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【52】七永
気が付くと、僕は無意識のうちに辺見先輩の背後に回り込んでいた。震えて動けない彼女の脇を抱えて立たせ、そのまま後ろへ下がらせる。
黒井七永の怒りは凄まじかった。
その怒りの源にあるものが何なのかをいまだ知らない僕にしてみれば、少女の姿で荒ぶる様は突拍子もなく感じて余計に怖かった。他人を見下すような嘲笑が印象的だった赤い唇は、今や奥歯を噛んだ力によって捲れ上がりブルブルと震える程である。眉間に刻まれた縦皺は青黒く変色して人相をも変えてしまった。血走った眼で辺見先輩に喰い付こうとする奴の挙動を、文乃さんが必死に身体を張って止めてくれていた。
だがそれは、言うなれば肉体のせめぎ合いではなかった。彼女らの髪は天に向かって逆立ち、お互いが放つ霊力がぶつかり合い小規模な稲妻が何本も夜空へ駆けあがって行くのだった。
――― 己の内に悪魔を飼っている。
かつてドメニコが発したその言葉は、そっくりそのまま黒井七永に当て嵌って見えた。
「カナメを殺したか、そう聞いたな」
静かに問う黒井の目から瞳孔が消え失せ、白く濁った目玉がグリグリと辺見先輩を睨んだ。「だからなんだと言うんだッ!」
黒井の吠え声とともに文乃さんの身体が仰け反った。ただ力任せに怒鳴っているのではない。大気を操る文乃さんの霊力を押し込む程の力が、黒井から発せられている証拠であった。
二人の大霊能者と僕、そして辺見先輩の間には三メートルもない。防波堤のように立ち防さがってくれた文乃さんが押し負ければ、僕と辺見先輩の身体はあの時にように ―――
僕は頭を振って馬鹿な妄想を払い退け、先輩の肩を掴んだ手に力を込めた。
「せ……ッ」
だが、こういう場面で絶対に引き下がろうとしないのが、辺見希璃という女性なのである。
「教えてください」
と先輩は言う。「愛する人を殺してしまうほど、人は人を憎めるものですか? 愛する人の幸せを願うことこそが本当の愛ではないでしょうか?」
僕と辺見先輩は、あの日しもつげらで、大神鹿目の生前の記憶を見た。今でいう作務衣に似た着物を揺すって大笑いする彼は、優しい目をした若者の姿で僕たちの前に現れたのだ。今まさに、『魔物』と恐れられた黒井姉妹によって殺される、その直前の苦しみに満ち満ちた記憶であった。
「だからクリスチャンは嫌いなんだ」
ぼそりと黒井が呟いた瞬間、僕たち全員の身体が見えない強力な力に捕縛された。いや、全員ではない。僕のすぐ目の前にいる辺見先輩だけが例外だった。その他は文乃さんを含む誰しもが、両手を真横に開き、つま先を揃えて地面に突き刺さるようにして立っている。
――― 十字架だ。
クリスチャンである辺見先輩を虚仮にするかのように、九本の十字架が僅かに傾いて屹立していた。すると黒井はまるで透明なコップを握るような形で、右手を斜め上に突き出した。ゆっくりと辺見先輩の身体が空中に持ち上がり、先輩の頬は黒井の手に挟み込まれたようにへこんだ。
「確かに、強く後悔した時代もあった気がするよ。人を愛する気持ちというのも朧気ながら覚えてる。掛け替えのない温もりに似た思いやりをそう呼ぶんなら、少しは覚えてる」
そう語る黒井を見下ろしながら、辺見先輩は見えない奴の手首を掴んで足をバタつかせた。だが先輩は黒井の膂力によって空中に浮かんでいるわけではない。黒井を上回る霊力で対抗せねば解き放たれることはないのだ。
「確かに私と文乃は鹿目を愛し、そして殺した。文乃覚えてる? あの時私たちはどんな風に泣いて、どんな風に後悔したんだっけね。残念ながら私の記憶には、霧がかかっちゃってもうよく分からないよ。あるいはあの時、私たちが罪に問われて罰せられていたなら、全てがそこで終わっていた話なんだろうね」
黒井が辺見先輩の頬を挟んでいた力を緩めた。先輩はゆっくり降りて来ると、両足が着地する直前でクルリと僕の方を振り返った。
バチン!
