【第四章】梨本十蔵

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3  / 高田は、夏彦君は自殺ではなく、貴方が  / 殺害したのではと疑っていました。更に、  / 私もその犯行に関与した可能性が有ると  / 考えていたようです。そこで私は、こっ  / そりと高田の後を追い、彼の自宅を探し  / 当てました。そして高田が入浴している  / 隙に忍び込み、その命を絶とうとしたの  / です。  / でも信じて下さい。高田を殺したのは私  / ではありません。誰かが高田を殺害する  / 現場に居合わせてしまっただけなのです。  / それは私の知らない男でした。その男は、  / 私に見られていることに気づきませんで  / した。  / この件を公にするとしたら、少なくとも、  / 私が高田の自宅に居たことを認めねばな  / らず、高田と私達の関係が明るみに出る  / かもしれません。もしそうなったら、貴  / 方が再び手の届かない所に行ってしまい  / そうで怖かったのです。だからその目撃  / を警察に届けることはしませんでした。  / 安心して下さい。新聞によれば、この件  / は、既に事故死として処理されています。  / このことを黙っていた罪も、私と一緒に  / 葬られてしまうことでしょう。  /   / そもそも、高田が私に目を付けたのは、  / 私が高1の時に中絶手術を受けたことを  / 嗅ぎつけたからです。高田はその子の父  / 親が夏彦君で、それを知った貴方が彼に  / 殺意を抱いた、と推理していたのでした。  /   / 私の中絶に関して聞きたいですか? も  / し、この話を打ち明けたとしたら、貴方  / は私を嫌いになりますか? 汚らわしい  / 女と思うでしょうか? いいえ、貴方は  / 決して、そのようには思わないと私には  / 判っています。  /   / 私の妊娠が発覚したのは、夏彦君を殺し  / た年の秋です。その子の父親は、梨本十  / 蔵という刑事さんでした。  脱線事故によって両親を失った子供たちには、精神面でのサポートが必要と判断した政府は、児童カウンセラーの派遣を決定した。特に、その電車に同乗していた場合、両親の惨たらしい最期を目撃している可能が高いため、未映子の様なケースでは念入りな追跡サポートが実施されたのだ。  カウンセラーは、地元の関東医療福祉大学の児童心理を専門とするスタッフによって行われたが、その経過報告は地元警察が一括して収集にあたっていた。そこで梨本十蔵は、未映子のことを知ったのである。  十蔵は、未映子が立ち直った後も親身になってサポートしていた。それは警察業務の枠を超えた、ある意味ボランティア的な意味合いが強く、十蔵の関与はごく一部の人間が知るのみであった。未映子は十蔵のことを父親の様に、あるいは兄の様に慕っていた。事故によって受けた心の傷も癒えない間、学校でも上手くやっていくことが出来ず、祖母のセツから充分な愛情を注いでも貰えなかった未映子を支えていたのは、他でもない十蔵だったのだ。そうして二人の間には、血縁を超えた絆が結ばれていった。  その当時の十蔵は40台後半。未映子にしてみれば、正に父親の年齢であったが、彼女は十蔵を単なる父親代わりとは、どうしても思うことが出来なかった。それだけ、心の深い部分までも開け広げ、依存し、寄り添っていたのだ。彼女はその気持ちをどう解釈してよいのか判らなかった。十蔵の方も、未映子のそんな葛藤に気づいてはいたが、だからと言って突き放すことも出来ず、娘と割り切った対応も出来ずにいた。  ある日、十蔵が未映子宅を訪れた。その時は既に、たまに菓子折りなどを持っては未映子の家を訪問する仲になっていたのだ。十蔵が買って来た寿司折を囲んで、三人が食事を採っていた時のことだ。セツはいつになく上機嫌で、十蔵にしきりとビールを勧めた。十蔵も最初は断っていたが、徐々に酔いが回って来たのか、いつの間にか赤い顔をしていた。酒が進むにつれ、ビールが日本酒に変わり、気が付けば随分と酔ってしまった。  そんな食事も終わり、和気あいあいと歓談している時であった。酒が無くなってしまったことに気付いたセツは、止める十蔵の声も聞かず、近所の酒屋へと買い出しに飛び出して行ってしまった。