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若狭国の入定洞5:赦す心
「……ああ。やられちまったね」
地面に横たわった八百比丘尼は、ぼんやりと何を見るでなく宙に視線を彷徨わせている。
気がつけば、もうすぐお昼だ。洞窟内が薄暗いこともあって、天井から差し込む太陽の光が眩しい。あんなに辺りを飛び回っていた無数の幻光蝶は、自分から太陽の光に飛び込んでいき、見る間に姿を消してしまった。あの蝶に、太陽の光を好む生態があるなんて知らなかったので驚きだ。
すると、八百比丘尼は目線だけ私に向けると、掠れた声で言った。
「……で、どうしてアンタは私の手当てをしてんだい」
「黙っていてください」
私は、血で塗れた手で頬に伝った汗を拭うと、ナナシから借りた包帯を、八百比丘尼の体に丁寧に巻いていった。
「じきに血は止まるでしょうから、それまでじっとしていてください。今、ナナシが血を増やすお薬を持ってきてくれますから」
「……フン」
「素人の手当てでごめんなさいね。でも、ナナシや水明は、手当てをしたくないって言うし……ま、仕方ないですよね。今までの行いのせいですよ、反省してください」
「アンタね……」
「黙っていてって、言ったでしょう?」
私はにっこりと微笑むと、「別にあなたのこと、許したわけじゃないですけどね」と、唇を尖らせてツンとそっぽを向いた。
「……子どもみたいな反応するんだね。あほらしい」
「よく言われます。年相応の行動をしろって」
苦笑した私は、手に着いた血を拭うと、ほっと息を吐いた。
一応は、止血できたと思う。これだけ血を流しているのに、八百比丘尼は意識を失うこともなく、ケロリとしている。不老不死だというのは、伊達ではないようだ。流石に、新しい腕が生えてはきやしないようだけれど。本当なら、薬すらいらないのかもしれない。
けれど、左の肩から先がごっそりと失われてしまったその姿があまりにも痛々しくて、私は手当てをせずにいられなかった。しれっと八百比丘尼の腕をお腹におさめたにゃあさんは、「味は悪くなかったわ」と本人に味の感想を伝えていた。東雲さんよりかは、よっぽど美味しいとも。……それって、言われた方は反応に困ると思う。
玉樹さんと東雲さんは、にゃあさんが幽世の薬屋へと運んでいった。今すぐに手当てをすれば、ふたりとも命に別状はないらしい。元気に動き回れるようになるまでは、それなりに時間がかかるようだけれど……。
ナナシから借りた救急道具を片付ける。血の量が量だったから、あちこち汚れてしまった。できれば、手ぐらいは綺麗な水で洗いたい。すると、そんな私を見かねたのか、クロが手伝いを買って出てくれた。
「オイラ、水を汲んでくるよ」
「ありがとう、クロ」
「いいんだ! オイラ、さっきはあんまり役に立てなかったからね」
クロは、しっぽをゆらゆら揺らすと、バケツを咥えて歩いていった。相変わらず、素直ないい子だ。すると、洞窟の壁によりかかって、不機嫌そうな顔をしている水明が視界に入った。
……ああ、素直じゃない子がいる。
私は苦笑を漏らすと、水明に声をかけた。
「ね、もう護符はしまってもいいんじゃない?」
「馬鹿を言うな。ソイツが何をするかわかったもんじゃない」
左手に護符、右手にはナイフを握りしめ、臨戦態勢を解こうとしない水明に、私は小さくため息をつくと「好きにして」と笑った。
すると、そんな私の様子を眺めていた八百比丘尼が口を開いた。
「――なんで、アンタ笑っていられるんだ。私が、憎くないのかい?」
「……え?」
「私は、アンタが心から大切に思っている人を傷つけたんだよ。ナナシや、あの少年の反応は当たり前だ。私は、あの大きな猫の腹におさまっても、文句を言えないようなことをしたんだ」
「……」
八百比丘尼は、苦しげに眉を顰めると「むしろ、食べてくれたほうがよかった」と弱々しい声で言った。
私は少し考えると、おもむろに話し始めた。
「……私、八百比丘尼のこと、別に嫌いじゃないですよ」
「ハッ! なにを馬鹿なことを。慰めなんていらないよ」
