【第四章】梨本十蔵

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4  その時の十蔵と善治は、ある男を追っていた。栃木県北部の福島県に隣接する那須町で発生した女子児童の失踪事件に関連し、捜査線上に浮かびあがった西山三津夫が、宇都宮に潜伏しているとの情報を得、その内偵を進めていたのだ。西山は地元那須の高校を卒業後、いくつかの職を転々としたが、最後に勤めていた小さな板金工場を辞めて以降、その足取りを把握している者はいない。ただ、女子児童が姿を消した際の最後の目撃情報から、不審人物として挙がった男の人相が西山に似ているとされ、事件の重要参考人として捜査対象となっていた。その後、都市開発の波に乗り遅れ、廃墟と化しつつある雑居ビルの一角に、西山らしき男が出入りしているという目撃情報がもたらされ、二人は他数名の私服警官と共に張り込みを行っていた。  二台の車に分かれ、雑居ビルを監視していると、西山らしき男が現れた。米軍払い下げの様な、色褪せたカーキ色のジャケットとジーンズ。髪は伸び気味で、手入れされているような印象は与えない。手には近所のスーパーの袋をぶら下げて辺りを警戒する様子も無く、むしろご機嫌な様子でドアの外れたビルの入り口に入っていった。それは外装もされておらず、壁面はモルタルのザラザラした感触をそのまま残し、各フロアには窓ガラスすら嵌め込まれていない。建築途中で放置され、そのまま何年もの年月が過ぎ去っている四階建てのビルだ。  「間違い無いな」と十蔵は言った。  「あぁ、間違い無い。西山だ」と善治が受けた。  十蔵が無線機を取り上げ、もう一台の監視車両に連絡を取ると、そちらでも西山の姿を確認したと返ってきた。  「踏み込むか?」  善治の問いかけに、十蔵は黙って俯いた。  事前の打ち合わせ通り、若い私服警官を一人車に残し、十蔵と善治がビルへと向かった。もう一台の監視車両でも同様に一人を車に残し、あとの二人がビルの周囲を固めた。西山が逃亡を図った時のためのバックアップだ。  中に足を踏み入れると、その床はまだコンクリートの打ちっ放しのままで、エレベーターを設置する予定であったのか、床の一部には大きく四角い穴が口を開けていた。窓から入り込んだ雨水の浅い水溜りがあちこちに点在し、西山が歩いた時の物であろうと思われる濡れた足跡が、上階へと続いている。足音を立てないように十蔵が階段を上り、その後ろに善治が続いた。そして二階のフロアからゆっくりと顔を覗かせると、そこにはくたびれてバネの飛び出たソファが一脚置かれているだけで、人の姿は見えない。それを後ろの善治に合図で送ると、十蔵はスルリと二階に身を上げた。続いて善治も二階に降り立った。足跡は更に上階へと続いている。再び十蔵を先頭にし、二人の刑事は三階へとつながる階段に取りついた。  そっと三階フロア近くまで上ったところで、十蔵は何かの物音を聞いた。それはスーパーの袋をゴソゴソとする音に違いなかった。続いてスタスタという足音が聞こえた。その音は、相手が革靴などではなく、ゴム底のスニーカーを履いていることを表している。場合によっては厄介なことになるかもしれない。後ろを振り返ると、階段の数段下に控える善治が、全てを承知しているという目で頷いた。  ゆっくりと顔を出す十蔵。だがそれは、ゆっくり過ぎてもいけない。何故ならば、運悪く相手がこちらの動きに真っ先に気付いてしまった場合、あまりにもゆっくり過ぎると、こちらが相手を認識する前に攻撃されてしまうことが有るからだ。従ってこういった状況では、思い切ってサラリと顔を上げる必要が有る。それは慣れない者にとっては、非常に勇気の要る行動なのだ。百戦錬磨の十蔵はもちろん、サラリと顔を上げてみせた。  運良く、その物音を立てていた者には、十蔵の侵入を悟られることは無かった。代わりに、行方不明となっている女子児童と思しき少女と目が合った。