音がするほど強く、先輩が僕の顔を叩いた。もちろん、彼女の意志ではない。驚きと嘆きの気配が九本の十字架から発せられる。
「六百年」
そう、黒井は言った。
バチン!と再度僕は叩かれ、辺見先輩の目から涙が溢れた。僕はなんでもないような顔をして、彼女を見つめ返した。
「大神鹿目を殺した。あれから六百年が経った」
辺見先輩が思い切り体を捻り、力一杯僕の顔を叩いた。
「六百年前が何時代なのか、お前らに分かる? ちゃんと言える? 学校の教科書に出て来るほとんどの歴史上の偉人よりも、大抵私らの方が年上なんだよ。あの頃の私たちにはまだ黒井なんていう苗字さえなかった。こんなこと許されていいと思う?」
辺見先輩が僕を打つ。
先輩の右手が熱を持ち、全体が桃色に染まっていた。
「確かに私はあいつを殺した。その報いがこれなんだ。自分は呆気なく死んでおいて、こっちには永遠に続く呪いをかけていったんだ」
鞭のようにしなる先輩の殴打が僕の頬を裂いた。
血が、滴った。
「分かるか!」
黒井七永が感情を剝き出しにして叫んだ。「お前らになんかに分かるもんか! 死ねないんだよ! 私も文乃も! お前らがどれだけ正義の旗を振りかざそうとクソ程の意味もない。未来永劫死ねないんだ! お前らがやがて結婚して子をもうけ! 愛情に満ちた顔でそれを育て! その子供が子を成してはまた育て! そしてその子供が結婚して子供を産む! そうやって気が遠くなる年月命を繋ぎ続けて、いつの日にかお前らの生きた証そのものがこの世から綺麗さっぱり消えてなくなる時が来ても、私と文乃にはずっとここにいる。お前らなんかいずれ薄れて消えていく色の着いた泡沫でしかない。永遠に生きるくせに、記憶は永遠じゃないんだよ。ねえ、輪廻ってなんだと思う? 教えてあげようか。輪廻ってのはね、私と文乃を蚊帳の外に追い出すイジメっ子たちの輪。私らはそれを外からぼーっと眺めてるだけなんだよ。ねえ、教えてよ。人を殺して何が悪いの? 人を殺した結果得たのが永遠の命だっていうならさ、命の尊さって一体どこにあるの?」
黒井の目には、いつの間にか人間らしい感情が戻って来ていた。
だが、虚を突かれて辺見先輩の身体が十字架を形どる。
濡れて、揺れる、黒井の瞳が僕を見た。
「新開、私を殺してみろよ。鹿目の与えた罰が私たちを不死にする呪いなら、それを解いてよ。じゃないと、私は永遠に人間を殺し続けて生きていくよ。優しい文乃はそれを見て永遠に心を傷め続ける。例えどんな手を使ってでも、それが退屈な時間を喜びに変えてくれるなら私は労力を惜しまない。誰だって潰す。誰だって殺す」
「最初に何があったのかは知らない」
十字架の捕縛から逃れた僕は、ずっと考えていた事をそのまま口に出していた。「大神さんと何があったのかを聞いた所で僕には今更どうする事も出来ない。だけどもし本当に君と文乃さんが大神さんをその手にかけたのなら、そして大神さんから消えることのない呪いを受けたのだとして、じゃあ何故なんだ? なぜ君は人を殺すことで憎しみの連鎖をつなげ、その一方で文乃さんは人を殺さずに生きて来れたんだと思う?」
首から上がすっ飛んでもおかしくないような、命知らずな発言だったと刹那の後に気づいた。頸動脈目掛けて噛みついてくるかと思いきや、しかし黒井は意外にも薄く微笑んで僕の質問に答えた。
「偽善者だからさ」
「偽善? 文乃さんがか? 何が偽りだと思うんだ。人を殺してはいけないなんて誰もが根底に持っている人として当たり前の正義じゃないか。それとも君は自分にこそ正義があると信じてこんな真似を?」
黒井は呆れたように眉根を下げ、苦笑を浮かべた表情のまま無言で首を横に振った。まるで何も分かっちゃいない、そう言われている気がした。