卓袱台の上には、セツが漬け込んだお新香が、酒の当てとして並んでいた。途端に静かになった室内には、時折十蔵が食べるお新香の音がポリポリと響いた。未映子と二人きりになり、何となく気まずい思いに駆られた十蔵は、何とはなしに学校の話題を持ち出してしまった。未映子が学校で上手くいっていないのは十蔵も知っていた。だからこの手の話は、注意深く避けて来たのに。しかし、中学を卒業して高校に行けば、だいぶ様子も変わるかもしれない。酒で口が軽くなっていたことも手伝い、ついその話題を持ち出してしまったのだ。  「ミーちゃんももう直ぐ高校生だね。早いもんだねぇ」  十蔵の呑気な物言いを遮る様に未映子は言った。それまでのにこやかな会話とは、明らかに違う緊張感のこもった声だった。  「いやだ」  「えっ?」  十蔵は驚いて聞き返した。しかし未映子の目からは、これまで見たことも無い様な大粒の涙が溢れ落ちていた。それは未映子の履くジーンズ生地のミニスカートの上に、ポタポタと水玉模様を作り出した。  「いやだ、いやだ!」  尚も未映子は叫び続けた。  慌てた十蔵が、未映子の肩にそっと手を置く。  「どうしたんだい?」  「高校なんて行きたくないよ」  「そんなこと言わないで、きっと新しい友達も出来るよ」  「行きたくない! 高校になんか行きたくない!」  そう言って未映子は十蔵に抱き着いた。未映子の髪から立ち上るシャンプーのほのかな香りが、十蔵の鼻を突いた。  「先生だって友達だって、未映子のことなんか誰も好きじゃないんだよ」  「そんなこと・・・」  「ない」と言おうとしたが、それが嘘であることは十蔵自身が一番よく判っていた。加害者ではなく被害者に対しても、世間は好奇の目を向ける。いやむしろ、被害者だからこそ、そういった扱いを受けるのだ。ただし、その「好奇」とは、積極的に接触を求める行動は伴わず、黙って遠巻きに眺めるだけの傍観者。そのくせ善人を装って近づいて来る奴もいるが、そこには善意などは存在しない。有るのは興味本位の独善だけだ。その結果、被害者側が精神的に孤立し追い詰められて、誰も知る人の居ない土地に引っ越してしまったりするのを、刑事である十蔵は散々見て来た。それと同じ状況が、未映子の上にも起こっているのだ。大人であれば、そこを離れるという選択肢も有る。だが、この少女には逃げる所など無い。彼女に与えられた、学校という小さな世界で生きて行くしか、他に選択肢は無いのだ。  十蔵は恐る恐るその頭に手を添え、頬を押し付けた。柔らかな少女の髪がサラサラと揺れた。十蔵の前では、未映子の心は丸裸だった。自分を守るための虚勢などは無く、疑いも見栄も羞恥も無かった。そんな未映子の心を受け止めてくれる唯一の存在が十蔵であったのだ。未映子が生きることを諦めなかったのは、ここまで頑張って来られたのは、十蔵の存在が有ってこそであった。  未映子は十蔵に顔を近づけ、両手をその顔に添えた。十蔵が固まったように息をのむと、そっと口づけをした。唇を離して未映子は言った。  「十蔵さんはお父さんじゃないよ。お兄ちゃんでもないよ。私にとっては、もっともっと大切な人なんだよ」  そう言ってしだれかかると、十蔵は後ろに倒れ、その上に未映子が重なった。その年齢にしては発育が良く、とても中学生とは思えない肉感的な女が男を組み敷いていた。それにより、十蔵がまとっていた心の防御壁が崩れ落ちた。それは外からの攻撃に耐える為のものではなく、内からの暴発を抑制するために、十蔵自らが築き上げた自戒の鎧だった。もうすでに、そこには年齢差などは存在しなかった。刑事と事件の被害者でもなかった。男と女の成り行きだけが待っていた。  事が済んで我に返った十蔵は、自分の前で脚を大きく広げて横たわる未映子を見て、それが幻ではないかと我が目を疑った。いや、それが幻覚であって欲しいという、自己防衛の思考に心を支配されてしまったのだ。彼の脳の一部は、自分が行った蛮行の全てを記憶していながら、別の部分ではそれを取り繕う手段を模索していた。そして、それが許されざる犯罪行為であることを認識してしまうと、今度はその行為を正当化する道筋が無いか、無益な足掻きを始めた。  だが、それら全ては徒労であった。たくし上げられたTシャツから覗く柔らかな乳房。僅かばかりの恥毛の陰に控える若々しい性器。それに何よりも、未映子の身体から分泌された体液と若干の血液に濡れる、自分の勃起したペニス。