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瑞穂
机に広げたイラストを眺めながら、小さく溜息をついた。
周囲に誰も居ないことを確かめ、名刺入れを取り出す。そっと抜いた名刺には、広告部課長・山下渉という名前があった。
貴方も写真家ではなかったのね、と私は思った。
あの夜以来、私は寝ても覚めても恭平のことが思い出されてしかたがなかった。思いあまってネットを使い、写真家の名前を調べたりもした。しかし、本名で活動していないのか、香坂恭平という名前の写真家は見つからなかった。それでも、それなりに名の売れた写真家なら、調べる方法があるはずだと思った。しかし、思ってすぐに打ち消した。もし、彼と再び会えたとして、どう言えばいいのだろう。江坂瑞穂なんて女性はいない。嘘をついていたと知ったら彼は怒るかもしれない。そう考えただけで、絶望的な気持ちになった。
そんな矢先の再会だった。
写真家を探しても見つかるはずがない。恭平は大手企業の広告課長だったのだ。その上、名前もまったく違っていた。
遊びだったのだろうか。そう思うと悲しくなった。
あの夜、激しく求め合う時を経て、ふたりは心が通じ合えたと感じていた。それは私だけの思い込みだったのだろうか。
会って確かめたいと思った。
しかし、互いに嘘をついていたとはいえ、名前と職業を偽っただけの彼と、傷心の未亡人を装った私とでは嘘の重さが違う。彼は瑞穂という女性に惹かれただけで、実際の私を知ったら興ざめだろう。
「利恵ちゃん、どう?間に合いそう?」
突然、声が掛かった。
「あ、はい。なんとか」
慌ててイラストの修正に取りかかる。
吹けば飛ぶような広告代理店。私はその片隅に間借りをして仕事をさせてもらっている。
メインはイラストだが、その仕事だけで食べていけるわけがない。Webサイトの修正や校正の手伝いなど、ほとんどがお手伝いで食べているのが実情だ。
こんな私でも、以前は大手企業の営業推進部に勤めていた。
あの不倫騒動さえなければ、辞めることなどなかっただろう。
相手の男性に家庭があることはわかっていた。彼がそれを捨てられないことも。なのに、バカな私はムキになってしまった。そして、一番の損な役回りを演じることになったのだ。
結局会社を辞め、仕事でつきあいのあった小さな代理店と仕事をすることにした。子供の頃から好きで続けてきたイラストの仕事を、回してくれると言われたからだ。しかし、現実はそんな甘いものではなかった。
旅行は、今の私にとって一番の楽しみだった。精一杯のおしゃれをして、少し贅沢なホテルに泊まる。一緒に行く友だちは、無理をしているんじゃないかと気にしてくれる。一流企業のOLの彼女と私とでは、経済状況が大きく異なるからだ。でも、そんなことでもなければやっていられない。
ただ、しばらく旅行はやめようと思っていた。結婚してしまった友人は、そうそう一緒には出かけられないし、一人旅なんてもうしたくない。
いろいろなことが頭に浮かび、イラストの修正が少しも進まなかった。
これを今日中に仕上げなければならない。そしてOKさえ貰えれば、もう私があの会社に出向くことはない。
どうして再会などしてしまったのだろう。二度と会わなければ、私は瑞穂という女性のまま彼の心の中にいられたのに。そしてそう信じることが、私自身の幸せでもあったのに。
こんな偶然などあるのだろうか。これは罰かもしれない、気まぐれな嘘であの人の心を弄んだ罰。
そのとき事務所の電話が鳴った。
電話番も私のお手伝いのひとつだ。手を伸ばし、受話器を取ろうとした。
しかし、一瞬早く、事務所の向こう端にいた男性がそれを取った。
元気な声で社名を名乗っている。
「澤田?ああ、彼女もこの番号でいいですよ」
電話を取った男性の声がした。
彼は、こちらに向かって言った。
「利恵ちゃん、電話。取り次ぎ一番ね」
「はぁい」
答えて受話器を取った。
「はい、澤田です」
告げると僅かに間があった。
そして、男性の声が言った。
「江坂瑞穂さんですか?」
私はびっくりして目を見開いた。
慌てて周囲を見わたす。
いま近くにいるのは、この電話を取った男性だけだ。
私はその彼に背を向け、隠れるように言った。
「瑞穂です。恭平さん?」
「やっと見つけたよ」
苦しいほど胸の鼓動が踊っている。
「ごめんなさい、私、あんな嘘をついて」
「嘘はお互い様だよ」
「でも」
声をつまらせると、
「恭平が、瑞穂に会いたがってるんだ」彼は言った。「彼女のことを心配してる。ぜひもう一度あって伝えたいことがあるらしいんだ」
「瑞穂も」私は言った。「恭平のことが忘れられずにいるみたい。彼女も同じ。伝えたいことがあるんですって」
「そう、それはよかった。彼も喜ぶよ。いつなら空いてる?」
「今日はお仕事が入っているの。でも、早いほうがいいわ。きっと彼女、待ちきれないと思うの。明日はどうかしら?」
尋ねると、
「それがいいな。恭平のヤツもせっかちだから」
戯けた口調で彼は言った。
そして電話を挟んで、ふたりいっしょに笑った。
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