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せんせいとすきな人
私は全速力で走った。
学校の運動会でもこんなに一生懸命に走っていないと思う。
すみ枝さんの部屋の前に来ると、息が整うのも待たずに呼び鈴を押した。
二度、三度押しても返事がない。
もしかして意識がないのだろうか。それとも病院に担ぎ込まれたのだろうか。不安が押し寄せて泣きたい気持ちになる。
思わずドアノブに手を掛けると抵抗なくドアが開いた。
私は躊躇することなく部屋へと入る。
電気が付いておらず、部屋は薄暗い。その部屋の奥のベッドに、眠っているすみ枝さんの姿があった。
「すみ枝さん?」
私は近寄り声を掛ける。すみ枝さんの反応はない。
「すみ枝さん!」
すみ枝に縋りつき、大声で名前を呼ぶ。
「ん?」
私の声に気付いたすみ枝さんがゆっくりと目を開けた。
「すみ枝さん! 良かった」
少し体を起こしたすみ枝さんに私は抱き着いた。
「え? 先生?」
「良かった、私、本当に心配で」
「え、あ、す、すみません」
すみ枝さんは動揺しているようだ。それも当然だろう。私たちは友だちでも恋人でもない。病床に倒れたといっても、いきなり部屋に上がり込むような関係ではない。
だけど、もうそんなことはどうでもいい。
誰に何と言われようと、何を犠牲にしても、私はすみ枝さんのそばにいたい。そう思ってしまったのだ。
私はすみ枝さんのことを何も知らない。私が知っているのは、私の気持ちだけだ。
「すみ枝さん、私、すみ枝さんのことが、好きです」
「先生?」
すみ枝さんは両手で私の肩を押えて、すがりついていた私の体を離す。
「どうしたんですか、先生」
「いきなり過ぎるのは分かっています。でも、本当に、私はすみ枝さんのことが好き、なんです」
「あの、あ、ありがとうございます。えっと、その、うれしいです。でも……」
私の心臓が軋みむ。
すみ枝さんは断ろうとしている。戸惑いと、どう伝えれば私を傷つけないかを考えながら発せられる言葉が続くのだろう。
辛いけれどそれも仕方のないことだ。まだ数えるほどしか会っていない。
それにすみ枝さんはみち枝さんのことを想っている。病床に倒れてもそばにいてくれない人でも、すみ枝さんにとっては大切な人なのだ。
私は目を閉じて死刑宣告を待つような気持ちですみ枝さんの言葉を待つ。
パチパチパチ
部屋に響いたのは乾いた音の拍手だった。
私は驚いて音のする方向を振り返った。玄関には仁王立ちをして手を叩いているみち枝さんがいた。
血の気が引いていくのがわかった。
ついこの間、直接あれだけのことを言われても尚、すみ枝さんの部屋を訪れた私に、みち枝さんがどんな罵声を浴びせるのか、想像すら付かなかった。
私は唇をかみしめて俯くことしかできない。
「ブラボー」
それがみち枝さんの発した言葉だった。
「先生、素敵。いいわ」
明るく弾む声が部屋の中に響く。嫌味だろうかとも思ったのだけど、こわごわ見上げたみち枝さんの顔は晴れ晴れとした笑みに包まれている。
私は呆然とみち枝さんを見上げることしかできなかった。代わりに口を開いたのはすみ枝さんだった。
「みっちゃんが何かしたの?」
その声には怒りが含まれている。今まで聞いたことのない声だ。
「ちょっと焚きつけただけよ。そんなに怖い顔しないで」
すみ枝さんの顔を見ると、目を吊り上げてみち枝さんを睨みつけている。
その視線を一身に浴びるみち枝さんはどこ吹く風といった表情だ。
「私に、あれだけくぎを刺されても、この部屋に駆け付けるパッション、グッジョブよ」
みち枝さんは笑顔でサムズアップする。
「えと、え? ちょっと待ってください。え?」
私は混乱して、みち枝さんとすみ枝さんの顔を交互に見た。一体何が起こっているのかまったくわからない。
「先生、みっちゃんに何を言われたの?」
「えと、すみ枝さんとみち枝さんは血の繋がらない姉妹だって」
「いや、ばっちり血のつながった姉妹ですよ。『みち枝』と『すみ枝』なんて、どう考えても同じ親が名付けた名前でしょう?」
すみ枝さんはちょっと呆れたような顔をして言う。
確かに冷静に考えればその通りだった。
「私はただ、私とスミは似ていないでしょう? って先生に聞いてみただけよ」
みち枝さんは平然と言う。
確かにそうだったかもしれません。だけど雰囲気とか、前後の話とかからすると、血のつながりが無いという雰囲気でしたよね?
という反論の言葉が喉の先まで押しあがってくる。それを押しとどめて、私は言う。
「す、すみ枝さんの絵の中にいつもいる人魚は、みち枝さんを描いたものだって」
「私は、スミが絵の中にいつも人魚を描いてるってことと、私が昔、溺れかけたスミを助けたっていう事実を伝えただけですよ」
「ウグッ」
思い返してみればそうだったかもしれない。でも、え? ウソでしょう?
