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せんせいとニックネーム(せんせいとおばさん外伝1)
「ただいま」
私は、学校での仕事を終えてすみ枝さんの家に行った。
すみ枝さんから、しばらく仕事が立て込む予定だと聞いていたので夕食を作りに来たのだ。
「あ、お帰り。お疲れさま」
そんなすみ枝さんの声と同時に
「お邪魔してます」
という倉田さんの声も聞こえた。
すみ枝さんからのメッセージで、倉田さんが打ち合わせに来ていることは知っていたので驚かない。
私が来たときには打ち合わせは終わったのか、二人はリラックスモードになっていた。
「なんで、三鷹さんはすみ枝なんかと付き合っちゃうかなぁ」
もう何度も聞いた倉田さんの言葉だ。
「絶対に、オレの方がいいと思うよ。オレの方がちゃんとした人間だよ」
私は苦笑いを浮かべていつもの言葉を聞き流す。
「すみ枝なんて、ぼんやりしてるし、いい加減だし、自由人だし、絶対に苦労するよ?」
「やだ、そこがかわいいんじゃないですか」
そして私の返事もいつもの通りだ。
倉田さんは腕を目元に当てて大げさに泣く真似をした。ここまでが最近のお決まりのやり取りになっている。
「そういえば……」
私はずっと気になっていたことを聞いてみることにした。
「倉田さんとすみ枝さんって、随分長いお付き合いなんですか?」
すみ枝さんは「いつからだっけ?」と首をひねる。そして倉田さんが顎に手を当てて宙を見上げながら答えた。
「二、三年前じゃなかったかな? ほら、代理店挟んだデカい仕事でチーム組まされたときだよ」
「ああ、あれか」
「以外と最近なんですね」
ちょっと予想外だった。それこそ学生時代からの友だちと言われた方が納得できる。
だが、本当に聞きたいことはここからだ。
「仕事で知り合ったのに、お互いに呼び捨てをしてるなんて、随分気が合ったんですね」
学校なら「三鷹先生」とか「鬼頭先生」とか、苗字に先生を付けて呼び合うのが普通だ。
一般的な社会人ならば苗字にさん付けか、役職だろう。
「いや、初対面で、こいつがいきなり「キタロー」って呼んだんですよ。信じられないでしょう?」
「へー、すみ枝さんが?」
すみ枝さんを見ると、当時のことを思い出したのか、ウンウンと頷いた。
「だってさぁ、『オイ、キタロー』って呼んでみたくなるでしょ、普通」
すみ枝さんは、名前の部分だけ高い声色を使って言う。
「そんな理由かよ。まあ、ガキの頃、よく言われたけどなッ」
倉田さんは憮然とした顔で言った。
倉田さんが帰った後、すみ枝さんは少し作業をするというので、私は夕食の準備に取り掛かった。
「先生、ゴメンね。疲れてるのに一人で料理させちゃって」
「あ、大丈夫。すみ枝さんがいると邪魔だから」
「マジか」
すみ枝さんは落ち込むフリをしながらパソコンに向かい続ける。
これくらいの軽口が言える程度には二人の距離は近づいていると思う。
だがすみ枝さんはいまだに私のことを『先生』と呼んでいた。
倉田さんのことは出会ってすぐに呼び捨てにしたのに、なぜ恋人の私のことはいつまでも『先生』と呼ぶのだろう。
まさかまだ恋人ではない、なんて考えているわけではないと思う。いくらマイペースなすみ枝さんとはいえ、さすがにそれはないと思いたい。
ほんの少しそんな可能性があるのが怖いところだが――。
そもそもすみ枝さんは呼び方にあまりこだわりはないという可能性もある。
私が『脇山さん』ではなく『すみ枝さん』と呼んでみたときには気付きもしなかった。
だから倉田さんのことを初対面で『キタロー』と呼べるし、恋人の私を『先生』と呼び続けているのかもしれない。
私はチラリとすみ枝さんの姿を覗き見た。
真剣は表情でパソコンに向かう横顔はとてもかっこいいと思う。
でもそれに騙されてはいけない。すみ枝さんは超ヘタレなのだ。
だから呼び方を変えることができず、仕方なく『先生』と呼び続けているのかもしれない。
そういえば、私はこれまで人の呼び方をどんな風に変えてきたのだろう。昔付き合っていた人や友だちも、最初と仲良くなってからでは呼び方が変わっている人はいる。何かきっかけがあったはずだけど、それが良く思い出せない。いつの間にか自然に変わるものなのかもしれないけれど、すみ枝さんにそれを求めたら、何十年も『先生』と呼び続けられてしまいそうだ。
思い切ってすみ枝さんに「樹梨って呼んで」と言ってみようか。かなり恥ずかしいけれど、すみ枝さんに遠回しな言い方は通じないような気がするから、これが一番よさそうだ。
そうするとすみ枝さんはきっと、顔を真っ赤にしながらしどろもどろになるだろう。それでも戸惑いながら名前を呼んでくれるはずだ。
そんなすみ枝さんの姿を想像したら思わず顔がニヤけてしまった。
すみ枝さんと二人で食事を食べ終えると、「今日は泊まっていく?」とすみ枝さんが聞いた。
「ううん、明日の準備もあるから家に帰る」
「そう。じゃあ、送ってくよ」
「忙しいでしょう?」
「大丈夫、それくらいの時間はあるから」
すみ枝さんはのんびりと食後のお茶をすすりながら言った。食事をしながら、何度も「樹里って呼んで」と言うタイミングを伺っていたのだが、いざとなると気恥ずかしくて口に出すことができなかった。
とりあえず今日はあきらめてまた日を改めて挑戦することにしよう。そう思っていると、すみ枝さんが「あー、そうだ」とつぶやいた。
「どうしたの?」
「ずっと気になってたことがあるんだけど、聞いてもいい?」
「うん。なぁに?」
「先生は、流里や里香のこと『流里さん』とか『里香さん』って呼ぶでしょう? 学校ではそう呼ぶように決まってるの?」
「そうだよ。友だち同士でも、基本はそう呼び合うようにしてるの。あだ名をきっかけにしたいじめもあるし……。いじめまでいかなかったとしても、その呼び方は嫌だって言えない子もいるでしょう?」
「そっかー。理由はわかるけど……。ちょっとだけ寂しい気もするね」
「そうだね……」
すみ枝さんが言わんとすることはわかる。呼び方で人を傷つけることもあるけれど、友愛を示すことだってできるのだ。それを画一的に決めてしまうのが果たして本当に良いのか、私自身にもわかっていない。
そのとき突然すみ枝さんが私に体を寄せて、右手をスッと伸ばした。そして私の頬に沿って手を添えて目をジッと見つめる。
真剣な顔でそんなことをされたものだから、心臓が思いっきりドクドクと脈打ちはじめてしまった。
付き合うようになってこういったシチュエーションを経験しているけれど、急にモードチェンジをするのはずるいと思う。
「樹梨」
すみ枝さんがささやいた。
「え?」
「って呼びたかったけど、それならやめた方がいいよね、先生」
そうして体を離すと、すみ枝さんは片方の唇を上げて意地悪く笑って見せた。
「そ、それは学校の中の話で……」
「いやいや、子どもたちの見本になるべき先生だからな」
「ちょっと、ねえ、もう一回呼んで、ねえ」
私の言葉を無視して、すみ枝さんは車の鍵を持つと指先でクルクルとまわしながら玄関に向かった。
「遅くなるといけないから送りますよ、先生」
「ねえ、ちょっと、待ってよ」
そうして私はすみ枝さんの背中を追いかけた。
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