【53】文乃

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【53】文乃

   僕たちを縛りつけていた恐るべき強さの霊力から解放され、十字架のように腕を広げた姿で立っていた全員が大きく息を吐き出した。だが、誰一人として黒井七永の隙をつくことは出来なかった。  二神さんや三神さん、あるいは幻子程の手練れであれば、タイミングを合わせて黒井の動きを封じるくらいの事は可能だったはずだ。だが誰も、そうしなかった。  理由はそれぞれ違うかもしれない。むろん僕のように、甘っちょろい感傷に牙を抜かれた未熟者とはわけが違うだろう。ただし、問答無用で悪魔をふん縛るべしといった鼻息の荒い意気込みを、誰からも感じられなかったことだけは確かだった。 「すべてを、お話します」  静かに文乃さんが言った時、黒井は僅かながら怒りのこもった顔で姉を睨んだ。だがこれまでそうであったように、相手の足場を率先して崩しに来るような卑劣な攻撃はもとより、その意志さえも今は見られなかった。  何かが、変ろうとしている。  あるいは、何かが、起きようとしている。  そんな不気味な気配が、朝の訪れとともに僕たちの方へと忍び寄って来ていた。 「七永の言う通りです。私は、皆さんに噓をついて生きてきました。私は、自分が何才なのかも数えられない程多くの年月を生きてきました」  文乃さんは僕と辺見先輩に背を向けたまま項垂れている。黒井七永が元居た場所で対峙していた幻子と三神さんだけが、文乃さんの顔を見る事が出来た。しかし幻子も三神さんも、二人揃って文乃さんの視線を受け止めきれない様子だった。  三神さんのあんなに悲し気な顔を、僕は初めて見たかもしれないと思った。元妻である柊木青葉さんの死に直面した時でさえ、一番手前に来る感情は怒りであったように思う。だからこそ、二神邸内へと立ち向かう事が出来たのだ。しかし今はただ、歪んで震える表情だけが零れ落ちる寸前で、三神さんの顔面にぶら下がっていた。 「私の本当の名前は文乃でありません。七永も、七永ではありません。黒井というのも、私たちが自分でつけた苗字です。私はただ……ただ、自分が呪われているのだとは思いたくなかった、それだけなのかもしれません」  文乃さんの言葉が、涙に途切れた。僕たちは待った。そして二神さんがその場で胡坐をかいて座り込む様子を、黒井七永が冷ややかに見降ろした。  やがて、文乃さんは話し始めた。 「大神鹿目という人のことを思い出す時、まず一番最初に浮かんでくるのは彼の信念でした。まだ、天正堂という呼び名もない時代、仲間たちとたった四人で始めた修道の集まりでしかなかった頃、彼は口癖のようにこう言っていました。我々は弱い、我々は必ず道を誤る、だからこそ真っすぐに伸びる正しき道を目指す事ができるのだ、そこにこそ……強さは宿るのだ」 「なつかしー」  黒井の目にほんのりと、だが心からの笑みが浮かんで、そして消えた。 「私たちが彼の命に手をかけた後も、私は、呪いを受け止めることが出来ませんでした。そしてある時、もともと私自身が生まれ持っていた霊能力を使えば、他人を癒す事が出来ることを知りました。六花さんの治癒能力は元来、私たち姉妹が備え持っていた力の一つです」 「レッカー」  と黒井は揶揄するように言い、手で作ったピストルで秋月さんを指さした。 「劣化ではありません。少なくとも私の力は、六花さんのように肉体の損傷を高速で再生していけるほど強力なものではありませんでした。本来であればもっともっと時間を掛けて傷を癒すか、あるいは……別の方法を用いてなら、おそらく六花さんよりも即座に対応する事が可能なのです」  僕たちが黒井七永に幾度も問われた真実が、ここにあったのだ。  三神さんが、その別の方法とは何かを問うた。文乃さんは逡巡し、一瞬僕たちのいる背後を振り返る素振りを見せた。しかし文乃さんは振り返らず、顔を上げて白み始めた夜空の端っこを睨んだ。 「文乃さんは、自分の命を切り離す事が可能なんですね」  そう言ったのは三神幻子だ。幻子の真剣な眼差しから大粒の涙が零れ、彼女を見つめ返した文乃さんは、やがて悲し気に頷いた。 「私がその事に気づいたのは大神さんと出会う前、とある村にいた女の子の目を、治した時です」  ――― 目? 「左目、ですか」  思わず僕はそう聞いた。文乃さんの左目は、出会った時から既にその視力を失っていた。大きな力を行使すれば自身の肉体にダメージとなって跳ね返るという文乃さんの言葉から、かつて恐るべき霊障と相対した結果招いた後遺症なのだろうと、僕は勝手にそう推測していたのだ。だが、そうじゃなかった。 「仰る通りです」  と文乃さんは言う。「不幸な事故により失明の危機にあったその少女を救いたい、そう思う一心で治療を試みた私の目が、突然、その少女の目と入れ替わったようになりました。正確に言えば肉体の交換ではなく、状態が入れ替わるのです」  三神さんが唸り声を上げた。  『リベラメンテ事件』によって僕たちが救われた背景には、僕たちの被るはずだった全ダメージを文乃さんがその身一つで受け切った事による命の交換があったのだ。その事を今よっやく理解した三神さんは、悔恨の唸りを吐き出し、辺見先輩は両手で顔を覆って泣いた。 「こうやって救う方法もあったのか、って。愕然とすると同時に、人にはない力を授かった私が辿るべき求道の生が開けたようにも感じました。ただし、この世から完全に消え去った命を戻すことだけは、私にも出来ませんでした」  そこかしこで涙を啜る声が聞こえた。 「そしてこの左目だけは、永遠の命を授かった後も癒える事がありませんでした」  と文乃さんが言った瞬間、 「授かっただと!?」  