手紙

第1章(春雄)”序”

　蒸された空気で包まれる夏の夜、爛々と輝き続けていた太陽も今は眠っている。それでもまだ昼の熱を残す夜道で、僅かに吹く風が青い木の葉を運んでいた。

　街灯が1つ切れかかっている細い路地。春雄は俯きながら歩いていた。春雄の後方には頼りない街灯と、対照的に光輝くパチンコ店。彼の足取りは重かった。

　群馬の実家から月に1度振り込まれる仕送り。それだけが俺の生活費だ。これ以上あの機械に仕送りを吸い込ませるわけにはいかない。

　大学に入学して2年目、将来のことなど考えたこともない。今まで何かに打ち込んできたこともない。アルバイトはしたことがないし、ゼミにもサークルにも入っていない。

　ただただ、いつか自分を変える何かが起きてほしいと漠然と願っている。そういう日々が続くだけだった。

　ポケットの中でバイブレーションが、メールの着信を春雄に知らせる。メールの送り主は敦志であった。

『鶴を見つけた。いいことあるカモ』

　添付されていた画像を見ると、白い小鳥が木の枝に留まっている。

　常識ある人間なら、これを鶴とは言わない。訳がわからなくて、くだらなくて、それでも口元が緩んでしまう。

　俺にとって、友達と呼べるのはこの敦志くらいなのだ。寂しさと戦うことが一人暮らしの当面の問題であるから、こんなメールを送ってくれる人がいるだけありがたい。

　春雄はアパートに着くと、ベッドに腰を下ろした。ふと鏡に映った自分の姿を見て、寂しさと戦わなくてはならない理由に納得する。

　ぼさっとした長い黒髪、似合っていない白いポロシャツ。顔の作りはそれほど悪くないだろうが、ここまで後ろ向きな雰囲気が漂う男に惹かれる女の子などいるわけがない。

　明日は1限に金融学、2限に西洋経済史。今日のことは忘れて早く寝よう。

　シャワーを浴びる準備をしながら、葵の『あの目』がふと頭をよぎった。

　『あの目』を見たのはもう何年も前のことだ。

　いつまで経ってもあの瞬間から時が進んでいない、そんな錯覚をいつも感じている。

　どうしてその錯覚がまとわりついているのか、それはよくわからない。

　ただ1つ、わかることがある。それは葵の『あの目』に惹きこまれたあの時。あの瞬間から何年経とうと、ただどうしようもなく葵に、藍原葵に惹かれてしまっているということだけだ。