ。いくらお経を上げ続けたって、私に最期なんてやってきてはくれなかった。一片の光も差し込まない暗闇の中で、手足の上を虫が這い回っているのを感じながら、人魚の肉を口にしてしまった自分への恨みが募るだけだった」
入定が無駄なことだったと知った八百比丘尼は、お経を上げるのをやめた。けれども洞窟からは出ようとはしなかった。もう二度と、外の人間とは関わり合いたくない。そう思っていたからだ。だから、彼女は戯れに石を彫り始めた。そこに刻んだのは、かつて八百比丘尼が愛した者たちの姿だ。
道具なんてない。辺りに落ちていた石でコツコツと岩を削っていく。
彼らの名を呼び、できあがった顔を撫で、体を抱きしめた。それは八百比丘尼にとって、思いの外穏やかな時間だった。
「愛する人の形を、ひとつ、またひとつと完成させていくと、不思議と心が満たされていった。思い出が、温かさが、声が、記憶が――胸を温かくしてくれた。何も見えなかったけど、大勢の家族に囲まれた私は、それでも幸せだった」
――おはよう。お腹が空いてないかい?
――あの時のこと。覚えているかい? あれは、お腹がよじれるくらいに笑ったねェ。
――ちゃんと温かくしないと、風邪を引くよ。ほら、母さんが温めてやろう。
「でもね。ふとした瞬間に、正気に戻るんだ。誰も話しかけても応えてくれない。誰も私を温めてはくれない。誰も私に笑いかけてくれないことに気づいて、どうしようもなくなる。せっかく、『変わらない』家族を作ったのに、何も満たされていない事実を突きつけられて‼ そのたびに……絶望したんだ」
そんなある日のこと。
いつものように石を彫っていると、突然、岩の隙間から光る蝶が現れた。燐光を零しながら、ひらひらと宙を舞う、美しい虫だ。現し世のものとも思えない、幻想的な虫だ。
それは、いつの間にかできていた天井の裂け目から出ていくと、陽の光に当たった途端に溶けて消えてしまった。
不思議に思った八百比丘尼は、更に奥に向かって掘り進めた。血が出ようと、爪が剥がれようと気にせずに掘っていくと、どんどんと蝶の数が増えていく。八百比丘尼は確信した。この奥には、何かがある。そう思って掘り進めること数年……たどり着いた先には、見知らぬ世界が広がっていた。
「驚いたことに、この下は幽世に通じていたんだ。そこには、昔ながらの生活を送る生き物たちがいた。あやかし……ソイツらを見つけた瞬間、私は歓喜した。だって、ソイツらの多くは、私よりも遥かに長寿で、永遠とも思える時間を生きる者たちだったからねェ」
この世界であれば、自分が傷つかずに済むんじゃないだろうか。
ここが私の世界。私の生きる場所。誰にも置いて逝かれない場所――。
――居場所を見つけた。
八百比丘尼はそう思ったのだそうだ。
「ここでなら、もう一度、誰かを愛してもいいんじゃないかと……そんな希望を持ってしまった。本当の意味での、永遠の愛を得られるんじゃないかって、そう思ったんだ。幸いなことに、長い年月を経て私の体は人ならざるものへと変容していたようだった。幽世の住人としては、これ以上ないほどに相応しいだろう?」
――だから。
八百比丘尼はギョロリと目を見開いた。そして、血走った目で叫んだ。
「私の世界を壊そうとする奴は許さない‼ 幽世に、新しい風なんていらないんだよ‼ さあ、早く約束するんだ。本なんてくだらないもの、作るのをやめるってね‼︎」
そして、再び東雲さんの本体を高く掲げると、反対側の手にしたライターに火を着けた。熱を嫌った幻光蝶が、八百比丘尼のそばから一斉に飛び去っていく。私は、どうすることもできずに、腕の中の東雲さんをただ抱きしめていた。
「……構わねえ。やっちまえよ」
――その時だ。