と黒井が吼えた。 「私はッ」  遮るように文乃さんは言う。「大神さんから呪いを受けたとは思っていない」 「はあ?」 「例え自分が死すとも、この世に彷徨える悲しい命たちをひとつでも多く救ってやってほしい、そんな願いが込められているのだと、自己暗示のように言い聞かせて生きて来た。七永、今のあなたとは違う」 「なんだってッ!?」 「命を切り離し、分け与え、この無限の命を削って他者の命を救うことこそが私に課せられた使命なんだと、そう信じたかった」 「な……?」  悠久の姉妹が正面から向かい会い、視線を交わらせた。 「私達の命には、ちゃんと限りがある。無限のものなどない。七永、あなたもそう思わない?」 「思うわけがないよ文乃。なにを根拠にそんなデタラメを言うわけ?」 「デタラメじゃないよ。だって、ここがゴールだもの」 「ゴール?」  文乃さんの言葉に、打ちのめされて泣いていた全員が顔を上げた。  真夏だというのに、恐ろしく冷たい風が吹いた。  文乃さんがゆっくりと振り返り、僕を見た。 「新開さん」 「はい」 「ひとつだけ、お伝えしなくてはならない事があります」 「はい。なんでしょう」  僕はガタガタと震える内臓を気合で抑え込み、必死に冷静さを取り繕った。ひ弱で無力な僕ではなく、一度でいいから、格好良い僕を見て欲しかったのだ。 「私と七永から始まる黒井一族はこれまで、そのほとんどを女系由来にして紡がれてきました」 「はい」 「つまり、私と七永が女の子を産み、その子が結婚してまた女の子を産み、そしてその子が結婚してまた女の子を産む。そうやって、しもつげむらの歴史は受け継がれてきました」 「はい、僕もそう聞いています」 「今、二神さんを名乗っているそちらの方が先祖代々受け継いで来た天正堂としての歴史は、大神さん亡き後その意志を同じくする三人のお仲間が後世に残した言葉を元にしています。そこにはおそらく、私たち姉妹に対する憤怒と憎悪だけがあり、いかにも正義の鉄槌を下したかのように言い伝えられているはずです。私がお話した限りでは三神さんですら、しもつげむらに隠された真実をご存知ではありませんでした」 「真実?」  と、三神さんが眉をひそめて声を上げた。  二神さんは胡坐をかいて座り込んだまま、自分を見下ろす黒井七永を見上げている。彼の目に浮かんでいるのは少しの怒りと、少しの憐みだ。そしてあとの残りは、彼の態度を見れば分かる。ただひたすらに、虚しさを感じているのである。 「大神さんを即身仏に変えたのは彼自身の願いではなく、生き残った他の同胞たちがかけた呪いです。全てを腐らしめる呪物として大神さんを変貌させ、私たちの村を『死告村(しつげむら)』に変えてしまった」 「……な!?」  三神さんが息を止めて二神さんを見た。二神さんは相変わらず座したまま動じず、ただ、黒井七永を見つめている。 「二神さんに非はありません。彼は伝承を引き継いだだけであり、私や七永がどれほど言葉を尽くした所で、受け継がれた思いが覆らない事は分かっています。どこかに非があるとするならそれは、私たちの方にこそあるのだと承知しています」 「何故ですか?」  愚直にそう問う僕に、文乃さんは頷いて続ける。 「私と、七永。どちらかの子孫がどこかで途切れてしまったとしても、どちらかの血筋が生き残ればそれでいい。時には地方の強い霊能者たちの血を交えながら一族としての力を強め、いつの日か私たち姉妹に掛けられた永遠の命の謎を解き、そして呪物と化した大神さんの力を封じるべく命を繋いでいく。……その為だけに黒井は一族としてのスタートを切ったのです。そのことで、多くの女たちの命を縛り付けて来たことに、罪がないとは思いません」 「そ ―――」  ああ、そういう事だったのか。  僕の視線が無意識に黒井を捉えた。  しもつげむらに住む水中さんという女性の証言が、再び蘇る。  水中さんは村への来訪を希望していた若い女性=黒井七永に、古くから村に伝わる儀式について知っているかと尋ねたそうである。『裏神嘗(うらかんなめ)』と呼ばれる、カナメ石の封印を強化する年に一度の祭祀に対し、その時黒井はこう答えている。 「死を告げるあの村の、恥の上塗りですね」  僕はその返事がずっと気になっていた。だが、ついにその謎も解けた。しもつげむらで、自分の子孫たちがカナメ石の呪いに縛り付けられていることを、当然ながら黒井は知っている。何故なら自分たちが始めたことだからだ。だからこそ、そんな皮肉が口を突いて出たのだ。  僕の視線に気づいた文乃さんは、黒井の様子に気を配りながら続けた。 「大神さんが受けた腐食の呪いを封じるという意味では、黒井一族に存在の価値はありました。ですが、事の発端を振り返った時、そこに立っているのは紛れもなく私たちなのです」  文乃さんはハラハラと零れ落ちる涙を拭おうともせず、やがて僕の目をまっすぐに見据えた。 「七永の気持ちが、長い年月を経て変わっていってしまったことに、私は気が付けませんでした。諦めた、と七永は言いました。それは言い換えればもともとは、彼女も希望を捨ててはいなかった、そういうことだと私は思います」 「はい」  僕は歪んだ視界を手の甲で拭い、馬鹿の一つ覚えみたいな返事を繰り返した。 「今回の事件は、同じ時を生きながら七永を止められなかった私に全ての責任があります。そして、新開さん、あなたにどうしても打ち明けられなかったこと。だけど、どうしても打ち明けなくてはならなかったことがあります。それは、あなたの……」  
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