少女は驚いたように目を丸くしたが、彼女が声を上げないよう十蔵は、人差し指を口に当て「シィーッ」と合図を送った。少女は微かに頷いた。その顔は捜査本部で配られた写真に映っていた、那須で消息を絶った少女と同一人物であった。  十蔵の見立てでは、そこに居るのは例の少女と、西山と思われる男の二名のみ。少女は、ベッドに用いられる厚さ20センチほどのマットの上に座り、シーツらしき物を体に巻き付けていた。怪我はしていないようだ。健康状態もそれほど悪くはなさそうであったが、少女の物と思われる衣服や下着が散乱していることから、少女が衣服を身に着けていないことが判る。  一方、男の方は、階段方向に背を向けたままコンクリートの床に座り込み、買い込んできた弁当を頬張っているようだ。その横には缶酎ハイが置かれており、タバコの吸い殻が詰まった空き缶が転がっている。その周りには、同様にスーパーの袋に詰められたゴミがいくつも散乱しており、ここ数日間はそういった食生活を続けてきたことが伺えた。そのゴミの山にはゴキブリなどが集り、決して衛生状態が良いとは言えない状況である。  しかし、十蔵が注意を払うべきは、そういった部分ではなかった。その男が凶器の類を持ち歩いていないかが重要だった。追い詰められた犯罪者は、突然、後先のことも考えず逃げだすことが有り、その際に凶器を手にしていると、それを振り回す可能性が高いからだ。また、もしそうなった場合、迂闊な行動は人質である女子児童に害をもたらす可能性もある。そこで十蔵は、より一層慎重に男を観察するのであった。しかし、いくら観察したところでジャケットの下まで見通せるわけではない。十蔵は男が凶器を所持しているかどうかの確証がないまま、行動に移った。その直前、後ろの善治に親指を立て、踏み込むことを伝えた。  三階フロアに躍り出た十蔵は、不意打ちの意味合いも込めて大声で牽制した。  「西山三津夫だなっ!?」  座り込んで弁当を食べていた男は、胡坐をかいた姿勢のまま動きを止めたが、これは好ましい状況ではなかった。小心者の犯罪者がこのような威嚇の声を掛けられた場合、ビックリして振り返り、直ぐさま後ずさりしたりするものなのだ。しかしこの男は、刑事の声を背中で受け止め、そしてジッと相手の出方を伺うような不敵な態度で応えたのだ。「コイツはかなり厄介な奴だ」それが相対した十蔵が感じた第一印象であった。  予想通り、男は両手を頭の横まで上げて、ゆっくりと振り返った。間違いなく西山である。その顔には驚愕や恐怖は全く見受けられず、むしろ自信に満ちたような不敵な笑みがこぼれていた。手に割り箸と缶酎ハイが握ったまま、ゆっくりと立ち上がった。十蔵はもう一度声を掛けた。しかし今度は、幾分落ち着いた様子で。それは、犯人を前に緊張しているかのような印象を相手に与えないためにも、捜査現場では非常に大切な戦術なのだ。刑事が場数を踏んでいるかどうかは、犯人にとって次にとるべき行動を決定する際の重要な判断基準なのだから。既に刑事と犯人との心理戦が始まっているのだ。  「西山三津夫だな? 未成年者誘拐の現行犯で逮捕する」  十蔵は数歩右に移動し、少女の方に近づいた。それは被害者の身の安全を確保することを最優先とする、警察の態度を表していた。それにより階段付近はガラ空きとなり、むしろ西山に逃亡する機会を与えているようなものだったが、階段下には善治が控えている。たとえ西山が駆け出して逃亡を図ったとしても、直ぐに善治が取り押さえることになるだろう。この場では、善治の存在が十蔵の持つ「隠し札」なのだ。上階の様子を伺っていた善治には、その十蔵の狙いが手に取るように判っていた。善治は手ぐすねを引いて、愚かな犯罪者が手中に落ちてくるのを待っていたのだ。また数歩、十蔵は少女ににじり寄った。その様子を見て、西山はニヤリと笑った。西山は警察よりも一枚上手だったのだ。  次の瞬間、西山は走り出した。しかしそれは階段に向かってではなく、むしろ階段に背を向けていた。  