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【55】僕は
あの日、あの瞬間に起きた出来事を、僕らはまだうまく整理出来ないでいる。長い時間をかけて、現実と向き合う方法を模索した。友人たちの存在がなければ、この僕も、辺見先輩も、明日への一歩を踏み出すことは出来なかったかもしれない。
こんな事があった。顔を会わせれば体調を気遣い、電話をすれば「調子はどうか」が第一声になるのが誰しもの癖になっていた、そんなある日。
「ひとつの仮説を立ててみた」
と三神さんが言いだした。彼はずっと気になっていたという、ある現象についての推測を、さも重要な発見をしたかのような口ぶりで僕に話してくれた。
それは、
「何故、黒井七永であったドメニコに対して辺見嬢のロザリオが効いたのか」
という疑問であった。確かに言われてみれば、僕も気になっていた覚えがある。だが、そもそもイタリアの怪人、ドメニコ・モディリアーニとは何者だったのか。そこからして既に、謎は始まっているようにも思うのだ。
「それに関しては」
三神さんが直接、『広域超事象諜報課』通称・チョウジに確認を取っていた。ドメニコと名乗る老人は確かに実在しており、四十年程前に「悪魔憑き」としてローマ法王庁及びイタリア正教会から認定を受けていたそうだ。だが、やはりその正体は当時から黒井七永だったのではないか、という見方が今となっては濃厚なのだという。彼女の持つ永遠の命と幻術を用いれば、その身一つで架空の人間をこの世に顕現させることなど造作もないだろう。そしてそれを証明するかのように、あの事件以降ドメニコはどの国においても一切目撃されていない。むろん、ドリスも同じである。
「ではやはり悪魔憑きというのも、七永の起こした幻覚や錯覚の類だったのでしょうか」
僕の問いに、三神さんは軽く目を見開いた。
「そこなんだがねえ」
彼の説明によれば、黒井七永は自ら、自身に対して幻術をかけたのではないかという。それが、三神さんの立てたひとつの仮説であった。
「奴はその強力な力をもってして、己に悪魔と契約を交わす幻覚を見せた。それが奴なりの遊びなのか、はたまた一種のドーピングなのかは分からない。おそらくワシはその両方じゃないかと踏んでおる。つまり、幻術を解かぬ限り黒井七永は悪魔と取引をした人間であり、その身に悪魔を宿しているのと同じ効果を発揮し続ける」
「それは……呪いですね?」
「さよう。辺見嬢のロザリオが奴に効果てきめんだった理由は、それじゃないかと思うのだよ」
「なるほど」
そして返す刀で、僕は僕の抱えていた疑問をぶつけてみた。「以前、しもつげむらで玉宮さんと紅さんが黒井一族だという話をお伺いした際、三神さんは文乃さんのお父さんに会ったことがあると仰いましたね?」
「おお、おお、そうだったそうだった」
その事を疑問に思ったのは、一連の事件が終わった後になってからだった。しもつげむらにて僕は、文乃さんが玉宮さんのひ孫であるという話を聞いた。実際それは事実と異なっていたわけだが、あの村では三神さんからこう聞いている。
――― 西荻のとは、実はワシも会った事がある。彼は関西より西にルーツを持つ地方の出で、直接この村とは関係がない。ただ、この西荻という男もまた並々ならぬ霊力を有しておったよ。因果なものだな。
ところが蓋を開けてみれば、文乃さんはその西荻という男の娘でないばかりか、その男は文乃さんの子孫ですらない。何故なら黒井の家系で成人出来た男性は、僕一人だからだ。どこにも、因果関係が見当たらないのである。ということは。
「いや、噓をついたわけではない」
と三神さんは焦る風でもなく、そう答えた。「一時期、西荻のとよく顔を会わせていたのは事実だ。だが今にして思えば、自分を西荻と名乗った文乃嬢の方になにやら深い理由があったように思えるな。彼女が西荻の娘ではなかったのなら、何故黒井ではなく西荻姓を騙ったのかという点にも謎は残る」
「三神さんがかつてお会いしていたその西荻さんは、今もまだご存命なのですか?」
「いやぁ、それなんだがねえ、なかなか一筋縄ではいかん男なのだよ。これまでお前さんに話してこなかったのもそういうわけで、ううんむ、この国の暗部に関わる極秘事項でもあるからしてー、そのー、なんだー……」
と、こんな具合にひとしきり因縁話で盛り上がり、そして気付かないふりをして一日の終わりと始まりを跨ぐ。それは僕たちにしか出来ない、ある種の支え合いの方法だったように思うのだ。
今更、黒井七永の話をして何になるのか。
