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【54】かなしみの子ら
「それは、あなただけが持つ力と、あなたのお母さまについてです」
――― 僕の、母……?
文乃さんの背後にいつの間にか黒井七永が立っていた。それは背後というよりも、ほとんど文乃さんの背中にビタリとくっついて立っている。僕はギョッとなって文乃さんの名を呼ぶ。
「いつまで私に背を向けてダラダラと話を続けるつもり? 勝手に人の思いを代弁した気になっていい子ぶるんじゃない」
黒井の手が、強引に振り向かせようと文乃さんの肩にかかる。
「私はッ……」
だがその瞬間、文乃さんの肩に置いた手を離し、黒井が数歩後退した。
途切れた言葉に異変を感じ、文乃さんが振り返って妹を見た。黒井は目の前に立つ文乃さんではなく、ぼーっとした顔で空を見上げていた。それは自らの頭上ではなく、どちらかと言えば僕や辺見先輩、そして二神さんが座っている場所の上あたりを見つめている。黒井にとっては、前方斜め上、ということになる。だが視線を辿った所で、白み始めた夜空には何も浮かんでなどいなかった。
「今のうちに、大事なお話を済ませてください」
そう口を開いたのは、幻子だった。「付け焼刃です。長くもたせられる自信はありません」
「何をした?」
そう問う僕に、幻子は黒井を見据えたまま答えた。
「まぼろしを、見せています」
「黒井七永の力を借り受けたのかっ!?」
慄く三神さんの声に幻子は頷き、
「どうぞ、お早く」
と僕を見た。幻子の左の鼻孔からは鮮血の糸が垂れていた。
「新開さん」
何度目かの僕を呼ぶ声に、いつもとは違った文乃さんなりの覚悟が感じられた。「黒井一族が女系であったことの理由は、私たちの力の強さを保つ為であるということの他に、もう一つ大きな原因がありました。それは、生まれてくる男児が皆とても、短命だったからです」
文乃さんが打ち明けた直後、周囲のそこかしこで緊張の糸が張りつめる音が聞こえた。辺見先輩が喉を詰まらせる音、三神さんが奥歯を軋ませる音、秋月さんが涙を流す音、めいちゃんが目を閉じる音。紅さんが顔を覆う音。玉宮さんが背を向ける音。二神さんが溜息をつく音。聞こえる筈のない、それら全てが僕の耳に届いた。
「それは、僕のことを仰っているのですね?」
「はい。その通りです」
ごまかさずに、文乃さんは首を縦に振った。「紅おとこさん、玉宮小夜さんから私や七永まで遡る黒井一族の歴史の中で、男児が無事に生まれたことは一度もありませんでした。例え授かってもお腹から出て来ること叶わず、成人出来た男児は一人もいなかかったのです。唯一あなただけが、初めての成人男性ということになります」
「僕、が」
「ですが、あなたは単なる奇跡というだけの存在ではないのです」
「それはどういう意味ですか?奇跡では、ない?」
「全てのことに、理由はあるのだと思います」
「理由」
「玉宮さんのお嬢さんである、那周乃さん。彼女が他所の街で産んだとされる子ども」
「え ――― 」
「おそらくは三神さんですら名前を知らなかったであろう、その子どもが」
「……まさか、僕の?」
「お母さまです」
ずっと、そこだけが空白だった。
あるいは意図的に黒く塗りつぶされた歴史の影のようでもあり、しもつげむらの住人はもとより、三神さんも坂東さんもそこについては頭を振って、知らないと口を揃えた。
不思議な話だとは、ずっと思っていた。
僕は問う。
「二十年程前、那周乃さんに連れられて村を訪れたとされる彼女の幼い孫が、文乃さんではなく、幻覚を用いて村への侵入を果たした黒井七永であったなら、何故連れ立ったのが僕の母ではなく祖母である那周乃さんだったんですか?」
僕の言葉に文乃さんは少し間を置き、意を決したようにこう答えた。
「それは、おそらくですが、新開さんのお母さまが七永の手に届く場所にはいなかったからではないかと思います」
「死んだ後だったと、そういうことですね?」
「七永がしもつげむらを訪れていた理由自体を、私は今日初めて知りました。ですから……」
「あなたを責めているわけではないんです。ずっと気になっていたものですから。母は、その、僕を産んだ事が原因で、この世を去ったんですか?」
「はい」
