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03,万理を超越せしは翡翠の筋肉
魔物は理不尽な存在! 振るう力も理不尽極まる!
故に、退魔士は徹底して教え込まれる。
可能であれば、何かが起きる前に殺せ。
それが無理なら、何が起きても混乱するな。
魔物との戦場において、ありえない現象など存在しない。
すべてに冷静な心を以て対処せよ。
――対処を!
千夜鈴の右腕と左足にいつの間にか一巻きされた不審な荒縄。
これが、自身の動きを封じているのだろう、くらいの事は千夜鈴にだってわかる。
右腕も左足も、動かせない。力んでも虚しく震えるだけ。
超重量の退魔の刃を振るえる膂力を以てしても、振り解ける気がしない……!
――それなら!
急ぎ、自由に動く左手を、左足に巻かれた縄へと伸ばすが……。
「おいおいおいおい、反省してないな、テメェ」
伸ばした左手を、ガシッと掴まれてしまった!
千夜鈴の手を掴み止めたのは、奇怪な皿男。大皿番長!
厚手のセーラー服の袖越しに掴まれたのに、凍傷になりそうな冷たさ、氷の塊のような皿男の体温が伝わってくる!
「ワシは、テメェが割った皿の枚数を数えろと言ったんだ。テメェの罪科を数えて、その罪悪感の余りにめそめそと泣き震えろと言ったんだ。だのに何だ、この手は……! 縄を解こうとして良いなどとは、一言も言っていないぞォーッ!」
皿男は怒号を発すると、空いている手を自らの懐に突っ込み、純白の皿を一枚取り出した。
そして何を思ったか……その皿を、そのまま握り砕いて割ってしまった!
「……!?」
「ああ、割ってしまった。何故かわかるか? それはテメェがワシを怒らせたからだ。テメェの愚行がワシに皿を割らせたんだ。つまり――テメェが皿を割った。テメェが皿を失くした。これで、三枚目だ!」
皿男の顔皿の奥から紡がれる、理不尽な理屈。
途端、異変が起きる。
どこからともなく現れた縄が、千夜鈴の喉に巻き付いた!
右腕と左足に巻き付いているものとまったく同じ荒縄だ! これで三巻き目!
「――ぃゅ――」
――息が、できない……!?
いくら息を吸い込んでも、取り込んだ空気が喉を通らない!
喉を縛られる圧迫感などない、荒縄は軽く巻き付いているだけ、だのに!
絵本の王子様のようだと称賛される千夜鈴の端正な顔が、酸欠の苦痛に歪む……!
心臓が、肺が、空気を求めて暴れている!
苦しみに喘ごうにも、喉を空気が通過しない。喘ぎ声どころか息漏れすら出ない……!
右腕左足が動かせず、左腕を掴まれている現状、満足にもがき暴れる事もできない!
――い、一体どうすれば良い……!?
それでもなお、千夜鈴は現状の打開策を思索する。
退魔士としての教育の賜物だろう。酸欠気味の頭でも、混乱に溺れる事はなく、ひたすら考え続ける。
……だが、現実は非情である。
考えさえすれば、必ず答えが出るとも限らないのだから。
打開策は出ないまま、千夜鈴の視界が端から黒く塗り潰されていく。酸欠症状、暗転の前触れ。
「苦しめ、苦しめ。テメェは皿を三枚も失くしたんだから。皿三枚分、きっちり苦しまなきゃあいけないんだ」
皿男は心底愉快そうに言いながら、拳を握り固めた。
千夜鈴を殴るつもりなのだろう。もっともっと苦痛を味あわせてやろうとほくそ笑んでいるのだろう。
「皿を一枚失くしたら、全身をぐるぐる巻きにされて、たくさん殴る蹴るされて、最期は自分から枯れ井戸に身を投げる。それが筋。それが約束。だからテメェは、それを三回繰り返せ」
――……駄目……だ……意識、が……!