文乃さんの過去を辿って何になるのか。
単なる傷の舐め合いじゃないのか、そう思わないでもない。
だが三神さんだけではない。辺見先輩も、秋月さんも、幻子も、誰もが熱に浮かされたような目で、あの事件についての話を何度も繰り返した。そうすることで、とてつもなく辛い目の前の現実を一日でも多く乗り越えようと、無意識に、お互いの身体についている見えないゼンマイのネジを巻き直していたんじゃないだろうか。
あの時自分はこう思った。自分はこういう風に見ていた。あの時僕たちは確かにそこに存在したし、そして今も、ここにいる。止まってしまわないように、少しずつでも前に進めるように、見えないゼンマイを巻き続けたのだ。
ただ一つだけ言えるのは、この世には様々な愛情の形があって、決して他人には理解されない馬鹿みたいな形だったとしても、それが愛情であると伝わった瞬間、すべてに勝る力へと変わるということだけは、分かっているつもりだ。
あの時、三神幻子が黒井七永に見せた幻覚は、「大神鹿目の復活」だった。
天空より、天正堂階位・第一にして開祖、大神鹿目が舞い降りてくる瞬間を黒井七永一人が目撃していた。多くの霊能者たちの中にあって、カラクリの有無は別にしても、死者を呼び戻すことが出来るのは二神七権ただ一人である。彼にしたところで、目の前に死者の体がなければ魂を連れ戻すことは出来ない。だが間違いなく、見上げた空から六百年前に死んだはずの男が降りて来たのだ。
黒井の受けた精神的な衝撃はすさまじかった。仮にそれが純粋な喜びだとしても、心の起伏という一点だけを見れば計り知れない強さだったろうと推測出来る。ましてや相手は自分たちが殺し、なおかつ永遠に死ねない呪いを打たれた張本人なのだ。
愛情も、悲しみも、後悔だってあったかもしれない。だが黒井の受けた衝撃は、やがて全ての感情を怒り一色で塗り潰した。僅かに両腕を広げ、白目を剥いた黒井の身体が震え始める。すると、彼女の身体を震源にして大地が呼応するように揺れ動いたのだ。
二神さんが立ち上がり、三神さんとともに柏手を打った。
紅さんと玉宮さんが封印の霊力を黒井の真上から重ね掛けする。
しかし、棒立ち姿の黒井は意識がないようにさえ見えるにも関わらず、いずれの霊力に対しても全く力負けしなかった。誰が何をしても、彼女の震え一つ止めることは出来なかったのだ。
その時だった。
「教えてください!」
突如、辺見先輩がそう叫んだのである。先輩は僕よりも前に出てその身をさらし、悪鬼のごとき形相で天を仰ぐ黒井に向かってこう言った。
「教えて下さい、七永さん!あなたは本当は、何をしたかったのですか!確かにあなたは多くの命を奪い去った!だけど私にはあなたが、ただの遊びで他人の命を奪い去る人には思えません!しもつげむらに入り込み、大神鹿目を復活させ、今また多くの血を流した。だけど私には分かりません。七永さんの本当の声を聞かせてください!」
「それだけではないぞッ」
辺見先輩の言葉を引き継いだのは、三神さんだ。「リベラメンテ事件を引き起こしたのもお前さんなのだろ!? 大災害に巻き来れて死んだ多くの犠牲者たちがひとまとめにされて霊障化するなど偶然には起こりえない。お前さんは一体、何をしたかったのだ!」
「あなたは幻子さんに願った!文乃さんに会いたいと願った!会おうと思えば簡単に会えたはずなのに、どうしてこれまでそうして来なかったんですか!七永さん、あたな本当は……ッ!」
幻子のかけた幻術の中にいる黒井七永に、先輩たちの声が聞こえたかどうかは分からない。だが黒井は、空を見上げていた視線を僕らのいる高さにまでゆっくりと下してきた。
何もせず、何も見ていない。
少女の姿をした黒井七永がただそこに立っている。
彼女の剥き出しの腕やロングワンピースから覗く足首付近を、「チチチチ、チリチリ、チリリ……」不思議な音を発しながら、細く黒い蛇のような影が飛び回り始めた。
黒井の唇が開き、抑揚のない声が聞こえた。
「私はずっとずっと死にたかった。私の居場所はここじゃない。ここは寂しい。こんな世界にはいたくない。だから、お前ら全員殺してやろうと思って―――」
辺見先輩は涙に濡れた顔を両手で覆い、三神さんは眉間を震わせながら数珠を握り締めた。
「もう、もちません」
そう言った幻子の顔が歪み、右の鼻孔からも血が垂れた。
「新開さん」
文乃さんが僕を呼んだ。
「はい」
と僕は答えた。
「辺見さん」
「はい」
と先輩は答える。
「七永は私が引き受けます」
文乃さんはそう言い、「家族はたくさんいたけれど、あの子を分かってあげられるのは私一人だけですから」
