【第三章】深田夏彦

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3  「あの時、私もあの電車に乗っていたの」  今まで語られなかった未映子の過去が、この言葉から語られ始めた。それは僕の知らない未映子の一面を育んだ、これまで光が当てられることの無かった歴史だ。これから彼女の口から何が語られるのか? 僕は得体のしれない恐怖におののきながらも、いつかこれを聞くことになることは覚悟していた。それが遂に今日、訪れようとしている。心の準備が出来ていたとは言えないが、これをズルズルと先送りにすることに、それ程の意味があるとは思えない。僕は覚悟を決める勇気が欲しくて、ゴクリと唾を飲み込んだ。  「あの日・・・ 大宮の親戚の家に行くつもりで、私とお母さんとお父さんの三人で、あの電車に乗っていたのよ」 *****  脱線事故の直後、未映子には何が起こったのか判らなかったし、当時の様子も、しつこく付きまとうモヤの様な物に遮られて、曖昧な記憶としてしか残っていない。ただ、手を繋いでいたはずの両親の姿は、何処にも見えなかったことだけははっきり覚えていた。辺り一面、瓦礫と呼ぶに相応しい雑多な物で覆われ、その中には人体の一部と思える肉片も混在していた。その混沌とした車内を泣き叫びながら彷徨い歩き、父と母を探したが、どちらも見つけ出すことは出来なかった。  その時、知らない男の腕が彼女の左脚を掴み、未映子はその場に倒れ込んだ。腹這いになった男は未映子を見上げながら何かを言おうとしていたが、その口からは空気が漏れる様な不気味な音がするだけだ。未映子は怖くなって、その手を振り解こうとしたが、男はどうしても手を放してはくれない。仕方なく未映子は叫び声を上げながら、残った右足で男の顔面を蹴った。何度も蹴った。男の鼻は折れ、鼻血が噴き出たが手は離してくれなかった。未映子は更にその顔を蹴った。泣きながら蹴った。蹴る度にザクザクと嫌な音がしたが、それでも蹴ることをやめなかった。何度も何度も、何度も何度も蹴った。切れた唇から折れた歯が糸を引きなが落ち、血の混じる唾液と鼻血が男の顔に張り付いた。気が付くと顔を潰された男は気を失ったのか、あるいは絶命したのか、ピクリとも動かなくなっていた。先週買って貰ったばかりの、未映子のピンクのスニーカーは、男の返り血を浴びて赤く染まっていた。そうして男の手から解放された未映子は、そこから這うように逃れたのだった。  更に両親を探す未映子であったが、どうしても見つからず諦めかけた頃、遂に見覚えのある手を発見する。瓦礫の隙間から覗くその腕は、いつも自分の頭を優しく撫でてくれた母の左腕であった。恥ずかしがり屋の未映子が母のスカートにしがみついた時、その暖かな手はいつも未映子の頭の上に添えられていたものだ。未映子はそれを思い切り引っ張った。  「お母さん! お母さん!」  どんなに引っ張り出そうとしても、母は瓦礫の隙間から出てきてはくれなかった。未映子は半狂乱とも思える悲痛な叫び声を上げながら、なおもその腕を引っ張った。  「お母さん! お母さん! 出てきて! お母さん!」  そして遂に、その腕が瓦礫の隙間から抜け始めた。そのことに勢いづいた未映子が全身の力をその腕に込めた瞬間、ズルリとした感触を残し、母の上腕だけが抜け落ちた。未映子は尻餅をついた。その切断面からは白い筋繊維が伸び、先ほどまで腕が納まっていた隙間へと糸を引く様に繋がっていた。  駆け付けたレスキュー隊員に発見された時、未映子は母の腕を抱きかかえたまま横になり、隅に小さく丸まって眠っていた。その腕が、未映子の頭を優しく撫でてくれることは二度と無い。  両親を失った未映子は、祖母であるセツの元に引き取られた。  周りは、未映子に妙に気を使い、腫れ物に触るかのような態度をとり続けた。事故前までは仲の良かった友達グループも未映子と距離をおき、それでいて必要以上に優しく接した。それはイジメとは明らかに異なったが、やっていることにはさほど変わる所は無かった。未映子が何を言っても、それに対する反対意見が述べられることは無く、全てが肯定される。以前は未映子のやることに茶々を入れたり難癖をつけたりしたようなガキ大将たちですら、彼女に近寄ることは無くなった。そのうち未映子は、喋ることをやめてしまった。だって、言う前から相手の反応が判っているのだから。きっと、昔の王様やお姫様って、周りが思うほど幸せではなくて、むしろ言い様の無い孤独と闘い続けていたのかもしれない。未映子はそんなことを感じていた。  そういった変化は生徒同士だけでなく、教師との間にも起こっていた。宿題を忘れても未映子を叱る教師はおらず、ただ「うん、そうか」と言うにとどめた。教師にしてみれば、厄介な生徒に深入りして、自分が厄介なことに巻き込まれるのを避けたいという意思が働いていたのだろう。自分の言葉が引き金となり、不安定な未映子の心のバランスが崩れて面倒なことになるのは御免だった。そこには既に、教師と生徒という昔ながらの師弟関係に基づく絆などは無く、職業としての教員と、たまたまその学区に居住していた学童という関係性しか存在しなかった。