私がエピソードをつなぎ合わせて、勝手に思い込んでいただけだっていうの?
「ちょっと待て、助けたって、そもそも突き飛ばしたのがみっちゃんでしょう」
「そのあと、ちゃんと助けたじゃない」
私は心身ともに疲れ果てて、ぐったりとその場にひれ伏すしかなかった。
「なんで先生を騙すようなこと言ったの?」
「騙してないわよ。ただ、誤解を招くような表現をしただけ。まんまと引っかかって誤解したのは先生の責任だもの」
なんだろう、みち枝さんは詐欺師なんだろうか。
「じゃあ、なんで誤解を招くようなことを言ったの?」
「それは、スミが鈍くて、愚図で、ぼんやりしているからでしょう。そうしているうちに、いつも他の人に取られて泣くことになるんだから」
すみ枝さんが顔を赤らめて「そんなことないよ」と子どものようにわめきたてる。
「あの作品展のときにスミが先生のことを気にしているのは分かったから、ちょっと背中を押してあげただけでしょう?」
「私は、私なりにゆっくりと、こう、お近づきになろうと思ってて」
「ゆっくりって、どれくらい時間をかけるつもりだったのよ」
「流里が卒業するまでなら四、五年あるし」
すみ枝さんの発言に私もちょっと引いた。さすがに気が長すぎる。そんなスパンで考えていたなんて驚きだ。
だがすみ枝さんも私に好意を持っていると解釈していいのだろうか。
「あなたバカでしょう。教師には転任もあるのよ。今好きなら、今責めなさい!」
みち枝さんはすみ枝さんを指さしてビシッと言い切る。
「て、転任。それは気付かなかった」
なんだか姉妹漫才を見ているような気持ちになってきた。
「で、でもね。先生には付き合っている人がいるみたいだから、私があんまりグイグイ行っても迷惑を掛けちゃうでしょう?」
すみ枝さんの言葉に私は目を丸くする。
「え? 私、付き合ってる人なんていませんよ?」
「うそ。誕生日のときに、デートだって言ってましたよね?」
確かにそんな雰囲気の嘘をついたような気がする。自分でも忘れていた。
「あ、あれは、その、つい……」
そして三人の間に沈黙が訪れた。
その沈黙を破ったのは当然みち枝さんだ。
「ほら、ごらんなさい。私がいなかったら、二人ともすれ違い続けて、結局何もないままサヨウナラだったわ。あー、こわい」
みち枝さんは両手で自分の体を抱えて震える仕草をした。私もすみ枝さんも言い返すことができない。
「とにかく、あとは二人でちゃんと話しなさい。美人のキューピッドは消えるわね」
そう言ってみち枝さんはウインクをすると、颯爽と部屋を出て行った。
「えっと、保護者会では気付かなかったんですけど、みち枝さんって、なんだかスゴイ人ですね」
「はあ、なんか、すみません」
すみ枝さんは頭をかいて謝罪した。
「あ、ところで、体調は大丈夫なんですか? すみ枝さんが倒れたって聞いたんですけど」
すっかり忘れていたが、私がここに駆け付けたのは、すみ枝さんが入院しなければいけないような容体だと聞いたからだ。
先ほどまでのやり取りを見ていれば、それも嘘だったのだろうと予測できるのだけど念のために確認しておこう。
「ちょっと徹夜仕事が続いて寝てただけで体調は普通です」
「そうですよね」
娘たちまで巻き込んだ嘘というのはちょっといただけない。流里さんも里香さんも本当にすみ枝さんのことを心配していたのだ。
あのみち枝さんのことだから、娘たちをうまく言いくるめてしまっているのだろうけれど――。
とにかくすみ枝さんが何ともなくてよかった。
ホッとしたのと同時に、先ほど盛大に告白したことを思い出し、顔に血がのぼる。
「あっ」
私は声を上げて立ち上がった。
「学校に戻らないと」
「え? 学校?」
「なんだか、お騒がせしてしまってすみません。何も言わずに学校を飛び出してきてしまったので。急いで戻らないと」
私は赤くなった顔を隠してすみ枝さんに伝える。
学校に戻ったらどれだけ説教されるだろうか。考えると気が重くなる。
「そ、それでは、失礼します」
私はそそくさとすみ枝さんの部屋を出た。
すみ枝さんが何か声を掛けたような気がしたが、今は冷静になりたくて、引き返すことはしなかった。
おっかなびっくりで学校に戻ったのだが、私が説教をされることはなかった。
どうやらみち枝さんが学校に連絡を入れていたらしい。
先週、みち枝さんが面談に来ていたこともあって、疑問を持たれることもなかったようだ。
そればかりか「流里さんは大丈夫でしたか?」とか「大変だったら相談してください」とか、温かい励ましの声をもらい、私はひどい罪悪感に苛まれた。
どうやら何から何までみち枝さんの掌の上だったようだ。
ぐったりとして自宅に戻ると、部屋の前にすみ枝さんの姿があった。
「あ、お帰りなさい」
「ただいま」
そう返事をして気恥ずかしさで顔が赤くなる。
「えっと、ちゃんとお話をしたくて」
すみ枝さんは頭をかきながら言う。
時間をおいて私も少し冷静になれた。
