せんせいとプール

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せんせいとプール

『プール』 きのしたるり 学校でプールがはじまりました。 プールがすきなのでうれしいです。 一年生のころよりも、たくさんおよげるようになりたいです。 だけど、あまりじょうずにおよぐことができません。 すみちゃんにどうしたらじょうずにおよげるか聞きました。 すみちゃんは、 「わたし、およげないよ」 といいました。 すみちゃんはおとななのに、およげないなんてへんだなあと思いました。 ********* *********  子どもの頃は、夏休みには学校の先生もお休みをしていると思っていた。だが、そんなことがあるはずはない。  夏休みになっても教師はちゃんと学校に行く。ただ、授業がない分、若干精神的な余裕はあるだろうか。  今日は、鬼頭(きとう)先生とプール当番である。  午前中に気温やプールの水質検査など必要なチェックを終わらせた。 「今日は暑くなりそうですね」  鬼頭先生が手で目もとに影を作りながら言う。 「そうですね」  私は空を見上げた。真っ青な空には雲ひとつない。急な雨の心配もなさそうだ。  今日の夕方には、各局のニュース番組がこぞって最高気温を叩き出した地域について報道することだろう。 「大プールの方はボクが見るので、三鷹(みたか)先生は小プールの方をお願いしますね」 「はい。分かりました」  鬼頭先生は五年二組の担任をしている。年齢は四十代半ばだが、子どもたちの流行にも敏感でユーモアがあるため、児童の人気も高い。  鬼頭先生と一緒の当番は精神的に楽だ。大変なところは率先してやってくれるし、若いからといって見下すようなことを言ったりもしない。  結婚して三人の子どもを持っていると聞く。こんなパパなら、子どもは自慢だろうな、と私はぼんやりと考えていた。 「どうしました?大丈夫ですか?」 「え、あ、大丈夫です」  ぼんやりとした私の様子を熱中症か何かを疑ったのだろう。私は慌てて背筋を伸ばした。 「今日は、児童たちもいっぱい来るでしょうから大変ですよ。プールの時間まではちょっとゆっくりして体力を蓄えておいてくださいね」 「はい。ありがとうございます」  私は笑顔で答えて鬼頭先生と共に校舎へと戻った。  七月七日、私はひとつ年を取った。そして私は、考えることを止めた。  私は新米教師であり、新米担任なのだ。仕事以外のことに心を奪われている余裕なんてない。そもそも私は恋も仕事もなんて器用なタイプではないのだ。  二兎追う者は一兎をも得ず、ということわざもある。  今の私がするべきことは、一日でも早く一人前になれるように仕事に集中することだ。  なぜ街で脇山さんに出会ったとき胸が高鳴ったのかとか、なぜ一緒にいた女性との関係が気になったのかとか、なぜあの男性との関係が気になり、私乗った車に二人で乗るのがイヤだと思ったのかとか、そう言った諸々のことを考えるのはやめた。やめてしまえば心は穏やかでいられる。  午後になって私は子どもたちを迎える準備をはじめた。  更衣室で水着に着替えて、上からTシャツと短パンを着る。入念に日焼け止めを塗ることも忘れない。さらに麦わら帽子も被った。  レジャー施設のプールでは決して見せられないような姿だが、学校のプールではこの姿がテッパンだ。  プールサイドに行くと、すでに数人の児童と大人たちの姿があった。  集まっている大人は、今日のプールの見守りをしてくれる保護者である。保護者たちで当番を決めて見守りに参加するルールとなっている。 「今日はありがとうございます。大変暑いので保護者の皆さんも熱中症には十分に注意してください」  鬼頭先生が保護者たちに声を掛けた。  そしていくつかの注意事項を伝えると、それぞれが所定の場所に移動する。  一、二年生は小プールを利用するため、その保護者は小プールの監視。三年から六年の保護者は大プールを監視する。集まった人数によって、多少移動はあるがこれが基本の配置だ。  私も予定通りに小プールに移動する。  移動の途中で頭からタオルをかけ、その上につば広の帽子、長袖のカーディガンとジーンズ。サングラスまで掛けて日射し対策に余念のない女性が私に話しかけた。 「先生は水着じゃないんですか?」 「は?」 「いや、先生の水着姿が見られると思って、ちょっと期待してたんですけど」  ニコニコと笑顔を浮かべるのは脇山さんだった。  だけど私は考えることを止めたので、そんな脇山さんの笑顔にも言葉にも動揺なんてしない。 「万一ために、この下には着てますよ」  私は淡々と事実をそのままに伝える。 「そっかー」  脇山さんはなぜか残念そうな顔をする。どうして私の水着姿を見たかったの? なんて考えたりはしない。 「今日、流里さんのお母様は?」 「仕事が抜けられないみたいです。来週は里香の当番もあるから、今日は私が代打です」 「そうですか」  私は軽く会釈をして脇山さんとの話を切り上げて自分の仕事に戻った。  