それらを見た瞬間、十蔵は鈍器で後頭部を痛打されたような感覚を覚えた。酒に酔っていたから? そんな言い訳が通用しないことは、それこそ子供にだって判る。50に手が届こうかという男が、女子中学生と関係を持つことは、二人の間にどのような合意が存在していたにせよ犯罪行為である。そこには弁解の余地は無い。そんなことは判っていたはずなのに・・・。  その時の十蔵の心理は、犯罪者のそれと全く同じものであった。百戦錬磨の刑事である男が、「つい」と言うにはあまりにも重い無思慮な行動により、犯罪者と同じ感情に支配されていた。  とにかく、その場から逃げたい。十蔵の心を捕らえて放さなかったのは、そんな焦燥だった。後のことも何も考えられず、十蔵は逃げ去っていった。  未映子が下半身剥き出しのまま身体を起こし呆然としていると、背後に人の気配を感じた。振り向いた未映子の目には、大吟醸の一升瓶を抱えて立つセツが映った。いったい、いつからそこに居たのだろう。そんなことをボンヤリ考えた未映子であったが、セツは何も言わず台所へと消え、後片付けを始めた。未映子は三人で囲んでいた卓袱台の周りに散乱した下着をかき集め、十蔵にむしり取られたスカートと一緒に身に付けた。そして台所に向かって言った。  「お祖母ちゃん、手伝うよ」  そう言いながら、いや、ひょっとしたら脱がされたのではなく、自分で脱いだのだろうか、と思った。そんな気もした。 *****  セツがそれを聞いたのは、今年生まれたばかりの娘のおむつを取り換えている時であった。セツの両親はそれを聞きながら、地面にひれ伏して泣いていた。それがセツにはどうしても理解できなかった。学の無いセツにしても、それが終戦を意味するものであることは判っていた。これでやっと戦争が終わるというのに、何故、皆は嘆き悲しんでいるのか? 彼らは戦争を続けたがっているのか? むずがって泣く娘と両親の泣き叫ぶ姿が奇妙な対比となって、真夏の照り返しに揺らいでいるように見えたのが印象的であった。日光にほど近い田舎にも盛夏は訪れていた。昭和20年、セツが15歳の夏であった。  この娘の父親は南方戦線に行ったまま帰らなかった。その男とは、一度しか逢ったことが無い。14歳になったばかりの頃、親が勝手に決めた縁談で、相手の写真を見せられただけで、その人となりすらも知らずに結婚させられた。名前は渋川文義といった。戦前は帝国大学を出た学士様であったが開戦と同時に徴兵され、満州などに赴いていた。その後、中国南部の南京に派兵されていた文義が、旗色の悪くなり始めた南方に配属替えになる際、一度、この今市に戻って来たのだ。その時、初めてセツは自分の夫と対面した。  その夜、セツは文義に抱かれ、本当の夫婦の契りを交わしたが、三日後、再び戦地へと赴く文義を駅で見送ったのが最後となった。日の丸を振りかざして万歳三唱で送り出す親類縁者に向かって敬礼し、「それでは行ってまいります」という言葉を残し、文義は旅立った。その時、セツには目をくれることも無しに。その後、文義は南方の名前も知らない島の密林で勝算の無い突撃に身を投じ、そのまま土に還ってしまった。玉砕はゼロ戦だけに与えられた使命ではなかったのだ。帝国陸軍本部から「行方不明」となった旨の電報を受け取ったのは、その翌年のことだ。セツのお腹には新たな生命が宿っていた。  15歳のセツが洋子 ――つまり、未映子の母親―― を産んだ後、彼女は決して再婚しようとはしなかった。更に言えば、セツが男の肌と触れ合ったのは、洋子を授かったあの三日間きりであった。だたし、それほど文義のことを慕っていたわけではない。あの当時は「そういうものだ」という世の中の風潮に、ただ黙って従っていただけのことであった。都会ならいざ知らず、今市の様な田舎町であれば、母一人娘一人でもなんとかやっていけた、というのも大きかった。女手一つで洋子を育て上げた苦労は計り知れなかったが、結局セツは「それ以外」の人生を知らなかったし、知ろうともしなかった。人並みの幸せというものに憧れを抱くことも無く、それに向けた努力をすることも無く、ただ漫然と歳を重ねる。それがセツの歩んで来た人生の全てであった。  しかしながら、そういった生き方が彼女の性格に与えた影響は熾烈なものであった。セツは自分の人生を壊したものが戦争であることは自覚していたが、それは抗いようも無い時代のうねりである。