腕の中で、意識を失っていたはずの東雲さんが身じろぎしたかと思うと、ゆっくりと目を開けた。一瞬、その青灰色の瞳と目が合って、嬉しくなって頬が緩む。けれどもその顔色の悪さと、ひび割れてしまった肌、そしてすぐに滲み始めた脂汗に、浮かべた喜色はすぐに消えてしまった。
すると八百比丘尼は動きを止めて、怒りの形相を浮かべた。
「おや、お寝坊さん。ようやくお目覚めかい? 聞こえないねェ。もう一度、言ってみな」
「……やれよ、って言ったんだ、八百比丘尼。ソイツを燃やしちまえ」
「東雲さん、駄目だよ」
「それで気が済むなら、やればいい。でも、俺は止まらねえぞ。絶対にだ」
「駄目、やめて……」
どうして、そんな哀しいことを言うのだろう。東雲さんが死ぬなんて絶対に駄目だ。やめて、と何度訴えても、東雲さんはこちらを見もしない。東雲さんの瞳は、まっすぐに八百比丘尼見据えたままだ。そして、もう動けないほど弱っているはずの東雲さんは、私の腕の中からゆっくりと起き上がった。
「俺は、俺の書くもんで家族を幸せにすると決めたんだ」
すると、八百比丘尼はそんな東雲さんを見て鼻で笑った。
「ハハハハ‼ 掛け軸の付喪神が、何を言っているんだい? 人間との家族ごっこが、そんなに楽しかったのかねェ。アンタの『本体』の噂……現し世で聞いたことがあるよ。富をもたらす、けれども血で塗れた呪いの掛け軸。今まで、大勢を不幸にしてきたくせに、家族を幸せにする? 冗談も大概にして頂戴」
「確かになあ」
東雲さんは苦く笑うと、私の肩に自分の頭をもたれかけた。どうも、普通に座ることすらままならないらしい。息が荒く、頰のひび割れが徐々に増していっているように見える。
私は東雲さんの体を支えると、その声に耳を傾けた。
「いつからだったかなあ……。俺を持つ奴には富がもたらされる、なんて謂われるようになったのは。そんな力はちっともないってのに、富の象徴として人間たちは俺を奪い、時に奪われた。政に利用され、誰かの血で俺の体は汚れちまった。一時は、人間を愚かだって思った時もあったなぁ」
東雲さんは私の肩を抱くと、ニッと白い歯を見せて、青ざめた顔に笑顔を形作った。
「奇遇だな。俺も、自分を巡る諍いに疲れきって、幽世に引きこもったんだ。もう人間には関わり合いたくなかったし、争いを目にして、傷つくのにも懲り懲りしていたからな。そんなある日……人間を拾ったんだ。俺がいないと、生きていけないような。泣き虫の可愛い女の子だ。小せぇ手で、俺の着物の袖をギュッて掴んで離さねえ、弱い生き物を拾っちまった」
そして、東雲さんは青灰色の瞳を私に向けると、心底愛おしそうに見つめた。
「もしかしたら、こんな――幸運になれるなんて嘘で塗り固められた、付喪神の自分でも、コイツを幸せにできるのかな、なんて夢を見ちまった。人間の娘だぜ? 人の形はしてはいるが、人間の真似事しかできない俺が、父親って名乗っていいかわからねえ。でも俺は、本物の幸せを、こいつにくれてやるって決めたんだ」
すると、八百比丘尼は東雲さんに冷たい視線を向けて首を横に振った。
「――綺麗事を並べるのはやめるんだねェ。それと、このことは関係ないだろう?」
「いいや、関係あるだろ。俺は……お前と違って、日々変化していく娘が愛おしいよ」
東雲さんは、震える手で私の頬に触れると、涙で濡れたそこを指で拭った。
「いつかきっと、俺もお前みたいに置いて逝かれるんだろう。でも、そこに寂しさはあっても後悔はねえ。そん時に、俺の中にあるのは……娘をきちんと育て上げられたっていう満足感と、誇りだ」
「……し、しののめ、さん……っ」
「ああ……夏織は泣き虫だなあ。泣くなよ。大丈夫だ、俺がいる。なーんも、心配することはねえよ」