「まさか窓から飛び降りる気かっ? ここは三階だぞ!」  十蔵がそう思った次の瞬間、西山は床に開いたエレベーター用の穴に飛び込んだ。そのまま一階まで転落か? と思われたが、西山はその穴の縁から剥き出しになったまま伸びる鉄筋に手を掛け、鉄棒の要領でうまく二階のフロアに降り立った。  「床の穴から逃げたぞっ!」  十蔵の絶叫に善治が反応した。急いで階段を降りると、鉄棒の着地に失敗した西山が床に転がっている。善治が最後の数段をすっ飛ばして二階フロアに着いた頃には、立ち上がった西山が先ほどと同じ要領で一階に飛び降りようとしていた。  「西山ぁーっ! 止まれーっ!」  飛びかかろうとする善治の制止を振り切り、西山が再び鉄棒の妙技を披露した。善治の腕は寸でのところで西山に届かず、ヒラリと身を翻した犯人は二階フロアから消えた。善治がエレベーターの穴から顔を出すと、西山はまたしても着地に失敗して、一階の床に尻餅をついていた。缶チューハイのアルコールが足を引っ張っているのかもしれない。善治はそのままの態勢で絶叫した。  「容疑者逃亡っ! 第二班は備えよっ!」  その時、三階から何かが降ってきた。その何かは善治の目の前を通過し、一階に降り立った西山の上に落下した。それは十蔵であった。善治は再び絶叫した。  「バカ野郎ーーーっ!」  西山の見よう見真似で、エレベーター穴を使って三階から降りてきたのだ。いや、落ちてきたのだ。やったことも無い鉄棒技を使って、三、二、一階と降りられるわけなど無いに決まっている。十蔵は二階の穴の縁から飛び出た鉄筋を、一瞬だけ掴むことに成功したが、勢いの付いた体重をその手で保持することは出来なかった。案の定、その手は鉄筋を振り解かれ、身体は一階へと落ちて行った。しかしながら、その一瞬の悪足掻きによって幾分かは勢いが殺され、一階に落ち切った時に大怪我をすることを防いでくれたのだ。失敗した着地から復活し、今まさに逃亡せんとしていた西山の上に十蔵が雪崩掛かったのも、十蔵が重傷を免れた一因である。二人は絡み合いながらバタバタとその場に崩れ落ちた。あっけにとられた善治は直ぐに起き上がると、階段に向かって駆け出す。十蔵の様な無謀なダイビングなど出来るはずも無かった。  善治が一階に降り立った時、先に立ち上がっていたのは西山の方で、十蔵は腰に手を当てながらヨロヨロと立ち上がろうとしている最中であった。その時、キラリと光る物が善治の視線を捕らえた。西山が懐に隠し持っていたバタフライナイフを取り出した瞬間だった。  西山がナイフを構え、十蔵の背中にその刃を突き立てようとした瞬間、善治の腕がその手首を背中へ捩じ上げた。  「うがぁぁぁぁっ!」  西山が咆哮を上げた。そのまま倒れ込む西山の上に覆いかぶさった善治は、得意の柔道技で西山の動きを封じる。鉄棒はできないが、格闘技ならお得意だ。ギリギリと締め付けられた西山は観念したようにナイフを手放し、大人しくなった。十蔵が立ち上がった時、その勝負は既に決していた。  署へと連行される西山の胸ぐらを十蔵が掴んだ。いたいけな少女を誘拐監禁し、己の性欲の捌け口とした卑劣な犯行が許せなかった。少女が心に負った傷の大きさを考えると、西山の顔面を殴り倒したいという衝動が沸き上がるのを抑えることが出来なかった。あの子はこれから、どういった人生を送るのだろうか? この数日の出来事を、どうやって背負って行くのだろうか? 十蔵の身体は怒りに震えた。  西山の胸ぐらを掴んだまま、その顔をにらみつけると、西山はまたしても不敵な笑いを浮かべた。そして横を向き、善治に取り押さえられた際に切った口の中の血を吐き出すように地面に唾を飛ばし、そしてまた十蔵の顔を見て笑った。十蔵は右手の拳を握りしめた。  その時、左肩に置かれた武骨な手を感じた。善治の手であった。振り返ってその顔を見つめると、善治は黙って首を振った。十蔵はため息と共に、握りしめた拳を緩めて降ろした。  その横を、毛布にくるまれた少女が婦人警官に付き添荒れ、救急車で搬送されて行った。  