それに飲み込まれたのはセツだけではなかったはずだが、自分だけは絶対的な被害者であり、その立場であれば、世の中のあらゆる物から搾取することが正当化されると考えていたし、誰もが自分たち親子を助けるべきであると信じていた。その当時は殆ど全ての国民が、無謀な戦争へと突き進んだ愚かな指導者たちの被害者であったことには考えが及ばない、自分の浅はかさに気付くことも無く。  日光から鬼怒川を抜けて会津へと至る国道121号線沿いに、湯西川温泉が有る。両脇を険しい山肌に挟まれた小さな宿場町だ。元々セツは、その湯西川出身であったため、近代農法の結晶として収穫される農作物に対する意識が低く、いわゆる農家の気持ちを推し量ることが出来なかった。セツの両親は、山を下りて農業で生計を立てるという人生の転機を経ていたのに対し、セツは山間の温泉場から里に下りて来た少女の頃のままで、芋やカボチャを貰うことに対し、何の羞恥も遠慮も感じてはいなかった。娘に満足な食べ物を与えることが出来ない時、セツはあちこちの農家を回って「施し」を受けたが、当然その態度には、施しを受ける側の慎ましさは無かった。そのせいで付近の住人からは、「がめつい」だの「意地汚い」などと罵られたが、セツは一向にかまう様子も見せなかった。「そう思いたきゃ、そう思わせておけばいい」それがセツの口癖だった。それ以外にセツが生きる道は無かったのかもしれない。そういった状況を変えようというあがきは、当の昔に放棄していた。  そんな母親に育てられても、娘の洋子は天真爛漫に育っていった。頭も良く器量も良く、洋子はいつも友達の輪の中心にいる様な娘だった。  そんな洋子が高校を卒業し、今市の電電公社に就職したのは、高度成長期の真っただ中。既に戦後は終わったと言われていたあの頃だ。いまだ「女に学歴は不要」などという偏った価値観が幅を利かせていた時代だし、当時の女性の最終学歴は中卒が当たり前だった。母親であるセツですら「女が学校なんかに行ってどうする?」とたしなめたが、洋子は周りの反対を押し切って進学したのだ。その後、普及著しい電話の交換手として働き始めた洋子は、高校を卒業したという聡明さと、持ち前の性格から直ぐに皆の人気者となっていった。しかし、そういった人間を快く思わない人間が居るのは、いつの時代でも変わらない。  洋子は、先輩女性社員から執拗なイジメを受けていた。それは、声に出して嫌味を言ったり、わざとぶつかってお茶をこぼしたり、足を引っかけて転ばせたりという幼稚なものから始まったが、次第に、仕事上で失敗するようにわざと仕向けたり、必要な情報を伝えなかったり、という陰湿なものへと移行していった。男性上司とホテルから出てきたところを見た、などと根も葉もない噂を流されたことも有った。それでも洋子は、その負けん気の強さからイジメに屈するような態度をとることは無かったが ――そういった態度が、なおさらイジメる側をエスカレートさせていった―― それはやはり表面上のことで、内心ではボロ布の様に叩きのめされていたのであった。何故、自分がイジメられるのか判らなかった。いや、理由なんかどうだっていい。知りたいのは、何故彼女たちはイジメたいのか、である。誰かをイジメることで、何を得ているのだろう? それはそんなに楽しいことなのか? そんなつまらないことよりも、もっと楽しいことが有るとは思わないのだろうか? 彼女らの意味不明な言動が、どうしても理解し難い洋子であった。そんなイジメは3年に及んで続けられ、洋子の内面も人知れず荒んでいった。  そして遂に事件が起こった。洋子をイジメていたグループのリーダー格の女が、書籍棚の上に乗せた書類を降ろそうと、キャスターの付いた回転椅子の上に登った時のことだ。同じイジメグループに所属する取り巻きの女たちが気を使って言った。  「房江さん、危ないから降りて! お腹に赤ちゃんが居るんでしょ。大事にしなきゃ」  「大丈夫、大丈夫。少しは運動した方がいいんだって。産科の先生が仰っていたから」  その姿を見た洋子は直ぐに、彼女が乗る椅子のキャスターに不具合があることを認めた。合計5個あるキャスターのうち1個が、今にも外れそうになっていたのだ。それは思わず口を突いて出そうになったが、洋子はその言葉を飲み込んだ。「いい気味だわ。少し痛い目に合えばいいのよ」洋子は視線を戻すと、何事にも気付かなかった様に仕事を続けた。