「慰めなんかじゃないですよ。八百比丘尼、私に会うたびにいつも色々言ってくれたでしょう? スカートが短いとか、ちゃんと野菜を食べてるかとか、勉強しているか……とか」
「……口うるさくて悪かったね」
少し不貞腐れたような声を出した八百比丘尼に、私は小さく笑うと、「違うんですよ」と話を続けた。
「この幽世で、そういう風に厳しく言ってくれる人ってなかなかいないんです。確かに、ちょっとムッとする時もありますけど、私をちゃんと見て、ちゃんと考えて言ってくれているんだって思うと、すごく嬉しくって」
「……」
「――優しいだけが、優しさじゃない。変な言い方ですけど、私は八百比丘尼にそういうものを感じていたんです。人を傷つけられる人だと知って、だいぶガッカリしましたけど」
すると、八百比丘尼は何度か口を開閉すると、小さく首を横に振って、「私はちっとも優しくなんかない」といつもの台詞を口にした。私は軽く目を瞠ると、ため息を零した。そして、両膝を抱えてそこに顎を乗せると、洞窟の中を眺めながら言った。
「優しいですよ。きっと、誰よりも優しい。だって――八百比丘尼の家族たち、すごくいい顔をしているじゃないですか」
「え……」
八百比丘尼は驚いたような声を上げると、ゆっくりと顔を巡らせた。そして、洞窟内の石像たちに目を止めると、酷く苦しげな顔になった。そんな八百比丘尼に、私は続けて言った。
「暗闇の中で、手探りで彫ったんでしょう? これってきっと、八百比丘尼の中で一番印象に残っている顔ですよね。ほら、みんな……凄く幸せそう。この人たちにとって、八百比丘尼と暮らした日々は……温かくて、宝物みたいな時間だったんじゃないかなあ」
石像たちは、改めて見てみると酷く荒削りな作りをしていた。けれども、彼らの浮かべている表情は、私の目を惹きつけてやまない。顔をくしゃくしゃにして笑う子ども。笑い皺をいっぱい作って、喜色満面で笑う人。誇らしげに、腕に抱いた我が子を見せている女の人。愛おしさを全身に漲らせて、手を差し伸べている老人。
「いなくなるとわかっていて、何度も何度も人を愛するって、普通は怖くてできませんよ。人は失うことに臆病ですもん。それに、私、知ってるんですよ。あの島で、水明にお母さんを会わせてあげたこと。これが、優しくなくて何だって言うんですか」
私は、無言で石像を見つめている八百比丘尼の顔を、じっと見つめて言った。
「八百比丘尼。さっきの話を聞いていた時、私……胸がつぶれるかと思いました。痛いほど気持ちが想像できて、少し息苦しくなるくらい」
「アンタに、私の何がわかるってんだい。まだ、結婚すらしてない、子どもを産んだこともない癖に」
私はゆっくりと首を振ると、石像を指差した。
「私が想像できたのは、八百比丘尼の気持ちじゃなくて、あっちの方。石像に彫られた家族たちの方ですよ」
改めて洞窟内を見回すと、本当に石像の数が多い。そのひとりひとりの人生に寄り添い、彼らの生き様を最期まで見届けた八百比丘尼の気持ちなんて、同じ道を辿ってきた人でもなければ理解するのは到底無理だろう。けれど、大切な人を置いて逝かざるを得なかった彼らの気持ちなら、痛いほどわかる。寿命――それは、永遠の命を持つ者と、定命の者の間に必ずといって立ちはだかる壁だ。
「みんな、最期まで最愛の人が傍にいたんですね……」
八百比丘尼と共に生きた彼らは、自分の命が尽きる瞬間、何を思ったのだろう。傍によりそう八百比丘尼に、どんな想いを抱いたのだろう。……いや、そんなこと考えなくてもわかる。石像に刻まれた、八百比丘尼に彼らが向けた笑顔が、それをまざまざと語っている。
「――……羨ましいなあ」
思わず、ぽつりと零す。すると、八百比丘尼が盛大に顔を顰めたのが見えた。
「何を言い出すかと思ったら。……冗談はよしておくれよ」
「冗談じゃないですよ。私、心からそう思っています」
あやかしと違って、限りある命を持つ人間からすれば、「死」は恐怖の対象以外の何ものでもないだろう。穏やかに、「死」を受け入れられる人というのは、そう多くないのではないだろうか。「死」は冷たく、暗く、そして何より容赦がない。どんなに慈悲を願っても、容赦なく命を刈り取っていく。
