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9/6 世界のひみつを覗ける車窓
普段は車社会に生きるわたしだけれど、今年は例年になく電車のお世話になっている。カタンカタンと電車に揺られ同じ場所に通うというのも、思えば電車通学をしていた学生時代以来で、なんだかなつかしい。
都会と違ってあまり心配しなくとも座ることのできる車内では、立ちっぱなしや満員のつらさなどではなく、熟睡による降りそびれのほうがよほど恐ろしく、なんとか寝過ごさないよう、いろいろ工夫を凝らしたものだった。
とはいえ電車通学をしていた当時はスマホなどまだなく、できることは限られた。なるべく友人と誘い合わせて乗るようにし、互いの眠気に攻撃を仕掛けるかのごとくしゃべり倒したり。気になった本を持ち込み、ひたすら読みまくったり。そんなことくらいしかできなかったように思う。しかもそれらもけっきょく万能の策ではなくて、友人とは互いの眠気に勝ちきれず2人して熟睡、降りる駅のアナウンスで漫画みたいに飛び起きたなんてザラだったし、読書など、よりによって母おすすめの「塩狩峠」など持ち込んでしまった日には人目も憚らず号泣してしまい、逃げるように電車から降りたらとっくに降りるはずの駅を過ぎていたなんてこともあった。まったくもって電車通学の才能を持ち合わせていない学生だった。
そんなわたしにとって1番の方法は、なんだかんだ、「流れてゆく風景を眺める」ということだったように思う。だいたい、毎日同じ時間の風景を、こんなにも贅沢に受け取れる機会なんて他にない。読む本も話し相手の友人もあてがない日は、ひたすら窓の外をぼうっと見つめた。
電車に揺られ窓の外を見ていると、「同じ日々なんてないんだ」ということに、圧倒的な力でもって気づかされる。たとえば1ヶ月前のこの時間、太陽はピカピカとまぶしくきらめいていたはずなのに、今では夕日を見る時間となっている。あるいは、少し前までまったくの枯れ木だったはずの枝が、新緑のみずみずしい葉に覆いつくされている。同じ時間同じ場所を毎日通っていて、同じ風景を眺めているつもりでいるのに、ある日突然「昨日とは違うんだ」と気づかされ、その変化にビリっと電流が走ったような衝撃を受けた。まるで、世界のひみつがすべてこの窓の中に、凝縮されているような気がして、泣きたくなった。
そんな学生時代の気持ちを思いだし、今日はぼんやり窓の外を眺めながら1時間弱、ゆらゆらと揺られていた。広がる田んぼの向こうには、暮れてゆく夕日がやさしく世界を包み込もうとしている様子が見える。あのいちご色の雲はなぜこんなにも、胸の奥をチリチリとなつかしくひっかくのだろう。あの溶けてゆく光はなぜあんなにも、美しく涙を誘うのだろう。同じ空は2度とないはずなのに、どこかで見たことがある気がしてやまない。そんなノスタルジー。
けっきょく夕闇が完全に夜の帳となるまで、飽きもせず風景を眺め続け、気づけば、あっという間に降車駅。
おかげさまで今回も、寝過ごすことなくぶじに、みじかい旅路を終えたのだった。
終
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