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琴子先輩が姿を消して一か月が過ぎた。 彼女と最後に話をしたのは徹夜の実験明けの朝だった。 僕たちは学棟前のベンチに並んで腰かけて、購買で晩ごはんとして買っておいた菓子パンを食べていた。 乳白色のひんやりとした朝もやが世界を覆い、一種神秘的な雰囲気だった。どこかで鳥がチチチと鳴いた。 「それで、怪しい落葉は完全にミスリードで、何気なく行われてたじゃんけんこそが伏線だったんですよ」 「面白そうだね。今度貸してくれない?」 濡れたような長いまつ毛の奥の大きな黒目が興味深げに僕を見る。白いスキニーパンツに包まれた太ももから腰にかけての線は細い。 黒いノースリーブから伸びた白い肩も、その厚みが僕の半分くらいしかないのではないだろうか。控えめにいって、美しい人だ。 「あ、でもトリックもオチも喋っちゃいましたね」 「かまわないよ。面白いミステリは謎が分かったぐらいではその魅力を減じることはないから」 最近読んだ小説の感想などの他愛のない話をしていたが、話題に少しの休符が置かれたところで、僕はふと尋ねてみた。 「先輩はどうしてこの学園にきたんですか?」 僕たちが在籍する南下学園大学大学院は、バイオサイエンス研究科学域と情報科学研究科学域の二軸からなる大学院だ。 僕たちはそこでバイオサイエンスを学び研究する学究の徒で、先輩後輩の間柄だった。 「小さい頃に両親ともに癌で亡くしてるんだ。 だから癌の研究をするために、ずっと勉強をしてきたんだよ」 「そうだったんですか」 琴子先輩とこうした話ができるのが嬉しかった。 雑談はいくらでもしてきたが、これまではプライベートに関わることには足を踏み込まないようにしてきていたのだ。 「これから僕の部屋にきませんか?」 思い切って僕はそう言った。 先輩は少し考える様子を見せてから首を振った。 「今日は帰って寝ることにするよ」 ひと月前に一度だけ、琴子先輩は僕の部屋を訪れていた。同じように徹夜明けの朝だった。 琴子先輩が積極的だったという曖昧な印象はあったが、 なぜそうなったのか、はっきりと覚えていない。 かねてより焦がれていた琴子先輩と口づけを交わし、その肌に触れた。それは天にも昇るような時間だった。 だがそれ以降も、僕と彼女の関係に特別な変化はなかった。 琴子先輩は僕に実験の指導を行い、僕は先輩の研究を手伝いながら自分の勉強をする。 僕は思わず訊いていた。 「あの、僕たちは付き合っているんでしょうか」 口にしながらもすでに後悔がこみあげていた。 琴子先輩はほんの数秒、僕の顔を見つめた。僕はその眼差しをとても悲しげに感じた。 「付き合えたらいいな、と私は思ってるよ」 「じゃあ……」 その時、ちょうどその時、学園を取り囲む山の一角の、僕たちの正面の辺りに真っ赤な太陽が顔を覗かせた。 朝焼けの光が迸り僕の目を射た。 乳白色だった世界は紫色を経て真っ赤になった。 赤い赤い、静脈を流れる血で染まったような世界。 その世界の中で先輩の姿はひと際赤く、まるで赤い物質できた彫像のようだ。 そしてその彫像はみぞおちから下腹部、足にかけてが特に赤が濃く、まるで下半身が血に染まったかのようだった。 その幻覚を見ていたのは時間にすればほんの数秒ほどのことだったはずだが、我に返ったときには琴子先輩はもうベンチから立ち上がっていた。 「それじゃ」 冷たくも温かくもない言葉だけを置いて、琴子先輩は僕に背を向けた。 そして彼女はそれっきり僕の前から姿を消したのだ。
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