そして、それは起こった。  椅子から転げ落ちた房江は、その場にうずくまった。腰を抑え、動けなくなっていた。その股間からは鮮血が流れ出て、彼女のスカートに不吉な染みを作りだした。誰もがその意味を理解した。  救急車が来るまでの間、イジメグループは大騒ぎだった。コップに水を持って来る者、額の汗を拭く者、房江の手を握って声をかける者。其々が彼女の為に一生懸命立ち回っていた。下手に声をかけようとした男性社員などは、余計なことをするなと言わんばかりに追い返された。それを遠巻きに見ていた洋子は、心の中で「ざまぁ見ろ」と呟いた。もしあそこで倒れているのが私だったら、アイツらは決して助けてくれなどしないはずだ。それどころか遠くから嘲笑うに違いない。そんな奴の為に、私がしてやることなど無いし、するつもりも無い。3年もの永きにわたって理不尽なイジメを繰り返して来た対価を払うがいい。「あら、ひょっとして流産しちゃったのかしら? お気の毒さま。せいぜい枕を濡らして泣くがいいわ」洋子は一人、ひっそりとほくそ笑んだ。  皆の予想通り、それは流産であった。そして悪いことに、それが原因で房江は二度と妊娠出来ない身体になってしまった。それは女性にとって、あまりにも残酷な宣告であったろう。その事故以降イジメをやめてしまったが、それがどういった心境の変化なのか、房江は誰にも語ることなく寂しく職場を去った。宇都宮署の刑事だという夫が迎えに来て、支えられる様に消えていったその後ろ姿は、同僚たちの脳裏に薄暗い影を焼き付けた。因果応報。同僚たちは心の奥底でその言葉を思い浮かべたが、それを口にする者は居なかった。それまで房江と一緒に、洋子に執拗なイジメを繰り返していた女たちも、それまでの自分たちの行動に対する贖罪を経ることも無く、何事も無かったかのように、いやむしろ必要以上に馴れ馴れしく洋子に接した。房江を失った今、今度は自分がイジメの標的にされることを恐れた ――全体的に見回してみれば、洋子の方が人望も有り「味方」が多いことに遅ればせながら気付いたわけだ―― 彼女たちなりの防衛本能の現れとも言えた。それはあたかも、十字架にかけられたキリストが全人類の罪を背負ったかの如く、房江一人の悲劇によって、全員の罪があがなわれた構図となっていた。  一方、数年後に結婚に伴う寿退社を迎えた洋子は、皆に祝福されて去っていった。今市を離れ、小山に新居を構えるのだと、幸せそうに語っていた。皆の心中に潜在する房江の一件が、かえって洋子を祝福する態度を後押しした。房江と共に洋子をイジメていた女たちだけでなく、それを見て見ぬ振りをし続けた者も、房江たちの行為をいさめる勇気を持たなかった者も、罪の意識の裏返しとして無意識に、あるいは罪滅ぼしという明確な意思を持って大袈裟に洋子を祝福した。この二人は対照的な存在として、同僚たちの記憶に留まることとなった。  それは、交差する一瞬だけ干渉の火花を散らせた2本の直線が、また別々の方向に向かって進み始めたというだけのことかもしれなかった。一旦、離れ始めた直線同士は、もう二度と交わることは無い。  高田房江26歳と渋川洋子23歳。今後、この二人の直線が干渉することは無いはずだった。少なくとも直接的には。 *****  その夜以来、十蔵と未映子の間には微妙な空気が流れるようになったが、表面上は元の関係に戻り、二人は父娘の関係を演じていた。ところが未映子が高校に進学した年の初夏、十蔵を奈落に突き落とす事実が発覚した。  「十蔵さん・・・ 私、生理が来ないみたいなの・・・」  未映子からの衝撃の告白であった。二人の間に横たわる微妙な、いや決定的な歪みに悩まされていた十蔵に加えられた、更なる追い打ちであった。未映子は妊娠していた。  十蔵は自身の軽率さを呪った。狂わんばかりの後悔に苛まれ、責任の重大さに圧し潰された。当時、仕事上の相棒であった高田善治にも、この不始末が知らされることは無かった。それは自身の保身を図ったからではなく、未映子が傷つくのを恐れたからだ。あんなに信頼し合っていたパートナーだったのに。数え切れないほどの死線を、ともに乗り越えてきた仲だったのに。自分の背中を預けられる、唯一の男だと信じて来たのに・・・
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