「文乃の話をしてるんだよ。私にとって善悪は関係ない。だって、人が善であろうと悪であろうと本質は何も変わらないんだもの。善い行いをした人間と悪い行いをした人間が同一人物だったとしたら、善悪の境目を明確にすることに意味なんてある? 世の中ほとんど全ての人間が、自分の中に善悪の二面性を備えてる。正しいだけの人間なんて見たことあるか? いーや、どこにもいやしないね」
「それでも正しくあろうと努力するのが人間じゃないか」
「私たちはもう、人じゃない」
「それは」
「言葉の綾じゃないよ。死なない人間なんて人間じゃないよ。それに、宗教的見地からしたって、善い行いは来世に向けて徳を積むためだなんて言われてるくらいだしね。笑うでしょ。私たちに来世なんてないの。何でって? 死なないから」
「だから、善い人間でいる意味もないと?」
「ある?」
「無限の命をもつ君にとっては遊びでも、君に殺された人たちは皆限られた時間を必死に生き抜いてきたんだぞ。善い人間が何かって言われると僕にだって分からないさ。それでも、大切な誰かを守りたいと願ったり、人を愛することを貫く努力をすることは、決して悪行へと繋がったりなんかしないだろ? それだけじゃダメなのか? それが文乃さんの生き方なんだって、どうして認められないんだ」
――― きゃはははははは!
黒井七永の甲高い笑い声が響く。少女の姿をした悪魔の頭上、遠くの空からようやく朝が運ばれてくるのが見えた。
「何十年か、何百年か忘れたけど、定期的にお前みたいな奴が現れるんだよ、新開。無垢な目をして、この世の真理を知ったかぶった顔で、臆面もなく高らかに声を上げる。愛とはこういうものだっ、正義とはかくあるべきだっ、人が生きる本当の意味とはなにかっ、本来人の持っている正しき魂の導き手となりっ……。あいつもそうだった。ねえ、文乃。私たち二人も、あいつのそういう真っ直ぐな目と、汚れのない心に惹かれたんだっけね。恐ろしい、本当に恐ろしく長い時間を生きた。この若い男の目と声を前にするとさ、私はどうしようもなくあいつを思い出すんだ。思い出して、そして、心底吐き気がする」
黒井の目が、恥ずかしさに負けて俯いてしまった僕の顔を強引に上向かせた。黒井は唇を噛み、忌々しそうに僕を見ていた。そこにあるのは嫌悪感と、殺意だ。
「何でそんな目をするの?」
と、黒井は尋ねた。
大貫深香ちゃん。
壱岐課長さん。
岩下テルエちゃん。
岩下俊司さん。
内藤さんご夫婦。
柊木青葉さん。
坂東美千流さん。
そして、この場にいる数名。
間接的、直接的の違いはある。若くして光を失ったテルエちゃん以外、彼らが受けた被害はその全てが、死である。秋月めいちゃんは小児期のトラウマを穿り返されるような非道極まる攻撃を受け、それを目の当たりにした姉の六花さんは心を破壊された。しかし、ここへ来て僕は何故か、元凶である黒井七永を憎み切ることがどうしても出来なくなっていた。移り気な僕の感情こそが偽善なのかもしれない。
あんなに憎かったのに。
殺したいほど憎んだのに。
「何でそんな顔で私を見れるわけ?」
尚も黒井は言い、そして僕に問うた。
――― お前にその資格があるのか、と。
「だって覚えてるでしょ? 自分の人生がどういうものだったのか、生きてきた道を振り返れば全部思い出せるでしょ? 自分の手を見てみろよ。その手に触れてきたたくさんのものを思い出してみろ。そこにはまだ温もりが残ってるんじゃない? 勇気があるんなら、私のこの手を握ってみるか? もう何も感じやしないよ。温かさも冷たさも何も感じない。全部が過ぎ去った。物凄い勢いで風が吹き抜けてった。何人もの思い出が死んでいった。覚えていたいと思った大事な人たちがいつの間にか頭の中から消えていった。なんでそんな目で私を見るのよ。なあ、お前にその資格があるのか? 同じ時代を生きた仲間たちと共に死んで行けるお前に人を憐れむ資格があると思ってんのかッ。あるというなら、さあ。……さぁ今すぐここで泣いてみろォッ!」
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