【第二章】高田善治

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4  未映子への告白は、若干なりとも僕の心を軽くした。そのおかげで僕は、もう一度、社会に復帰するのも悪くないと思うようになっていた。今更ながら僕は、未映子と共に歩く未来を心に描くようになっていたかもしれない。その為には、一人の男として自立する必要が有ることを、ボンヤリとだが感じ始めたのもこの頃だ。  未映子の口利きも有り、僕は近くのイチゴ農家で働かせてもらえることになった。人と触れ合う仕事よりも、動物や農作物相手の仕事の方が良かろうという、彼女の勧めでこの仕事を選んだのだ。それでも、生まれて初めて仕事に従事する、つまり社会に踏み出すという不安に押し潰されそうな僕を、未映子がそっと支えてくれた。彼女の存在により、僕は遅ればせながら社会人としての第一歩を踏み出す勇気を得ることが出来たのだ。今まで止まっていた僕の時間が、再び動き出した。まだ弱弱しいが、それでも着実に時を刻む時計が、僕の中でカチコチと動き始めていた。  僕にとって農家での仕事は、新鮮な驚きの連続であった。それまで引きこもり続けて、世の中のことを何も知らなかったというのも大きいが、優等生として勉強ばかりしていた高校生の頃には考えた事も無かった「土に親しむ」という生活が、とてつもなく大きな喜びを伴うことを知ったのだ。それは何か、人間の根幹に訴えかけるような、労働というものに付随する感動を与えてくれた。  植物は正直で、手間を怠れば直ぐに調子が悪くなって栽培者への不平を表明した。葉は萎れ実は痩せ細り、瑞々しさを失った。それは我々に対する、痛烈な告発であった。逆に誠心誠意を尽くして世話をすれば、これまでに見たことの無いような色と艶を見せてくれ、僕に言い様の無い充足感を与えてくれた。それは植物が、あたかも僕に笑顔を返してくれているかのようだ。こんな愉しみは、僕がもし大学に行って都会の企業にでも就職したならば、決して味あう事など出来ないご馳走の様なものだろう。父である光一も含め、世のサラリーマンを憐れむような余裕さえ感じ始めていた渓一であった。これがもし、人間相手の仕事だったら・・・ 僕は考えただけでも胃の痛くなるような暗澹たる気持ちに圧し潰され、ゾッとするしかないのであった。  そう考えると、一般企業で働く父は、いったいどのような会社員人生を送っているのだろう。そういった仕事で家族を養い、一戸建てを立て、子供を育て上げるということが、どれほど大変なことであったのだろうと思うと、今更ながら申し訳なく思わざるを得ない。こんな引き籠りのダメ息子を食わせるために働くことが、どれほど張り合いが無く、どれほど意義の薄い行為であったことか。それは母も同じだったかもしれない。自分の不甲斐なさが、二人に与えた不安やら、重圧やら、怒りやら、落胆は計り知れない。もう少し、自分の生活が落ち着いたら、父と母に感謝の気持ちを伝えよう。なんだか口にするのも恥ずかしいが、自分には親孝行をする義務が有ると思った。  こうして僕の生活に、普通の人間であれば普通に持っているであろうリズムが生まれ始めた。唯一の気掛かりは、あの元刑事だ。あいつの存在だけが、僕たちの未来に暗い影を落としていた。今始まったばかりの僕の人生というキャンバスには、まだ未映子しか描かれてはいない。残りの部分はまだ手付かずで、そこに何か描き加えられてゆくことになるのかは、僕自身にも判らない。なのに、あいつの存在が黒い染みとなって、全ての構図をぶち壊すような邪悪な意図をもって浮き出していた。僕はその染みを、自分の色によって塗り潰すことが出来るだろうか? 後から聞いた話だが、あの元刑事は僕が働く農場主の所にも顔を出し、あれやこれやと探っていったそうだ。幸いにして、そして有難いことに、農場主の夫妻は僕に対する信頼を持ち合わせていてくれて、元刑事が喜ぶような話をすることは無かったそうだが。  それを聞いた未映子は腹に据えかねるといった様子で、カリカリと苛立った。そして唐突に言った。  「私を渓一のお嫁さんにして!」  「えっ?」  僕は元刑事と結婚の関連が判りかねて言葉に詰まった。元刑事の陰険な企みによって自分たちの幸せが踏みにじられる前に、その幸せをより強固で堅牢なものにしてしまおうという意図なのだろうか? 僕は未映子が、事を急ぎ過ぎてはいまいかと心配になる一方で、自分でもそれを望んでいることを感じた。だって、それ以外の将来像など、僕には何も思い描けないのだから。もし今、彼女を失うようなことが有れば、僕は再び引き籠りの生活に逆戻りする自信が有った。いや、それは確証と言っても良いほどだ。