それにすみ枝さんの部屋で話をしていると、いつみち枝さんが登場するだろうかとドギマギしてしまいそうだ。
私はすみ枝さんを部屋に招き入れた。
部屋に入ったすみ枝さんはキョロキョロと部屋の中を見回し、絵を見つけて少し微笑んだ。
「飾ってくれているんですね」
そうしてすみ枝さんは絵を眺めながら床に座った。
私はキッチンで麦茶を用意してテーブルの上に置く。すみ枝さんはすぐに麦茶をひと口のんだ。私も喉がカラカラだったので麦茶で喉を潤す。
少し気持ちが落ち着いたところで私はすみ枝さんに疑問をぶつけることにした。
「すみ枝さんの絵の中の人魚はみち枝さんじゃないんですよね? 何か意味はあるんですか?」
所在なさげに膝を抱えて座ったすみ枝さんは少し目をそらす。そして麦茶を一口飲むと「私です」と小さく言った。
「それってどういう意味ですか?」
「絵の中に自分を描けば、その世界に入れるんじゃないか、みたいな」
すみ枝さんは少し顔を赤くして言いにくそうに話した。
すみ枝さんは私が想像していたよりもずっとロマンチストなようだ。
「現実には泳げないけど、絵の中なら自分も自由に泳げるなって描いたのが最初なんですけど、今はもうサイン代わりというか」
「でも、私の絵には人魚がいませんよね?」
思わず「私の絵」と言ってしまったことに恥ずかしさを感じつつ、すみ枝さんの返事を待つ。
だけどすみ枝さんはますます恥ずかしそうな顔をして体を小さくした。「私の絵」発言がいけなかったのかと思ったのだが、そうではなかったようだ。
「いますよ。ちゃんと」
すみ枝さんは消え入りそうな声で言うと、抱えていた膝に顔をうずめてしまう。
私は『未来』という名の絵を近くでよく観察する。
パッと見た感じでは人魚の姿を見つけられない。他の絵では目立つわけではないが、すぐに見つかる場所に人魚が描かれていた。
すみ枝さんの照れ方から推測すると、人魚が描かれているのは……。
私は、私を表現しているであろう、羽化しようとしている繭の近くに目を凝らした。
小さく口を開けた繭の裂け目の影に、のぞき込むように、声を掛けるように、ちょこんと座る人魚の姿があった。同系色で描かれているので本当によく見なければわからない。
「この人魚は、何をしているんですか?」
「お、応援してます」
すみ枝さんを見ると、これ以上ないというくらい小さくなってプルプルと震えている。
これまで抱いていたすみ枝さんへの印象が崩れ落ちていく。
大人で余裕のある態度に見えていたのは、五年という長ロングスパンで考えていたからだ。
話をしたいとウチまで来たのに、いざ部屋に入ると仔犬のように震えている。
絵の中に自分を描いてしまうようなロマンチスト。しかも私を表現した繭の近くに自分を描いて恥ずかしがる姿。
ついつい、大人でかっこいいすみ枝さんはどこに行ったの? と思ってしまう。
みち枝さんがすみ枝さんに対してお節介を焼いてしまう気持ちがよくわかった。
ダメだ……。
この人、超かわいい。
私は思わず抱き着いてしまいたい衝動に駆られたが、それをグッとこらえた。
私が好きだと思っていた、大人で余裕のあるかっこいいすみ枝さんではなかった。
だけど子どもみたいで、のんびり屋でヘタレなすみ枝さんのことも大好きだと感じている。
もっとすみ枝さんのことを知りたい。
「すみ枝さん」
私はすみ枝さんのそばに寄り、その手を取る。
「さっきも言いましたけど、私、すみ枝さんのことが好きです。すみ枝さんはどうですか?」
「す、好きです。でも、その、展開が急すぎて、ちょっとついていけないというか」
すみ枝さんはようやく顔をあげた。
「確かに急展開ですよね。私たち、まだお互いのことをほとんど知らないですし。だから、これからいっぱい話をしましょう。そして、もっと私のことを好きになってください」
すみ枝さんは満面の笑みを浮かべて頷いた。
まだお互いに知らないことばかりだ。
私たちの時間がようやく動き出した。これからゆっくりと時間をかけて、もっともっと好きになっていこう。
と、すみ枝さんのペースに合わせてみようと思っていたが、子どものような笑顔がかわいすぎる。
お互いにいい大人だし、我慢なんてしなくてもいいかな? もうすでに我慢できない感じなんだけど……と私は密かに考えていた。
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『せんせいとすみちゃん』
せんせいは、わたしの学校のせんせいです。
すみちゃんは、おかあさんのいもうとです。
せんせいが一ばんすきな人は、すみちゃんです。
すみちゃんが一ばんすきな人は、せんせいです。
だから、せんせいとすみちゃんは、とてもなかよしです。
わたしも、せんせいとすみちゃんみたいに、お友だちとずっとなかよくしたいと思います。
おしまい
本編はこれで完結ですが、外伝に続きます。
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