脇山さんに気を取れている場合ではないのだ。プール当番は神経を使う。  やることは準備体操をさせること。プール入らせたり休憩させたりを時間通りに行うこと。危険がないか見守ること。大きくはこの三つだけだ。  だけどプール当番の疲労はかなり大きい。第一に暑い。どんなに暑くてもドボンとプールに飛び込んで涼むことはできない。  そして子どもたちは夏休みのプールに高揚している。その高揚感は授業中のプールとは比べ物にならない。そのため大きな声で注意をしても耳に入らないこともある。  高揚した子どもたちは、大人が想像もしていないことをやってしまうこともある。そして小さな油断が大きな事故を招くのもプールの怖いところだ。  私はプールサイドを巡回しながら、子どもたちの様子に気を配る。  楽しいことに夢中になっていると、子どもは自分の体調にも気付かない。そのため唇が明らかに紫に変色していても遊び続けてしまう。  子どもたちの顔を見ながら、そうした体調の変化にも気を配らなければいけない。  保護者の方たちも見守ってくれているが、あくまでも私たち教師がしっかりと目を配ることが第一前提だ。  プールは事故もなく無事に終了した。子どもたちを送り出してようやくホッとできる時間になった。 「先生さよーなら!」  口々に言ってプールを出て行く子どもたちを「気を付けて帰ってね」と笑顔で見送る。  小プールの端にまだ残っている人影を見つける。 「すみちゃん、見てくれた?」  プールから出た流里さんが、プールサイドにたたずんでいた脇山さんに抱きついた。 「おおう、ベタベタ。近寄るな、濡れる」  脇山さんは少し乱暴な口調で流里さんを遠ざける。それが楽しいのか、キャッキャと笑って流里さんはなおも脇山さんにまとわりついていた。さらにそこに姉の里香さんも参戦して脇山さんに抱きつこうとする。 「やーめーれー」  脇山さんは方言のような口調で叫びながら、姪っ子たちを両手で制していた。  あの姉妹が、本当に脇山さんのことを好きなのだと伝わってくる。脇山さんも姪っ子たちを溺愛しているのだろう。  私は彼女たちをうらやましいと感じていた。  素直に『好き』という気持ちを表現できなくなったのは、いつ頃だろう。年齢を重ねるたびに、『好き』を表現することが難しくなってきたような気がする。  恥ずかしい。まわりの目が気になる。世間体。自分が傷つきたくない。色々な理由で、自分の中に生まれた『好き』という想いを何かで覆い隠す。 「すみちゃん、今度、泳ぎ方おしえて!」  流里さんが脇山さんにねだった。だが脇山さんは困った顔をして「無理だな」と言った。 「私、泳げないもん。泳ぎならお母さん頼みなさい。あの人、実は人魚なんだぞ」 「うそだー」 「本当だって、マジすごいから」  流里さんも里香さんも母親が人魚だという話を信じようとはしない。  私は大きな声で三人に呼び掛ける。 「流里さんも里香さんも早く着替えてください」  すると二人は元気よく返事をして更衣室へ移動した。  姪っ子たちから解放された脇山さんが出口に向かって歩いてきた。近づいてきたところで、私は「お疲れ様でした」と事務的に挨拶をする。  そして私はプールに忘れ物がないかを確認するために、脇山さんと入れ替わりにプールへと向かった。  そのとき脇山さんが「先生」と私を呼び止める。 「はい、なんでしょう?」  振り返ると脇山さんは少し体をかがめて私の顔を覗き込んだ。 「んー、なんだか元気がないですか?」 「いえ、そんなことはありませんよ」  私は表情を変えずに答えた。考えるのを止めてから心は穏やかだ。体も至って健康である。 「そう? ならいいんですけど」  脇山さんは少し納得のいかないような表情を浮かべたが、すぐに笑顔を作り、ジーパンのお尻のポケットから一枚の紙を取り出した。 「うわ、汗でよれよれになってる。あー、しょうがないか。これ、よかったらどうぞ」  そう言って差し出したのは一枚のポストカードだった。  誕生日の日にもらったものと同じ絵柄のポストカードだ。 「これは……」  もういただきました、と言おうとしてその言葉を飲み込む。そして「ありがとうございます」と言って、素直に受け取った。  脇山さんにとっては、渡したことすら忘れる程度のものだったのだろう。偶然出会った日が私の誕生日だったから、たまたま持っていたものを渡したというだけだ。  それを宝物のようにフォトフレームに入れて飾っているのは、私の勝手だ。  だから心は動かない。  脇山さんはいつものようにニッコリと笑って「それじゃあ、失礼します」と言ってプールを出て行った。  脇山さんの後ろ姿を見送っていると、脇山さんはふと足を止めて振り返り、子どものように大きく手を振った。 「先生、待ってますからね」  私には脇山さんの言葉の意味がわからず、曖昧に笑みを浮かべることしかできなかった。
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