絶対に抗えない運命――だからこそ、それを迎える時に、人は最も愛おしいと思う人を求めるのだ。愛しい人の温もりを感じて、優しい声を聞いて、恐怖を紛らわせたい。孤独に迎えるには、「死」はあまりにも恐ろしい。
『――夏織‼』
その時、養父の無精髭まみれの笑顔が浮かんできて、寂しくなってしまった。相手の負担になるとわかってはいても、つまるところ、最後に人間は自分勝手になる。「死の間際」という極限状態ならなおさらだ。相手が悲しむことを知りながら、自分の「死」が与える影響から目を逸して――ただ、愛おしい人が傍にいることを望む。
そこには、どこまでも「愛」に我儘な、人間の姿がある。
深く嘆息する。人間は弱いのだ。ひとりで生きることも、死ぬこともできない程度には弱い。
それは、どうしようもないことだ。人間が、傍にいてくれた最愛の人に遺せるものといえば、言葉くらいしかない。
「『ありがとう』『ごめんなさい』『でも、大好きだから……やっぱりありがとう』」
「……なんだって?」
「もし――私が、八百比丘尼の家族だったら。最期にそう言うかなって思いました」
「……ッ」
すると、八百比丘尼が息を呑んだのがわかった。大きく目を見開き、私をまじまじと見つめている。すると、八百比丘尼はヨロヨロと上半身を起こすと、私に尋ねた。
「どうして、それを知ってるんだ」
そして、無事だった右手で私の服を掴むと、まるで縋り付くようにして――言った。
「アンタ、どうして私の家族と同じことを言うんだい……?」
……ぽろり。
「本当に……私の家族の気持ちがわかったってのかい? ハハ、ハハハ……なんてこった」
……ぽろり、ぽろり。
八百比丘尼の瞳から、透明な雫が溢れている。涙は枯れ果てたと言っていたはずなのに、温かな雫は次から次へと溢れ落ち、血に染まった袈裟に新しい染みを作っている。
すると八百比丘尼は、唇を大きく震わせると、消え入りそうな声で言った。
「ありがとう、だなんて。私は、誰かに愛して欲しかっただけなんだ。自分勝手に、愛をばら撒いただけなんだよ。置いて逝かれるのだって、自業自得なんだと……本当は気づいていた。なのに……」
八百比丘尼は、私の手に縋りつくと、首を横に振って固く目を瞑った。
「なのに、みんな……みんな‼︎ 最期まで笑って。私に礼を言うんだ。どうして……‼ 礼を言われる筋合いなんて、これっぽっちもないってのに‼」
悲痛な叫びを上げた八百比丘尼は、片腕を失ったせいで上手く体を支えることができないのか、ぐらりと傾いだ。私は慌ててそれを支えると――そのまま強く抱きしめた。嗚咽を漏らし、「どうして……」と、疑問を口にしながら泣いている八百比丘尼の背中を擦ってやる。すると、八百比丘尼は私の肩に顔を埋めて、素直に体を預けてきた。
――その時だ。焦った様子で水明が駆けつけてきた。
「おい! 何をしている! コイツが、東雲に何をしたのか忘れたのか。離れた方がいい」
「……忘れてないよ。忘れるはずないじゃない。この人が東雲さんにしたこと、許してなんかないよ。東雲さんの夢の邪魔をしたことも。……でもさ、水明」
私は、怒りの感情を浮かべている水明を、まっすぐに見上げて言った。
「辛そうな人をほっとけないよ。確かに酷いことをされたけど、それ以前にたくさんお世話になってた人なんだよ。苦しんでるなら、傍にいてあげたい。駄目、かな……?」
「なっ……⁉」
私の言葉に、水明は驚きのあまり目を見開くと――ワナワナと震えて、そして叫んだ。
「~~‼ どれだけお人好しなんだ、お前は‼」
そして、ストンとその場に座ると、いやに渋い顔をして言った。
「……コイツが何か変なことをしたら、容赦なく攻撃するからな」
「うん。我儘言って、ごめん」
「……フン。こうなると、お前は頑固だからな」
そっぽを向いてしまった水明に、ありがとうとお礼を言って、改めて八百比丘尼を抱きしめる。そして、慰めるように、励ますように、言葉を慎重に選びながら言った。
「泣かないで。大丈夫……何も心配しなくていいんですよ」
「うう、うううう……」
「八百比丘尼が愛した分だけ、彼らも愛を返してくれただけ。変なことじゃないです」
