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朝陽が雲に閉ざされ、ほんの少し暗くなった住宅街。
陽の弱さに加え、通勤通学の時間は過ぎ家にいる者は減り路を行く者もない静けさが、寒さを助長しているように感じられる。
周囲の家屋とは明らかに一線を画した巨大和風邸宅の門前にて、小さなメイドさんはぎゅうぅとエプロンを握りしめながら立っていた。
美桜慈家のメイドさん、ミィである。
昼には帰ってくると約束してくれた愛し可愛しお嬢様の帰りを、待っているのだ。
決して厚手とは言えないメイド服で、何時間も、冬空の下。
その小さな体を揺らす震えは、寒さ由来ではない。
……怯えているのだ。
失ってしまう事を。
家族のように愛おしいお嬢様を、家族のように、魔物のせいで失ってしまう事が、本当に恐ろしい。
……思い出して、俯いてしまった……その時。
ピィン、と、ミィのアホ毛が張った。
――この感覚は間違い無い!
「ミィの直感は確かに捉えたなのです!」
原理は不明だが、ミィのアホ毛はミィの探し物や待ち人に激しく反応する。
今、この状況で反応する相手は、一人しかいない!
「チョリ嬢!」
愛し可愛しお嬢様の帰宅を察知し、ガバッと顔をあげたミィは……そのまま硬直してしまう。
見えたからだ。遥か前方、こちらへ歩いてくる美桜慈家のお嬢様――千夜鈴の姿が。
……でも……その、ぁの、隣に、何か、デカ、え? デカ……!?
死にかけのエビの如くビクンビクンと痙攣するアホ毛に構う余裕も無く、ミィはただひたすらに混乱する。
そうしている内に、千夜鈴とその隣の奴はミィの眼前に辿り着き、
「あ、あははは……ミィさん、お出迎え、ありがとうございます……」
「おう、この小さいのが、さっきお前さんの言ってた侍女か? まるでガキだな! クァパパパパ!」
ギギギギギ……と、壊れたカラクリ人形のように、ミィはゆっくりと首を動かして、その妙に豪快で爽快な声の主を見上げた。
一階建ての建物よりも高い頭の位置。サイかカバが直立したかのような肉の厚み。
何より、全身が湿った翡翠色の肌で、黄色く太い嘴。
どう見ても、人外。
「な、何者、なの、です……?」
「ん? オレか? オレは翠戦。千夜鈴を幸せにする河童だ」
「…………………………」
「あー……ミィさん? これにはすごく込み入った事情がありまして……」
「チョリ嬢が……河童に嫁入り……ぶぶぶぶぶ……」
「ミィさァーん!?」
「クァパパパ。随分と綺麗に勢い良く卒倒したな。ビターンッつったぞ今」
「笑っている場合か!? ミィさん、しっかり! ミィさん! 起きてェーッ!?」
――「このオレが、お前さんを幸せにしてやるよ」
そう言って、翠戦は半ば強引に千夜鈴の手を取り、握手した。
それから、「それと、だ。オレはお前さんを見守らなきゃだから、これからは四六時中、お前さんの傍にいるぜ」と新手のストーカー宣言まで。
魔物的にも女性の敵的な意味でも撃退すべきなのだが、単身で戦っても勝ち目が無い。
なので千夜鈴は退魔協会に助けを求めたのだが……協会と連絡を取る横で「クァパパパ、無駄無駄。そんな応援要請、相手にされないさ」と笑った翠戦の言葉通り。協会からの返答は「現状維持。河童を下手に刺激するな」。
翠戦曰く、「お前さんみたいな家柄の良い退魔士は知らんだろうが、協会の連中は河童に足を向けては寝れん分際さ。河童を敵に回そうとする訳がないね」。
その理由を尋ねてみたが「どう足掻いても笑い話にはならん事柄だ。もう少し大きくなってから知った方が良い」といなされてしまった。
とにかく、整理した結論。
何故かは不明だが、協会は河童を敵に回したくない。翠戦を退治する戦力的支援はまず望めない。
そして、翠戦の方も、何故かは不明だが千夜鈴に危害を加えるどころか、その逆の意思を持っている。
――「……僕を幸せにする、その対価ももらった、と言ったね。一体、誰から、どうして?」
――「気前の良いズタボロの足長おじさんだよ。それ以上は本人の希望で言えないね」
以上。本当にそれ以上の事は教えてくれない。
「どこの誰だか知らないけど……感謝すれば良いのか、嘆けば良いのか……いや、利益面の方が圧倒的に大きかったから、そりゃあ感謝はするべきなんだけれど……」
不満を態度にする事を良しとしない主義の千夜鈴でも、もう溜息を抑えきれない。
すっかり日が暮れてしまった庭に出て、細かく散った硝子片などの散乱物を丁寧に集めては危険ゴミ用のゴミ箱に流し込み、何度も溜息を吐く。
翠戦のおかげで、今朝は生き残れた。これは良い。僥倖だ。……退治すべき魔物を退治しつつ、ほんの少しだとしても寿命が延びた。喜ばしい事に違いない。