「短命であると知りながら、それでも、男の子である僕を産んだと?」
「はい」
「そして自らも、命を落としたのだと」
「……はい」
「何故?」
泣くつもりなどなかったし、当然文乃さんを責めるつもりもなかった。受け入れがたい程壮大な黒井一族の物語はそもそもが、一介の大学生である僕の想像力の遥か上を行っており、感情が麻痺してしまっている部分もあった。だが、ここへ来て聞く母の話だけは、何故だかすんなりと僕の中に入って来るのだ。全てを知りたかったし、全てを受け入れたかったのだと、僕は自分の涙によって気づかされた。
ただし、理解は出来なかった。
「何故、母さんは、すぐに死んでしまう子どもなんかを産んだのでしょうか?」
僕の問いに、文乃さんはニコリと微笑んだ。「新開さんのお母さまは、とても強いお人でした」
「ワシらの方へもお前が生まれた話は漏れ伝わってきた」
不意に、二神さんがそう言葉を差し挟んだ。芝生の上に胡坐をかいたままではあったが、言わずにはおれなかったような、思わず口を突いて出たといった勢いを感じた。
「天正堂と黒井の因縁は長きにわたる。その中で唯一男児として生まれた子が新開、お前だと聞いた。興味はあった、だが、おそらく五年もつまいと思っていた」
麓の村で僕の名前が囁かれたのにはそういった理由があったのだ。五年生存しないと目論まれていた僕が、突如何の前触れもなく現れたのだ。僕の名前を知った時、さぞかし村人たちも驚いたに違いない。
「二神さんが仰ったように、例え無事に生まれて来ても、そのまま何事もなく育つ可能性は限りなく低いはずでした」
と、文乃さんは言う。「ですが、新開さんのお母さまが持つ強さと愛情が、運命をひっくり返したのです。短い命で終わるかもしれないあなたの人生を憂いながらも、決してあなたへの愛情を断ち切ることをしなかった。彼女は言っていました」
――― 何も分からないうちにこの子を殺してしまうことが、儚く散ることよりも幸せだと思いたくはありません。どうしても、思えません。男だから、女だからではない。私たち夫婦の子として、一人の人間として、たとえ一瞬であろうとも命ある喜びを全身で感じとってほしい。その為なら、私は自分が持てる力全てを、この子に分け与えます。
「新開さん」
文乃さんは言う。「あなたのお母さま、よりこさんは、私と同じ力を持っていました。いえ、私よりも強い愛情をあなたに注いでいた分、その力は何倍も強かったのかもしれない。黒井一族の男児が短命に終わるのは、自然の成り行きや偶然ではなくもはや呪いではあるまいかと私たちは考えていました。しかしよりこさんは呪いに打ち勝とうとした。自分の命を全てあなたに分け与える事で、あなたの寿命を飛躍的に延ばしたのです。そして尚且つ、それでもあなたに襲い来る過酷な運命から守りたい一心で、霊道を開いて戻ってこられるのです。たとえ誰が、何度祓い除けようとも……必ずあなたの側に」
かつて母は一度だけ、自分の意志に反した方法でこの世に戻ってきたことがある。それは三神幻子の行った降霊術によるもので、その時僕は初めて母という存在に触れて涙した。それまで、母のことをほとんど何も語ってこなかった父の影響もあって、自分にとって母なる者の存在は酷く希薄な概念でしかなかった。だが、死してなお僕を思う母の思念に触れ、ようやくその温もりを受け入れることが出来たのだった。
僕には、母がいた。
僕にも、ちゃんと母がいた。
その喜びは自分が思っていた以上に、僕に自信と安心をくれた。
それでもやはり、理解したとは言えなかったのだ。なぜ母は戻ってくるのか。なぜ僕の側に霊道が開くのだろう。それが単なる僕の霊能力なのか、あるいは違うのか、何も理解してはいなかったのだ。
だが、今日、今、すべてを理解した。
成人した子が一人もいないという黒井一族の男児。
五年もたないと天正堂で囁かれたかなしみの男児。
そんな僕を、命をかけてこの世に送り出してくれた母の言葉を、僕は知っている。
――― 好きなことをたくさん学びなさい。人の役に立つ人間になりなさい。私はいつでも側にいます。大きくなってね。大きくなってね。大きくなってね、ミトメ。
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