プロローグ

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プロローグ

 そこでは、自分という存在を忘れてはいけない。  何があっても、どんな物を見たとしても、決して自分が何者だったかを忘れてはいけない。  もし、それを忘れてしまったのならば。  あなたはそこから、帰ってこれなくなるから。 「――て。ねぇ、起きて」  微睡みの世界にいた俺の耳に、そんな声が聞こえてきた。本当ならばこのまま眠りこけていたかったが、その声の主が怒るとなかなかに怖い事だけは、体の細胞が覚えている。  仕方がなくゆっくりと目を開けて、顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。 「ああ、おはよう。今は、朝か?」  回らない頭で考えもせずに言葉を発する自分に向かって、彼女は呆れた様な困ったような顔をして、大きなため息を一つ吐く。 「左を向いて、そしてここがどこだか分かってそれを言ってるのなら、病院に行く事をお勧めする。勿論、頭のね」  いつも通りの辛辣なお言葉を頂戴した事で、少しだけ頭を覆う靄が晴れていく。目を擦って大きな窓から差し込む夕日に目を細めて、木製の椅子から立ち上がって大きく伸びをする。 「ふぁーあ。随分寝てたのか、俺は」 「随分も何も。六限からホームルームを通り越して、部活が終わる今まで寝てたのよ? いくら先生が起こそうとしても、全然起きなかったし。顔真っ赤だったよ、先生」 「あー、そりゃ明日が怖い」  確実に呼び出しをくらいそうな明日は、まぁ明日の俺に任せるとして。 「それで? お前は俺を起こしに来てくれたのか?」  硬い椅子で寝ていたせいか、体中が痛い。骨を鳴らして少しだけすっきりしたが、それでも痛みが残る体をさすって、自分と目の前の彼女の鞄を持つ。 「べ、別に。部活が終わって忘れ物を取りに来たら、まだ寝てたから。流石に起こさないと、幼馴染としてあれだなって」 「そうか、でも起こしに来てくれただけでうれしいよ。ありがとう」  なぜだか慌てふためいて言葉を続ける彼女に向かって、そう感謝を伝える。 「よし、じゃあ夜になる前にさっさと帰ろう」 「うん」 運動部に所属している彼女と、帰宅部の星である俺は、なかなかこうして帰る時間が合う事は無い。  珍しいなと素直に思い、二人でもう誰もいない校舎の廊下を歩く。差し込む夕日も次第にその光を失い始め、自分達の長い影も次第に消えていく。  幸い学校から俺達の家まで距離があるわけでもない為、夜になる前には辿り着きそうだ。 「そういえば」  互いに話す事がなく、静かな時間が流れてから数分。沈黙をあまり好まない彼女が、そう切り出す。 「こんな話、知ってる?」 「なんだ、怖い話か」 「え? なんで分かるの?」  驚いたように目を見開く彼女に向かって、当然だろうと言葉を返す。 「あのなぁ。俺とお前は一体、何年の付き合いになると思ってんだよ。もうその前置きだけで、大体何を言いたいかくらい分かる」  こいつと一緒にいる時間は、もう十年は軽く超えている。流石に幼稚園から小中高と同じなら、話の切り出し方で何を言いたいのか大概分かる様になる。 「じゃあ、聞かない?」 「いや、続けてくれ」    俺がそこまで彼女の事を理解しているという事は、勿論彼女も俺の事を理解しているという事。だから思った以上につまらない話を聞かされることも、もう数年前からはない。 「オッケー。かなり怖いから、後で泣きべそ言っても知らないからね?」 「あのなぁ、俺もガキじゃないんだから。夜に怖くてトイレに行けませんなんてなる訳ないから、安心して話してくれていいぞ」  むうと頬を膨らませる自分より小さい彼女の頭を軽く叩くと、彼女はそれっぽく低い声で話し始めた。 「これは噂なんだけど。二組の白井さんって分かる?」 「分かるも何も、今学校中の話題を掻っ攫っている張本人だろ?」  二組の白井。頭脳明晰で、運動神経抜群。人付き合いもよく、基本的に誰であろうと対等に接する。先生達からの信頼も厚く、それでいて美人という化物の様なスペックを持った女子。  そんな彼女が、ここ一週間全く学校に来なくなった。いつもだったら風邪をひいても数日で学校にやって来る彼女が、だ。 「私にはあの子と仲がいい友達がいるんだけど。その子が白井さんの所に、お見舞いに行ったんだって」  帰路を歩きながら、次第に闇を帯びていく世界。ここはそこまで大きな町ではない為、完全な夜になると人工的な明かりは少なくなり、街頭と月と星明りだけが頼りになる。  そうなる前に、さっさとこいつを家に届けなくては。 「白井さんの下の名前って、恵ちゃんっていうらしいんだけど。恵ちゃんいますかって聞いたその子に、白井さんの両親はこう言ったんだって」  そうして彼女は僅かに間を開けて、静かに低い声で言った。 「恵はここにはいますが、ここにはいませんって」 「ふーん。で?」 「いや、これで終わりなんだけど」  あまりにも微妙なその話に、珍しくため息をつく。 「落ちが無くて面白くないぞ、それ」  どう考えても、おかしな点がいくつもある。 「そもそも、だ。高校生である自分達が、一週間も無断で休めるわけがない。という事は、確実に白井さんの両親は、学校に連絡をしているって事だろ?」  隣を歩く彼女に向かって、諭すように自分の考えを伝える。 「もし白井さんが家にいなかったら、捜索願いが出されているはず。それも無いって事は、何かしらの病気を患っている事になる」  ここで彼女の話が事実だと仮定して、それを組み込んで答えを導いていくと。 「白井さんの両親の、ここにはいるがここにはいないって言葉。それから考えられるのは、精神系の病気にかかってしまった可能性が高い。それならばこれだけの長期の休みにも説明がつくし、先生達がそこまで騒がない様にしているのも納得いく」  完璧というのは、とにかく疲れる。どこかで息抜きをしないと、心がもたない。  だから人は何かしら欠陥を神から与えられて生きているのだが、白井さんの場合はそれが無かった。  その上あまりにも優しいその性格と、背負わされた期待から、完璧で在らなくてはいけないと錯覚してしまったのだろう。  結果、彼女は完璧になろうと努力しすぎて心を壊してしまった。まぁ、こんな所か。 「両親としては、今までの完璧な彼女の像を崩したくないんだろ。だから白井さん自体はいるけれど、完璧だった頃の白井さんはいないって意味で、訪問してきた相手に答えた。それが、いるけどいないの本当の意味だ」  まぁ、確かにそう言った意味では怖い話だけどな。そう最後に付け加えると、俺達の家の前にまで辿り着いていた。 「ってなわけで、この話はもうおしまい。お前も白井さん達には、もう積極的には関わるなよ」  そう話を終わらせて、俺達はそれぞれの家に入っていく。いつも通り暗いリビングの電気をつけて、机の上に載っているお札を一枚だけ取る。階段を上って自分の部屋へと行き、制服を脱いでそのままベッドに横になる。 「飛び抜けた能力を持つって、大変なんだな」  導き出した答えが合っているのか、それとも間違っているのか。そんな事は分からないし、分かる訳がない。  けれど確かな事は、人より優れた何かを手にすると相当束縛されてしまうという事実。  自分の生きたいように生きれるわけでもなく、ただ外見を意識して誰かの期待に応え続けるというのは、あまりにもつまらない。 「それなら俺は、凡人でいいんだけどな」 横になった瞬間から既に襲われている睡魔に抗えず、俺はそのまま意識を失うように眠りについた。
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