恭平

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恭平

「僕は、香坂恭平といいます」  その名前は、最近読んだ推理小説の主人公のものだった。  偽名を使ったのは、その日の昼間、彼女についてしまった嘘のせいだ。  彼女と出会ったのは紅葉に染まる湖のほとりだった。私は人気の途絶えた遊歩道で、カメラを手に湖畔の撮影に夢中になっていた。何枚かシャッターを切ったあと、ふと気づくと、少し離れた場所から彼女がこちらを見つめていた。  年の頃なら30前後だろうか。楚々とした美しさを感じさせる女性だった。 「写真家の方ですか?」  そう尋ねられ、思わずうなずいてしまった。大きなカメラバッグに、本格的なデジタル一眼を手にしていたからそう見えたのだろう。ただそれは趣味が高じてのこと、けっして私は写真家などではなかった。  その後、遊歩道を歩きながら話をした。  彼女は、事故でご主人を亡くし、思い出をたどってこの場所を訪れたのだと言った。遊歩道でふと見た私の横顔が、ご主人に似ていて思わず見入ってしまったのだと。  私は、自分は写真家で、本格的な撮影の前の下見としてこの辺りを回っているのだと言った。  ふたりは遊歩道を終わりまで歩き、そこで別れた。  どこかでお茶でもと思ったが、言い出せなかった。まだ心の傷が癒えずにいる女性に、そんな誘いを掛けるなど失礼だと思ったからだった。  数カ所の撮影を終え、日が暮れるころにホテルに戻った。  そこは、湖畔を望む景色が美しく、この辺りでも名の通ったホテルだった。男一人で泊まるには過ぎたホテルとは思うが、30歳半ばを過ぎて独身の私にとって、週末に出かける撮影旅行は唯一の趣味なのだ。宿には、少し贅沢をすることにしている。  チェックインは終わらせてあった。フロントでカギを受け取り部屋に向かおうとした。すると、ラウンジに立つ女性の姿が目に入った。  湖畔で出会った彼女だった。驚いた顔でこちらを見ている。  立ち止まり会釈をすると、彼女も会釈を返してきた。 「ここにお泊まりでしたか」  話しかけると、 「ええ、あなたも」  彼女は控えめな笑みで応えた。  そして名乗った名前が『香坂恭平』だった。  カメラマンなどと嘘をつかなければ、本名を告げたと思う。ただ、相手は旅先で出会った行きずりの人、今はこのままカメラマンを演じるのも悪くないと思ったのだ。
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