心を開ける「恩師」という存在や、そこに育まれる絆など、ただの幻想に過ぎなかった。  学校としても、トラブルを起こさず、早く卒業してくれればそれでいいという態度を崩さなかった。定期的に開かれる職員会議においても、あるいはPTA総会においても未映子のことが語られることは無く、誰もが見て見ぬ振りを貫き、少なくとも未映子にとっては不気味なほど平穏な月日が流れた。一度、我が子への悪影響を心配したある母親が、未映子を別な学校に転校させてはどうかという意見を述べたが、その件に関し積極的に発言することで何らかの責任を負わされることを恐れた他の父兄はだんまりを決め込んだ。意見交換が行われることも無く、全員から黙殺された形だ。その発言が記録された議事録は、当時の教育委員会の意向をくんだ校長の指示により廃棄処分され、誰もが口を閉ざすことで己の保身を図った。触らなければ祟らない。その姿勢は、堅牢な城壁の様に未映子を取り囲み、彼女が壁外に足を踏み出すことを拒み続けたのであった。  それは中学に進学しても同じであった。田舎では、小学校のメンツがそのまま中学校に上がることになるため、当然、生徒の親たちの顔ぶれも同じである。未映子と関りを持たない様にと釘を刺された同級生たちは、進学してもなお、未映子を遠巻きに見つめるだけであった。学校行事など、グループ活動をしなければならない時も、未映子が自ら積極的に参加することは無く、そんな時に未映子に声をかけるのは、決まって学級委員長などで、教師から、あるいは周りの生徒からその仕事を「押し付けられた」生徒であった。別な学区から同中学に進学してきた生徒たちも、入学当初は未映子という有名人に興味津々であったが、他の生徒たちから未映子と付き合う上での「注意点」が周知されると、あっという間に表立った興味は影を潜め、見て見ぬ振りをしながら、絶えず「見ている」という態度を修得した。これでは水槽で泳ぐ金魚と変わらないではないかという想いであったが、未映子は何も言わず、むしろ優雅に尾っぽを揺らして泳ぐ金魚を演じ、これ以上自分が傷つくのを避けたのであった。それは彼女なりの意地であったのかもしれない。口数が減っても、落ち込んだような、あるいは傷ついたような表情を顔に表すことは無く、むしろ平静を保って落ち着いているかの如く見える様に心がけた。その表情に、冷たさや無気力さが滲まない様に気を使い、むしろ薄っすらと笑みをたたえて。  それでも未映子は、学校を休むことが無かった。ただ、その心の中にあるのは闇でしかなかった。絶望や諦めといったゼロの感情だけでなく、怒り憎しみといったマイナスの感情も一緒くたになって、ドロドロと渦を巻いていた。そこから立ち上る腐臭は行き場を失い、未映子の中に充満し、濃くて粘性の高い気体となって彼女の心を蝕んでいった。その心の中に、脱線事故を引き起こした「何者か」に対する激しい憎悪が渦巻いていたことに気付いた者は、誰一人として居なかった。  中学の卒業アルバムでは、「将来の夢」の欄が白紙だったのは未映子だけであった。彼女がどんなことを書くかは判らないが、もしそこに、世の中や周りの人間にたいする恨みつらみなどを書かれては、アルバム自体が台無しになってしまう。学校としては、そうなった場合、それを書き直すように指導するのは避けたい。何故なら、その指導によって何らかの問題が発生するかもしれないからだ。そうなった場合、口うるさい未映子の祖母がやって来て、事を荒立てる可能性も有る。そういう事態にならないよう、言外にPTAから圧力を加えられていた学校側は、原稿提出日に未映子が休んだのをいいことに、原稿の受付を締め切ってしまった。未映子の欄だけが空白になったのは、避けることの出来ない不可抗力によってであり、その件に関して学校側には何の落ち度も責任も無いということだ。いざとなれば、担任一人が「うっかりしていた」という尻尾切りで対応することは、校長、教頭、及び学年主任の間で暗黙の了解として共有されていたし、そういった対応になることは担任教諭本人も自覚していた。従い、担任はただひたすら「何も起きませんように」と願うのみで、果たして彼女の希望通り、何も起こらず未映子は卒業を迎えた。  クラスの集合写真には、一人だけ視線を逸らし、それでいて微かに微笑む未映子が写っていた。 *****  「お母さんに、花名の顔を見せてあげたかったな」  その言葉が僕を再び、薄暗い深淵へと引きずり込んだ。彼女は、今まで封印してきた過去を僕に打ち明けてくれた。次は僕の番かもしれない。いやきっと、僕の番なのだろう。彼女にもまだ話していない、あの事実を告げなければならない。それはきっと、僕の罪に課せられた罰に違いないのだ。おそらくそれは「最低限」の罰なのだ。告白することで、僕の罪の1パーセントすらも赦されるわけではないが、それを隠したまま、未映子と向かい合い続けることなど出来なかった。
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