このままでは――殺される。
ああ、退魔士の必然。
魔物を殺して、殺して、殺し続けて、最期は魔物に殺されて死ぬ。
退魔士の宿命。いつかは必ずそうなると決められた事。
それが今、来るのか。
……涙は、出ない。
そんなものはもう既に、枯れ果てた。魔物と戦いに行った夜の数だけ、恐くて泣いていたから。
いつからか、どんなに恐くても、苦しくても、悲しくても、辛くても、涙は出なくなってしまった。
泣いたって、どうせ何も変わらない。変わらせてもらえない。水分の無駄。
本能が、そんな言う風に諦めたんだと思う。退魔士の宿命のすべてを、受け入れてしまったのだろう。
――ミィさん……ごめん、なさい……。
心の底から、申し訳ない。
あの小さなメイドさんはきっと、泣き崩れてしまうだろう。約束を違えた事を、とてもとても怒るだろう。
……でも、仕方ないじゃないか。
退魔士は、こうして死ぬのが当然なのだから。
遅かれ早かれ、この日は必ず来るべきものだった。
申し訳ないけれど、仕方ない。世の中には、どうしようもなく諦めるしかない事があるのだ。
千夜鈴は理解している。諦めている。
自分だけが例外になんて、なれるはずがないと。
両親のように、兄のように。魔物を殺し続けて、殺されて終わる。
辿り着くべくして辿り着いた終着点が、今ここと言うだけ。
……一応、まだ、右足だけは動く。蹴りくらいなら、放てる。
でも、それで何になる? いくら退魔士の膂力であっても、魔物相手にただの蹴りが通じるものか。
もう、詰みだ。退魔士として迎えるべき最期は目の前まで来ているのだ。
だったら、もう――
「酷い面をしているなぁ! そこなお前さんよぉ!」
――え?
それは豪快で爽快な印象を持った声だった。
まるで、真夏の太陽のように、燃え爆ぜるような熱気を帯びて!
まるで、春の到来を告げる突風のように、へばり付いたものすべてを吹き飛ばしてくれそうな清々しさを纏って!
そんな心地好い逞しい声が、千夜鈴の鼓膜を叩いた!
直後、パンッ! と言う破裂音が響いた。
ただの破裂音ではない、音の感触が妙に湿っていたと言うか、水風船が割れるような……。
「ぎ、ぃやああああああぁああぁぁぁああ!?」
途端、弾けた悲鳴。酷く濁った男の声――皿男の悲鳴だ。
――何が、起きて……?
千夜鈴のほぼ暗転しかかった視界では、何が起きているのか全く把握できない。
ただ、何かが起きている。それも、皿男が絶叫するような何かが。
「わ、ワシの、ワシの腕ぎゃぁ!?」
「おう。悪いな。軽く掴んで止めるだけのつもりだったんだが、もげちまった。やー、すまんすまん」
どちゃっ、と何かが落下する音。
ねっとりとした液体にまみれた生肉を投げ捨てたような音、と言う感じか。
「ぃ、きなり何者だテメェ!?」
「ん? オレの事、知らない? 結構有名だって自負してたんだけどなー」
「ぐッ、何者か知らないが! 皿の数を数えろぉ!」
パリンパリンパリンパリンッ! と皿が割れる音が連続する!
どうやら、先ほどの再現。皿男が自ら皿を割ったらしい。それも、大量に!
「何してんだ? お前さん。勿体ない。皿は飯を盛るか、頭に被るもんだぜ?」
「テメェがワシに皿を割らせた! つまりテメェが皿を割った! テメェが皿を失くした! さぁ、罰を……」
「割らせてないし、割ってないし、失くしてもないよ」
「げぇッ!?」
「お前さん、見た感じ呪言霊吐だろ? 珍しいねぇ」
「な、なぜ、それを……!?」
「筋肉を見りゃあ大体の事はわかるもんさ。そんで呪言霊吐は、言葉を否定されたら全部が終了だ。成立すりゃあ強烈だろうが……まぁ、仕掛けが割れてちゃあ哀れなもんよ」
「ぐ、ぐぎぎ……ぃぃい! 死ねよテメェェェ!」
「んー……ヤだね」
響いたのは、誰かが地を蹴って何かに飛びかかったような音と――まるで、ミサイルでも着弾したかのような、激しい爆裂音!