未映子の居ない人生など、考えられなかった。  僕の目をじっと見据える未映子の真剣な目を見つめ返し、こう言った。  「うん。結婚しよう」  初めて結婚の報告を両親に打ち明けた時、我が家では永らく見ることの無かった「喜び」が両親を襲った。光一は大声で「そうかそうか!」と言って小躍りした。あまりにも大騒ぎするので、愛猫の「きなこ」が身の危険を感じ、二階に逃げ上がってしまったほどだ。真希絵も、突然の吉報に開いた口が塞がらないといった表情も一瞬で消え失せ、次にオイオイと泣き出した。真希絵は未映子の手を取り、いつまでも泣きながら頷いていた。  光一は、普段は飲まないビールを持ち出し、僕のグラスに注いだ。ハッキリ言って僕は酒が飲めないが、父がご機嫌なのが嬉しくて、ついついそれに付き合ってしまった。そして父と母の馴れ初めなど、昔話を聞かされたわけだが、今まで、そういった話をする機会も無かったのは、ひとえに僕が引き籠っていたからだということに改めて気付かされた。  そんな二人とは離れたローテーブルに、向かい合わせで座る未映子と真希絵は、僕が子供の頃のアルバムなどを持ち出し、そちらはそちらで昔話を聞かされていた。それを聞く未映子の表情は、真希絵を労わる様な優しさで満ち溢れていた。子供の頃に両親を失い、祖母の手で育てられた未映子にとって真希絵は、触れたくても触れることの出来なかった「母」という存在だったのかもしれない。  こんな和やかな時間が、再び小宮山家に訪れるとは。それも全て未映子のお陰だった。僕はそんな感慨にふけながら、我が家の幸せを謳歌していた。  それから僕たちは、式場選びやらウェディングドレス選びなどで、忙しく日々を過ごした。雑誌を見ながらあれやこれやと夢を語り合うのは、僕にまた新たな喜びを与えた。とは言え、結局、式にそれほど金を掛けることはできない。僕と未映子の収入を合わせても、それほど贅沢が出来るわけではないからだ。最初、父が資金援助を申し出てくれたが、僕はそれを固辞した。親に金を出させるのも「親孝行のうち」という言葉を聞いたことは有るが、未映子が豪華な式に拒絶反応を示したのが最も大きな理由である。結婚雑誌を見てはしゃいでいた未映子が、実際の選択の際には質素な挙式を望むのは、僕の男としての甲斐性、つまり収入の低さに配慮してくれたのであろうと僕は思っていた。僕は心の中で、未映子に済まないと詫びる一方で、そのような見てくれの豪華さに価値を見出さない未映子の性格に、また惚れ直したような気分に浸るのであった。 *****  結婚式を翌月に控えた未映子は、一人で教会での打ち合わせを行った。大方の打ち合わせはほぼ完了し、あとはこまごました確認事項だけとなっていたため、未映子一人でも問題無いという判断だ。渓一は収穫作業の農繁期ということで、どうしても同席することが出来なかったのだ。  その帰り、教会の門を出たところで善治が姿を現した。未映子を待ち伏せしていたことは明白であった。  「遂にご結婚なさるんですか? いやぁそれはおめでとう御座います」  教会という一種独特な、ある意味神聖な場所に、邪悪の化身とでも言うべき善治の姿は、あまりにも似つかわしくない。未映子はウキウキした気持ちを飲み下して、突っかかるように聞いた。  「何のご用でしょうか?」  「こんな所では何ですから、ちょっとその辺の喫茶店までお付き合い願えないでしょうか?」  すでに刑事を引退した私人に任意同行を求める権利など無いが、この男とはいずれ決着を付けねばならない。そう。決着をつけるのは渓一ではなく、他でもない自分であると。そう感じていた未映子は大人しく後に続いた。  この男は、何故、こんなにもしつこく付きまとうのか? いったい何が目的なのか? 善治を睨みつけるとこで、そんな疑問の答えが見い出せるとでも言うかの様に、その不穏な心の底に潜む本性を見透かせるとでも言うかの様に、未映子は目の前に座る男を見据えた。  「式には、かつてお世話になった方々もお呼びになるんでしょうな?」  まるで雑談をするかのように、善治は話し始めた。そういった会話に、相手を油断させる効果が有るとでも信じているのだろうか?  「それが貴方と何の関係が?」  「有りません。ただ・・・」  「ただ?」  未映子は、狡猾で残虐なハイエナの目で心の隙間を射抜かれた様な居心地の悪さ感じた。この男は油断のならない詐欺師だ。決して信用してはいけない。決して気を緩めてはいけない。  「渓一君は貴方の過去をご存じなのでしょうかね? あっ、お姉さん、コーヒー二つ。コーヒーでよろしかったですか?」
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