署に戻る車中で十蔵が言った。  「お前は奴を許せるのか?」  善治は困った風に答えた。  「いや・・・ 許せるわけではないが・・・ でも西山にも同情すべき事情があるかもしれんぞ」  「おいおい、ちょっと待てよ。本気で言ってんのか? あいつらのいい訳なんか聞く必要は無いだろ? あんなゲス野郎の何処に同情の余地が有ると言うんだ?」  「だから、それを明らかにするのは法廷であって、俺たち刑事が決めることじゃない。そうだろ?」  「そりゃぁそうだが、俺はああいった性犯罪者を見ると虫唾が走るんだよ! あんな奴ら、とっとと全員死刑にしちまえばいい! 」  「刑事は容疑者を捕らえることが仕事ってことを忘れちゃいかん。決して、裁いちゃいけないんだ」  「・・・・・・」  自分が単純で熱しやすい熱血刑事だということは、自分でも良く判っている。それに対し善治は冷静で、時には冷徹と言えるほどの達観した視野を持っている。だからこそ自分たちは、長く相棒でいられたのかもしれない。自分の背中を預けられる唯一の男、高田善治。自分の相棒として、善治以外の人間は考えられなかったし、おそらくこれからもそうだろう。十蔵は心からそう思った。  「お前の方が座学の成績が良かったことを思い出したよ」  そんな風に言う十蔵に向かって、善治は笑いながらやり返した。  「お前が無鉄砲なのは知ってたが、まさか三階から降って来るとはな」  二人は笑った。  「落ちた時に打った腰が痛いから笑わせるな」 *****  しかし、そんな十蔵を救ったのは、他でもない未映子であった。未映子は十蔵の家庭が壊れてしまうことを危惧し、自ら中絶を申し出たのであった。  無論、手術費用は十蔵が出した。そして未映子は、足かせとなっているセツから離れ、十蔵への想いを断ち切り、全てを忘れる為に東京へと去って行った。その「全て」の中には、夏彦を殺したことも含まれていたが、十蔵は生涯その事実を知ることは無かった。  未映子が上京した後も、十蔵は積極的に未映子を支えたが、罪の意識が消えることは決して無かった。未映子が大学に進学する際も、その資金を工面した。それは罪滅ぼしだったのかもしれないが、JRとの法廷闘争に決着が付く前に、十蔵は心不全で若くして他界した。十蔵が52歳の誕生日を迎える前であった。  / でも私は、十蔵さんを恨んでなどいませ  / ん。私を支えてくれた彼には、感謝の気  / 持ちしか有りません。確かに、大人と未  / 成年という視点で判断すれは、非が有る  / のは十蔵さんの方だということになるの  / でしょう。でも私にはそんな気持ちは全  / く無かったのです。むしろ私のせいで、  / 十蔵さんが随分と辛い思いをしたり、ご  / 苦労なさったことを申し訳なく思ってい  / ます。  /   / 十蔵さんが大学の学費まで出してくれた  / のは、私を妊娠させた罪の意識からだと  / 思います。でもあれは、ある意味仕組ま  / れた罠だったのです。私と十蔵さんが関  / 係を結んでしまったあの夜、実は祖母が  / その一部始終を見ていたのです。そうで  / す、祖母は十蔵さんを酔わせた上で私と  / 二人きりにし、ああなる様に仕向けたの  / です。今にして思えば、祖母がそんな風  / に仕向けていたことは、過去に何度も有  / ったような気がします。  /   / 私は結局、そのことを十蔵さんに打ち明  / けることが出来ませんでした。それは二  / 人の関係が壊れてしまうのが怖かったか  / らなのです。愚かな女だと笑って下さい。  / でもあの当時、私が頼れる人は十蔵さん  / 以外に居なかったのです。  /   / 十蔵さんが罪の意識を抱いたままお亡く  / なりになってしまったことを、私は今で  / も悔やんでいます。
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