だが、問題はその後から。
翠戦が家まで付いて来て、それを見たミィが泡吹いてぶっ倒れた。
……魔物にトラウマを抱えているだろう人だ。そりゃあ愛し可愛しお嬢様が魔物同伴で帰ってきたら激しめに白目も剥く。
そして、ミィが意識を取り戻してからも大騒ぎ。
ミィは「チョリ嬢から離れるなのです! この青虫オバケ! 絶対にミィは認めないなのですぅーッ!」とそこら中のものを手当たり次第に掴み投げして翠戦に攻撃開始。
翠戦は翠戦で「クァパパパ! ガキの相手は得意だし大好きだ!」とミィの攻撃をヒョイヒョイ躱しつつ、刺激・挑発するように千夜鈴にすり寄りまくった。
ちっちゃな駄メイドと子供好きな陽気河童の戯れ合いは夜遅くまで続き、ミィが力尽きて眠りに就いた事で終戦。
……現在、千夜鈴はその戦跡の後片付け中、と言う訳だ。
「キュウリあんじゃん。わかってるぅ」
翠戦は手伝う素振りもなく、冷蔵庫を漁って見つけただろうキュウリを抱きかかえながら縁側に座って、勝手にボリボリやり始めた。
「星見キュウリは最高だぜ。お前さんもどうだい? ほれ、こっち座って一本付き合えよ」
「それは明日の朝食のサラダに入れる予定のキュウリなんだけれど……と言うか、一応、この惨状は君のせいでもあるんだが、手伝ってくれると言う選択肢は無いのかい?」
「ん? 何だ。手伝って欲しかったのか? なら、ちゃんとお願いしな。オレは頼まれなきゃあ動かんよ」
嘴でキュウリを挟んでしゃくっと齧り取り、もごもご堪能しながら、翠戦は言う。
「オレが願われたのは、お前さんの幸せだ。だが、オレにゃあ人間の価値観や情緒の機微はわからん。なんで、基本は受け身の奉仕だ。今朝のは、お前さんが何を言う間も無く死にそうだったから特例って所だな。んー。んまいなー、このキュウリ。どこ産?」
「……じゃあ、お願いだ。僕に付き纏うのはやめて帰ってくれ。あと、そのキュウリは確か富山産だ」
「その頼みは聞けないね。対価をもらった分は働く主義だ。あんな美味いもんを食わされちゃあ、一度や二度の救命じゃあ帳尻が合わんよ。しっかし、やっぱ国産かー。日本人のマメな性分が繊細な味に現れてやがるよー。こいつは」
「…………………………」
「おうおう。眉間にシワがよってるぜ? せっかく、女にしとくにゃあ惜しい男伊達で生まれたんだ。意味は無くとも笑っとけ笑っとけ。クァパパパパ! ってなぁ!」
「……はぁ」
大きく溜息を吐いて、千夜鈴は後片付けに意識を戻した。
「で、頼まないのか? オレに手伝って欲しいって」
「……頼まないよ。頼るものか」
さっきのは、余りにも他人事ムーブでキュウリを齧り倒す翠戦に対し、「責任とか感じないのかい?」と言うニュアンスの質問をしただけだ。
別に、頭を下げてまで手伝って欲しい訳ではない。
「ほう、そりゃあまた、どうして? 使えるもんは猫の手だろうが使う方が得だと思うが」
「……君と君を差し向けてくれた誰かには、感謝している。今朝は、本当にありがとう。おかげで、僕は帰って来れた」
「うんうん。惜しみなく感謝してくれ」
「だけど僕はやっぱり、魔物が嫌いだ」
「!」
だって、そうだろう。
「魔物は、僕やミィさんの、退魔士の、人間の……敵なんだ。君に直接何かされた訳ではないけれど……でも、魔物と言う存在すべてが憎いよ。僕は」
――魔物さえ、いなければ。
そう考えた事は、一度や二度や三度ではない。
魔物がいなければ、自分やミィには、どんな未来があっただろうか。
夜が来るたびに考えた。想像した。そして無意味な妄想だと虚しくなった。虚しさに流す涙は、魔物のせいで既に枯れていた。
だから、嫌いだ。魔物なんて。例え命の恩河童だとしても、嫌いだ。
誰かを拒絶する意思を表に出すなんて、最低。そう思い、極力避けてきた千夜鈴でも、こればかりは隠せない本音。
「そりゃあ、まぁ……当然の心理だな。坊主憎けりゃあ……って奴だ。反論は無いよ。だが、やっぱりよ、勿体ないとは思わないか?」
「思わない。僕は、もう、君には頼らない」
「……ふぅん……そりゃあ……成程。お前さん、割と拗らせてるね」
「……?」
どう言う意味か、訊こうとしたその時――三線の音色が響いた。
千夜鈴のスマホの着信音だ。
「お、良い曲選びだな。オレと好みが近いとみた」
「………………そんな」
「ぅおう? えぇー……いくらオレが嫌いつっても、好みが被っただけでそんな落胆した顔するかね? 流石に酷くない?」
「……違う。そうじゃ、ないよ」
千夜鈴が信じられないと疑ったのは、今、着信したメールの内容だ。
発信者は退魔協会。内容は――
「仕事……」
昨晩から、この二四時間以内で、三件目……?