ズドンッッッ!! と言う轟音の後、千夜鈴の体を砂利を含んだ猛烈な強風が打ち付ける。
「……ッ……、……!?」
そして、千夜鈴の手足と喉を拘束していた荒縄が、フッと消えた。
「ぁ、げはッ、は……ぁ……!」
空気が、喉を通って肺に落ちていく。念願の酸素。
その場に尻から崩れ落ちて、千夜鈴は必死に、取り戻すように大きく息を吸い続ける。
――ッ、何が、起きて……!?
ようやく呼吸が平常に戻り、千夜鈴の意識は現状の把握へ。
そしてすぐに、信じられないものを見た。
――……!?
景色が、一変していた。
千夜鈴の眼前にある巨大なクレーターを中心に、荒れ果てた庭が一面、耕したかのようにほじくり返されている。
隕石でも落ちたのか、と思えるような光景だ……!
先ほどの轟音は、この景色を作り出した一撃の音か。
皿男の姿は――無い。どこにも、無い。
代わるように、クレーターの中心に立っていたのは――
「なッ……」
朝陽を受けて、翡翠色に煌めく薄ら湿った肌。その肌を無骨に膨らませる極厚大量の肉。
黒いザンバラ頭に帽子のように大皿を被り、鴨のような黄色く太い嘴を持つ。
そして何より、大きい。高さは成人男性の二倍はあり、厚みは軽くそれ以上!
翡翠の皮でラッピングされた筋肉の化身(鴨仕様)、と言われれば納得できてしまう容姿!
その特徴的外観に、千夜鈴は聞き覚えがあった!
――【河童】……!
遥か昔は「脅威で言えば神仙に等しいが、似て非なる者」と言う意味を持つ【大仙】を名に冠して【大仙河童子】と呼ばれ畏れられたと言う――大妖怪だ!
退魔協会では、河童の遺骸を利用した極秘プロジェクトがある、だなんて噂も聞いた事がある……!
「河童……!? なんで……!?」
「ん? おお、そこな少女。お前さんはオレの事を知ってるのか。ま、退魔士なら当然か」
千夜鈴の声に反応した後、河童が消えた……否。退魔士の鍛え抜かれた眼筋を以てしても全く追えない速度で、移動した。
クレーターの中心から、千夜鈴の傍らまで。
河童は何かを確認するように、大きく体を曲げて千夜鈴の顔を覗き込んでくると、
「まるで男伊達な凛々しい面構えに、妙に長い束ね髪をしていて、一八歳にゃあちっとばかし足りないくらいの若い女。間違いないな。念のため名前も確認……と――うん、美桜慈千夜鈴、完全一致だ」
「な、何で僕の名前を……!?」
「筋肉を見りゃあわかるに決まってんだろ? 名ってのは体に、その肉に染み込むもんだ」
そんな馬鹿な……!?
「筋肉は雄弁だぜ。今、お前さんが『そんな事、できる訳ない!』と思ったのも、面の筋肉によく出てる」
まぁ、それはさておき。と河童は話を一区切り。
「オレの名は翠戦。いちいち説明せんでもわかると思うが、今、お前さんを助けた河童だよ」
「ぇ、あ、は、はぁ……」
「おいおい。助けてもらったら『ありがとうゴザイマス』、だろ? 退魔士だって礼儀くらいは習うもんじゃあないのか?」
「……ぃや、それは……」
確かに、状況から考えて、翠戦と名乗るこの河童が千夜鈴を助けてくれたのは明らかだろう。
伝説に聞く河童が誇る空間すら破壊する筋力で、あの皿男を粉微塵に吹き飛ばしてくれたに違いない。
恩人……いや、恩河童。礼は、言うべきだ。でも、言って良いのか?
退魔士が、人間が、自ら達を虐げる存在である魔物に、礼を言って良いのか?