「ううううう、うううううううう……」
「あなたが最も恐れた『変化』は、自分が変わってしまうことだったんでしょう? 古い自分のままでいなくちゃいけないって、先に逝ってしまった家族のためにそうしようとしたんじゃないですか。彼らが愛してくれたままの自分でいようと」
「うう、うああぁぁあああああ……!」
だからこそ、八百比丘尼は幽世に定住したのにも拘らず、未だ新しいパートナーを作っていないのだ。あれほど愛することに拘った人が、誰にも心を寄せないでいるのには理由があった。もしかしたら、魂の休息所の管理をしているのも、家族のことを思ってなのかもしれない。万が一にでも、自分の縁者があそこにやってきたら――確実に助けてあげられるように。
……やっぱり、八百比丘尼は優しい。この人は、どこまでも最高の妻であり母であろうとしている。誰よりも愛情深く、けれどもそれ自体が自分を苦しめている。
私は、まるで自らに言い聞かせるように言った。
「大丈夫です。今まで愛した人たちとの思い出は、たとえ八百比丘尼が変わっても変わりませんよ。だから、先に逝ってしまった家族を赦してください。見送ることしかできなかった自分を赦してあげてください。寿命なんて、神様でもなければどうしようもないんですよ。世界は……そんなに優しくない。奇跡なんて起こらない。訪れた『死』を受け入れるしか、ないじゃないですか」
すると、ずっと涙を零していた八百比丘尼が、ゆっくりと顔を上げた。そして、真っ赤な目で私を見つめると――眉を八の字にして、複雑そうな笑みを浮かべた。
「……なんで、アンタが泣いてるのかねェ……」
「あはは……」
私は、自然に溢れてきた涙を拭うこともせずに、八百比丘尼に言った。
「物語みたいに世界が奇跡で溢れていればいいのにって、思ったんです。……でも、そんなの絶対にありえないって、泣けてきて」
私が泣き笑いを浮かべると、八百比丘尼は困ったように笑った。そして、「参ったね」と私の涙を袈裟の袖で拭った。
「アンタまで泣くのはおよしよ。湿っぽいのは嫌いなんだ……さっきまで、号泣していた私が言うことじゃないけどねェ」
「……ご、ごめんなさい」
「それに、若いのに救いのないことを言うんじゃないよ。時々しか起こらないから、奇跡って言うんだろ? だからみんな、ありがたがるんだ」
そして、私の乱れた髪の毛や服を直しながら、八百比丘尼はまるで独り言のように呟いた。
「……うん。アンタが、今ここにいること……それだって、きっと奇跡のうちのひとつさ。アンタは、私がずっと理解できなかったことの正解を教えてくれた」
「……? 私、何か教えましたっけ……?」
思わず首を捻ると、八百比丘尼は、クツクツと喉の奥で笑った。そして、「わからないならいいさ」と、一瞬だけ遠くを見つめると――ああ……とため息ともつかない声を漏らした。
「つまりは、そういうことだったんだねェ。……私は、ひとりよがりに、勝手に怒っていただけだったんだ。このことは誰も悪くないし、赦すも何もなかったんだ――私たちは、こういう場所に生まれついてしまっただけなんだから」
八百比丘尼はそう言うと、柔らかな笑みを浮かべた。
その顔を見た瞬間、私は戸惑いを隠せなかった。
その表情は、多くの子どもを持つ母のようであり、恋に胸をときめかせている娘のようであり、そして、長年最愛の人と連れ添った老女のようだった。そこには、八百比丘尼が積み重ねてきた、八百年もの長い時間が確かに刻まれていた。
「本当に困った子だ。……私まで変えようとするなんて」
八百比丘尼はそう呟くと、自分の胸に私の頭を押し付けると、背中を優しく撫でてくれた。
「世界は優しくない。でも、そこに住む者くらい、せめて優しくありたいもんだねェ」
そして、私を抱きしめたまま、まるで子どもをあやすみたいに、ゆらゆら揺れた。
――ゆら、ゆら、ゆら。ゆうら、ゆらゆら、ゆうらり。
「……あ」
大怪我をしているせいか、そのリズムは一定じゃなかった。
それが優しく胸を打って……私は、もう一粒、涙を零したのだった。
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