と、微笑った。
「どうするおつもりなんですか」
辺見先輩が顔を上げて聞いた。
「責任をとります」
「どうして文乃さんが!」
秋月さんが立ち上がり、めいちゃんとともに僕たちの側へ駆け寄って来た。
「文乃、あんた」
「ごめんなさい、六花さん。嘘をつき続けた上に、こんなことになてしまって」
「そんなこと今更謝られたってどうしよもないじゃないか。文乃だって、内藤さんたちを」
「お姉ちゃん」
めいちゃんが秋月さんの腕を引いて黒井を振り返った。
大爆発でも起こしそうな程の稲妻を帯び、明滅する人型発光体と化した黒井が大地を震わせながら立っていた。もはや、霊能者とはいえ単なる人間である僕たちにどうこう出来る存在ではないと思った。
「新開さん」
「は、い」
「あなたは、私の希望です」
黒井に目を奪われていた僕の視線が、再び文乃さんに吸い寄せられた。
とても美しい顔をしていた。
文乃さんは、僕に向かってこう言った。
「今あるものを全部失ったとしても私は、全ては借り物だったのだと諦めることができます。だけど新開さん。あなただけは生きてください。それが私の、いえ、私たちの願いです。幸せになってください。誰よりも」
「ふ……」
僕たち目掛けて飛び上がった黒井七永の目には、人間らしい知性と理性を感じなかった。すでに、怖いとも思わなくなっていた。僕にはそれが、物凄く悲しかった。黒井七永が腕を伸ばし、僕、あるいは文乃さんに掴みかかろうとした。
「文乃さん僕は」
その瞬間、文乃さんは一歩前へ出て黒井を抱き止めると、音もなく現れた僕の母と一緒に霊穴へと真っ逆さまに落ちて行った。
「文乃さんッ!」
そこは、真っ暗で何もない穴だった。
地獄の業火もなく、パンドラの箱を開けた時に残る最後の光もない。
ただの、穴だった。
秋月さんが両手で何度も芝生を叩いた。
「文乃ッ!」
何度も何度も叩いた。
「行くな文乃!戻って来い!」
何度も叩き、その都度大地は眩い光を放った。
「私たちもあんたのマンションに引っ越すよ!皆で暮らそう!そしたら寂しくないから!七永がいたってかまわない!また引っ越し蕎麦作ってよ!皆で引っ越し蕎麦食べよう!だから!」
――― 行かないで!
やがて霊穴が閉じ、秋月さんの悲鳴と大地を殴打する音だけが残った。
僕は幻子を見た。
幻子も僕を見ていた。
少女は血と涙で顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。
僕は悟った。
ああ、もうどこにも希望はないんだな ――― と。
全部終わったんだなと、そう悟ったのだ。
三神さんは、文乃さんが消え去る瞬間彼女から最後のメッセージを受け取ったそうだ。
「さあ、あるべき姿へと戻そうか」
それは、拝み屋三神三歳の口癖でもあった。
僕は両膝をついてしばらくは何も考えられなかった。
冷酷非道な黒井七永の犯行を止められた達成感などこれっぽちもなく、文乃さんを失ったことによる世界の不安定さの方がよっぽど怖かった。自分が自分だけの足で立っていたことが今は信じられない程、世界の全てが頼りなく思えた。文乃さんという存在なくして、僕の世界は成立しないのだと知った。
辺見先輩が僕の肩を掴んで咽び泣く。これから先もこうやって、僕たちは泣きながら暮らして行くんじゃないだろうか。いや、これから先もずっと、僕たちは文乃さんのいない世界で生きていかなくちゃいけないんだろうか。
「ああッ」
と、誰かが驚きの声を上げた。しかし僕は霊穴の消えてしまった芝生を見下ろしたまま、指一本動かせなかった。
二神さんが、
「三神の娘!」
そう叫びながら僕の側を駆け抜けて行った。
「お姉ちゃん! ……さんが!」
そんな声も聞こえた気がする。
だがやはり、僕は振り返ることが出来なかった。なんとなく、そうなんじゃないかなとは思っていたのだ。優しい文乃さんのことだから、最後の最後に、彼女にしか成し得ない置き土産を残して行ってくれたのだ。
僕の目からようやく涙が溢れたのは、文乃さんの託した思いが蘇ってきた時だ。そして、僕の通う大学で初めて出会い、彼女の手を握り締めた記憶が蘇ってきた時だ。
僕には死ぬことなど許されない。いやでも前を向いて生きるしかない。それは今の僕にとっては非情に見える楔でも、いつしかその愛情が、僕の心の支えになる時が来ると信じて。
「……あなたに会えて僕は幸せです。文乃さん」
『かなしみの子』 了
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