私は、堪らなくなって東雲さんを強く抱きしめた。熱い雫が、次から次へと瞳から溢れて止まらない。大好きな気持ちが、感謝の気持ちが、温かな気持ちが胸に満ちて、恐ろしいほどの幸福感に包まれる。同時に、腕の中で弱ってしまった東雲さんが、失われてしまうんじゃないかという恐怖感が蘇ってきた。この最愛の養父の命は、未だ八百比丘尼が握ったままだ。だから、東雲さんを抱く腕に更に力を込めた。どこにもいかないで、ずっとそばにいて――そんな願いを込めながら。
「……ふざけるな」
すると、八百比丘尼が小さく呟いた。
その、怒りを堪えているような声が恐ろしくて、勢いよく彼女を見る。すると、八百比丘尼が浮かべていた表情に、私は驚きを隠せなかった。
それはまるで、大好きなものを取られて、泣くのを堪えている子どものような……酷く幼い表情だったのだ。
「アンタはまだ、誰も失っていないからそういうことを言えるんだッッッ‼」
八百比丘尼はそう言うと、ライターに火を着けた。そして、躊躇なくそれを掛け軸に近づけていく。
「――私が馬鹿だったよ。まどろっこしいことはやめだ。アンタが消えたら万事解決……目障りだ。消えちまいな」
「やめて……‼」
思わず叫ぶと、その瞬間、黒い影が八百比丘尼に飛びかかったのが見えた。
「グルルルルルル‼」
「くっ……、何すんだい‼」
それはクロだった。私たちが話している間に意識を取り戻していたらしいクロは、密かに八百比丘尼との距離を詰めていたらしい。勢いよく飛びかかったクロが、八百比丘尼の手首に噛みついたのだ。ライターが地面に落ちて、火が消えたのが見える。思わず、ホッと胸をなでおろしていると、八百比丘尼は痛みをものともせず、忌々しそうにクロの首もとを鷲掴みにして、強引に引き剥がした。
「この……犬コロめッ!」
「キャンッ!」
そして、クロを地面に叩きつけると、ライターを探してあちこち地面に視線を彷徨わせた。すると、今まで黙って静観していた水明が動き出した。
水明は、腰のポーチから何枚もの護符を取り出すと、それを宙に放った。不思議なことに、護符はふわりと宙に浮かんで、まるで意思があるかのように、八百比丘尼に向かって飛んでいく。
「チッ……。おやめ、近づくんじゃないよ‼」
すると、八百比丘尼を守るように幻光蝶が集まってきた。水明が投げた護符は、蝶に遮られて八百比丘尼に届かない。けれども、すぐさま水明はナイフを握ると、八百比丘尼に肉薄した。しかし、八百比丘尼もやられてばかりではない。懐から、普段使っている煙管を取り出すと、水明のナイフをそれで受け止めた。金属がぶつかり合う音がして、暗闇の中に小さな火花が散る。するとそこに、鋭い声が響いた。
「……水明‼ 頭を下げなさい‼」
水明の影に隠れて密かに接近していたナナシが、八百比丘尼に向かって腕を振りかぶったのだ。その瞬間、水明は勢いよく体を沈めた。八百比丘尼からすれば、いきなりナナシが現れたように見えたのだろう。虚を突かれて、反応できないところにナナシの鉄拳が飛んだ。
ゴッ……と、鈍い音がして八百比丘尼の顔が歪む。そして、ナナシが拳を振り切ると、八百比丘尼の体は勢いよく後ろに吹っ飛んだ。するとその次の瞬間、ナナシが自分の拳をもう一方の手で擦りながら、大騒ぎし始めた。
「痛ぁい‼ まったくもう。この白魚のような手が、歪んだらどうしてくれるのよ‼」
「……別に構わんだろう。お前の手が歪んだって」
「水明、乙女心がわかってないわねぇ。振られるわよ?」
見ると、ナナシの拳が真っ赤になってしまっている。よほど強い力で殴りつけたのだろう。拳を痛めてしまったのかも知れない。
「……ぐ、うううう……」