逡巡の後、千夜鈴は答えを出した。
「……ありがとう、ございます」
千夜鈴は言葉に続けて、ぺこりと頭を下げる。揺れたポニーテールが地にぺろりと落ちた。
「おう。ノリで言ってはみたが、まさか真面目に礼を言うとはね。お前さんは奇特だな」
「……人を助ける魔物に、奇特だとか言われる筋合いは無いよ」
「クァパパ! それは確かに違いない!」
確かに、翠戦の言う通り。
魔物に礼を言う退魔士なんて、おかしいのかも知れない。
でも、やはり、助けてもらった以上は礼を言うべきだろうと言う結論に千夜鈴は達したのだ。
相手が何なのかはひとまず置いといて、自分が良識ある人間だと弁えるならば、礼は言うべきなんだ。
――でも、ここから、どうしよう……。
相手は、河童。
話に聞いた事しかないが……規格外の存在だ。河童が妖怪に分類されているのは「昔の人達が仮にも魔に属する者を『神の類』と認める事を嫌ったから」でしかないと言う。
こうして出会った以上、例え命の恩河童でも退治すべきだろうが……まともに戦って、勝ち目があるのか。
遥か昔、当時の退魔士達が河童の退治を試みたと言う記録が残っている。
結果は、参加した退魔士全員、死者が出る暇も無いほどにあっと言う間の敗北。その後は全員が裸に剥かれて、その場で河童主催の角力大会が始まったとか。「全力で取り組まないと、屁をこくくらいの気軽さで大規模な水害を起こしちゃうぞ☆」と脅され、退魔士達は三日三晩、へとへとになるまでエンドレス角力に興じる羽目になったとか。
無数の退魔士を殺さないように加減して蹴散らせる怪物中の怪物、それが河童。
そして、
――挑んで負けたら、裸で相撲を取らされる……!?
殺されるよりは遥かにマシだけれども。女子高生としては殺されるも同義だそれ。
だがしかし、色んな意味で殺されるとしても、魔物は殺さなきゃあいけない。
退魔士の宿命。死が待っていると明らかでも、立ち止まる事は許されない道。
――今、隙を突けば……。
「やめとけ。お前さん程度じゃあ、オレにゃあ傷ひとつ付けられんよ」
「……!」
まだ動き出そうともしていなかったのに、思考を看破された。
先にも言っていた「筋肉を見ればわかる」と言うやつか。
「本来なら、そんな殺気を向けられた時点で尻小玉うふふ案件なんだが……うん、特別に勘弁してやるよ。オレは生娘の青っちろい尻にゃあ興味無いし、今、機嫌が良いからな。昨晩はとても良質な魂をいただいたんだ。……これだから、人助けはやめられないってな」
クァパパパ! と特徴的な笑い声をあげ、翠戦は厚い舌で嘴を舐めずった。
御馳走の味覚的記憶を反芻しているような、若干うっとりとした表情にも見える。
「まぁ、安心しな。オレは、絶対に人間を襲いやしない。そっちから来ない限り」
「……え……?」
「人間を殺すなんざ、勿体ない。知ってたか? 人間の魂は無理矢理に引き剥がすと味が格段に落ちるんだぜ。美味いもんは最高の状態でいただいてこそ。それがオレの流儀。だからオレは、自分から魂を差し出してくる奴か、オレを殺しにかかってくる奴以外からは命を取らない。昔からそう決めてんのさ」
その言葉には、妙な説得力があった。
嘘を吐いてないなんて証拠はどこにもないのに、どうしてか、真実を語っているようにしか思えない。
千夜鈴はなんとなく、その理由に察しがついた。
それは、翠戦が河童だから――おそらくは、この世で最も強いと言える生命体だから。
この生命体には、嘘を吐く必要が無い。万事万象を、言葉ではなく力で歪められる。弁舌に頼らなくても、力で何もかも思い通りにできる。
蝙蝠や深海魚など暗闇で生きる者の目が使いものにならないように、必要の無い機能は退化して消えるものだ。
河童の「嘘を吐く」と言う不要機能が退化し、使いものにならなくなっている……この仮説は、充分に有り得る。
圧倒的強者の生理が、堂々たる絶対覇王の風格が、自然と声に滲み出ている。そう感じるのだ
……思ってしまう。「この存在は、人間だとか魔物だとか、そう言う次元に並んでいないのではないか」と。
この世界に在る何もかもを超越した、形容し難い何者か。それが、この――
「つぅ訳で、仲良くしようぜ。千夜鈴」
「へ?」
「ん」
唐突な言葉の意図を理解できず、固まる千夜鈴。
その眼前に、巨大な翡翠の手が差し出される。
「遠慮する事はないさ。対価はもう、いただいてるんでね」
嘴を歪めて、翠戦は上機嫌に笑い、言った。
「このオレが、お前さんを幸せにしてやるよ」
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