……妙に多い。妙に多いが、まぁ、理由は想像できる。
「……………………」
千夜鈴と被る担当地区を持つ誰かが、魔物に殺されたのだろう。
人員が減ったら、追加の人員が補充できるまでは他の人員にシワ寄せがいくのは当然だ。
――誰かが、殺された。
殉職は退魔士の必然だ。悲しむべきでなく、「よくまっとうした」と誉れを認めてやれ。
それが退魔士としての心構えなのだと教えられた。
――……でも、中々、難しいよ。
胸を押さえて、震えてしまう。――次は自分かも、と。
実際、今朝、本当なら自分もそうなるはずだったのだから。
「……そんなに恐いんなら、辞めちまえば良いんじゃあないか?」
「なッ……」
いきなり、何を……。
「オレが交渉してやろうか? 協会の連中なら、黙らせられるぜ? 今朝、体感しただろ?」
「!」
どう言う訳か。退魔協会は河童に対して消極的と言うか、異様に慎重だ。
普段、魔物が確認され次第、すぐに退治に向けて動き出すのに。
翠戦については現状維持、それも「刺激するな」と言う注文まで付いた。
それほどの、怪物、か。
翠戦が「千夜鈴に仕事を回すな」と要求すれば、確かに、通るかも知れない。
「どうする? ほれ、オレに、お願いしてみろよ」
「……………………しないよ」
「!」
「僕は、美桜慈千夜鈴だ。退魔士だ。魔物を必ず殺さなきゃいけない。殺されるまで、殺し続けなきゃいけない。……逃げたり、するもんか」
――そうだ。僕はもう、逃げたりしない。「助けて」だなんて、絶対に言わない。
確かに、戦う事は、死ぬ事は、恐い。逃げたい。
でも、仕方ない。
それが、その選択が、一番マシなのだ。
だから、行く。
千夜鈴は翠戦の隣を通って邸内に戻り、支度を始めた。
「……ふぅん……殺さなきゃいけない、逃げたりしない……ねぇ」
千夜鈴の背中を追う目を細めながら、翠戦はぽつりとつぶやいた。
――「殺さなきゃいけない」……それはつまり、自分の意思で殺したい・戦いたい訳じゃあない、やらなきゃいけないと言う認識でやっていると言う事。
――「逃げたりしない」……それはつまり、「逃げようと思えば逃げられる」と知っていて、あえてそう「しない」と言う事。
筋肉の動きから察する感じ「世のため人のためなら自己犠牲を惜しまない、そんな圧倒的正義感」……と、言う訳でもなさそうだ。
千夜鈴の筋肉の動きは……「弱者が自分を守るのに必死な時」の動きだ。
……自分本位の思考で出した結論が、手の込んだ自殺だと?
人間どころか、生物として破綻している。
「あー……はいはい。そうですか、細かい事情までは知らんし興味もさほど無いが、そう言う感じかー……成程。まぁ、人間なんて雑魚生物、それくらい壊れる事もあるかー……しかし、よりにもよって『そこ』が欠落するかね?」
キュウリを齧り、咀嚼、飲み下して、翠戦は軽いゲップと共にやれやれと息を吐いた。
「こりゃあ、幸せにすんのは骨が折れそうだぜ? 足長おじさん」
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