石像のひとつに、したたかに背中を打ち付けた八百比丘尼は、うめき声を上げながらも、なおも立ち上がろうとしていた。けれども、脳震盪を起こしているのか、今は上手く動けないようだ。その手には、しっかりと東雲さんの掛け軸が握られていて、その瞳からは強い執念を感じる。
八百比丘尼は満身創痍のように見えた。
顔は青黒く腫れ上がり、意識が朦朧としているらしく、頭がゆらゆら揺れている。八百比丘尼が、地面に口内に溜まった血を吐き捨てると、カランと乾いた音がした。どうやら歯が抜けてしまったようだ。更に、鼻血で赤く染まった袈裟がなんとも痛々しい。
「八百比丘尼、お願い。東雲さんの本体を返して」
「……」
「もういいでしょう⁉ 終わりにしましょうよ‼」
もうこれ以上、八百比丘尼が傷つくのを見ていられなくて懇願するも、彼女はゆっくりと首を振ると、地面を手で探って――弱々しく微笑んだ。
「幽世が……私の居場所が変わることに比べたら、こんなのどうってことないさ。私は死なない。死ねないんだ。人魚の肉の呪いが、死なせてくれないんだ。だから……自分の居場所を守り抜く。誰かを失って泣くのはもう嫌だ、嫌なんだ……――私の心は、傷を負う場所がないくらい、ズタズタなんだ」
八百比丘尼は、今にも泣き出しそうなほどに顔を歪めている。けれども、その瞳からは何の雫も溢れない。それはまるで、彼女の言葉どおりに、本当に涙が枯れてしまったかのようだった。すると、八百比丘尼は地面を探っていた手を上げた。そこには――地面に落ちたはずのライターが握られていた。
「……燃えちまえ」
そして、手もとに小さな火が灯ると――その火は、東雲さんの本体を襲った。
「……あ……」
あまりにも一瞬のことに、何も反応できずに、ただ見ていることしかできなかった。
掛け軸にゆらりと赤い炎が移り、紙が黒く煤けて、焦げた臭いが鼻をつく。腕の中の東雲さんが、低くうめき声を上げている。恐る恐る視線を落とすと、東雲さんの肌が黒く煤けてきているのがわかった。
「~~~~~~ッ‼」
私は、声にならない悲鳴を上げて、腕の中の東雲さんを地面に置くと、なりふり構わず八百比丘尼に駆け寄ろうとした――その時だ。
「……知っている? 肉食獣はね、いつだって物陰から狩りの機会を窺っているものなのよ」
ぬう、と八百比丘尼の背後から、巨大化したにゃあさんが顔を出した。そして、人を簡単に丸呑みにできそうなほどに大きな口を開けると、凶暴な牙の隙間から涎を滴らせながら、八百比丘尼の左半身に噛み付き――引き千切った。
「うっ……ああああああぁあぁぁぁぁああああ‼」
八百比丘尼の、耳をつんざくような悲鳴が洞窟内に響く。それに、ごり、ごり、ごり、と耳を塞ぎたくなるような咀嚼音がして、思わず顔が引き攣った。鮮血が流れ、八百比丘尼の白い袈裟が、みるみるうちに赤く染まっていく――。
にゃあさんは、目を細めて口の中のものを咀嚼していたかと思うと、ぺっとそれを私の傍に吐き出し、言った。
「……まずいわね。東雲、煙草やめなさいよ。臭いったらありゃしない」
「あ……」
思わず、ヘナヘナとその場にへたり込む。恐る恐る、地面に落ちているそれに視線を向けた。それは――奪われていた、東雲さんの「本体」だ。燃えてしまったのは、絵が描かれた本紙部分ではなく、掛け軸の柱部分のようだった。炎は、にゃあさんの口内で消火されたようだ。本紙は多少煤けて、涎に塗れてはいるけれど、無事のように見えた。
ゆっくりと、地面に横たわっている養父に視線を向ける。すると東雲さんは……ぎこちなく手を動かして、ぐっと親指を立てた。
私は顔をくしゃくしゃに歪めると、東雲さんの本体を抱きしめて蹲った。そして――。
「よかった……」
心の底から安心して、大粒の涙を零した。
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