【第五章】梨本康介

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2  そんな折、十蔵が倒れた。脳梗塞であった。それは、康介が大学3回生の時であった。父とのわだかまりが消えたわけではなかったが、死の床に伏している父を見放すことなど出来はしない。康介は午後の授業をすっぽかし、新幹線に乗って故郷に戻って来た。康介の乗るタクシーが関東医療福祉大学の附属病院に着いたのは、十蔵が倒れた日の夕方であった。  ベッドに横たわる十蔵は意識も朦朧とした様子で、康介が駆け付けたことも、やっと認識できたような状態であった。口も回らないのか、はっきりとは聞き取れない「うわ言」を、時折漏らすのみであった。潮の満ち引きの様に、大きな波長で覚醒と昏睡を繰り返す十蔵は、その貴重な覚醒の際に、康介を枕元に呼んだ。そんな十蔵が康介の耳元に残した言葉は「未映子を(守ってくれ)」であった。後半は殆ど聞き取れなかったが、そう言ったに違いなかった。  その後、覚醒の時間は徐々に短くなってゆき、昏睡が十蔵の身体を支配し始めていった。覚醒と覚醒の間隔は次第に間延びし、そして遂に、終わらない昏睡が始まった。心肺はまだ機能していたが、それは時間の問題だった。それらも次第に弱々しいものへと移行し、いつしか動きを止めた。  51歳とは、あまりにも若過ぎる。病の無慈悲さを噛みしめ、康介は父の冥福を祈るのであった。それと同時に、とんでもない重荷を父から引き継いでしまった、いや引き継がされてしまったことを感じた。十蔵がこれまで密かに背負い続けた十字架を、これから先、自分が背負うことが出来るのだろうか? その途方も無さを漠然と感じ、暗澹たる気持ちになる康介であった。  納骨が完了した後、照子が思い出したように聞いた。声を掛けるのも躊躇われるくらい母が落ち込むのではないかと心配していた康介であったが、意外にもサバサバした母に救われたと言ってよい。その心中までは察し切れないが、少なくとも表面上はいつもの照子に戻っている。この分なら、直ぐにでも東京に戻れるかもしれない。そんな風に思っていた。  「ねぇ・・・ ミエコって誰?」  思わず口に含んだお茶を吹き出しそうになりながら、それでも康介は偽りの平静さで取り繕いながら答えた。実はあの時の会話が聞こえていたらしい。  「さぁね。死ぬ間際で、何か記憶が混乱してたんじゃないのかな」と答えるにとどめておくことにした。  こんなにも簡単に動揺してしまうようでは、刑事としては失格だな、という考えが浮かんだ。そう言えば、大学卒業後の進路として「刑事」を考えていることを十蔵に告げることができなかったことを思い出した。もちろん、照子にも話していない。  それでも照子は疑うような視線を康介に向けた。「あなた、何か知っているでしょう?」という声が聞こえてきそうな、疑惑に満ちた視線である。もう、自分が飲んでいるお茶が熱いのか冷たいのかも分からない。嫌な汗が背中を伝った。  「親父の浮気相手だったりして・・・」  無理に冗談ぽく言ってみても、なんだかシックリ来ない。それを聞いた照子は断言した。  「お父さんにそんな人が居るわけ無いでしょ」  「そりゃまぁ・・・ そうだね・・・」  いっそのこと浮気相手ってことになった方が、どれほど気が楽か。後から思えば、「東京にいる俺の彼女」ということにして、その娘に関して十蔵に色々相談していたのだという話をでっち上げれば、当面は危機を回避できたのに、と考えた康介であったが、それはそれで面倒な追及に遇う可能性も捨てきれない。康介が妙な心持になっていると、有難いことに照子の思考は過去に飛び、その中に「ミエコ」という人物がいないかを回想し始めた。  「あの人は確か、ミチコさんよねぇ・・・ んん~、誰だったかしら、ミエコさんって・・・」  康介は、そんな照子をそっとしておくことにした。きっと母は、夫を失った悲しみを紛らわせる為、「ミエコ」という名前に固執しているのだろうと、遅ればせながら気付いたからだ。  十蔵が他界したのは、丁度、未映子が大学の2回生に進級する前であった。時を同じくして、セツが気力を失い、金の無心に来ることは無くなっていた頃でもあった。今にして思えば、父と解り合う努力を惜しんだことが悔やまれた。二人の間に有った懸案事項は曖昧なものではなく、非常に明確であった。だったら後は話をするだけで、それはいとも容易く霧散したかもしれない。なのに、たったそれだけの手間を避けたが為に、それは決して形を変えることの無い鉱物へと変質してしまったようだ。十蔵が他界してしまった今となっては、その氷解は望めない。後は、康介が自分の力で突き崩していかない限り、それは親子の間を分かつ山の様に、その姿を誇らしげに誇示し続けるだろう。  「何が『未映子を守ってくれ』だ。勝手なこと言いやがって」  康介は何一つ納得などしていなかったが、父の遺言を違えることは、もっと納得のいかないことである。康介は十蔵の名で未映子に生活費を送り続けた。父の遺産を切り崩しながら送金を続けたのであった。  奇しくも同じ東京に上京している未映子を探し出し、康介は遠くから見守った。無論それも、父十蔵の願いだったからだ。しかし、最初は義憤にまみれた目でしか未映子を見ることが出来なかった康介も、次第に特別な感情が芽生えていたことは否定できなかった。人工中絶という非人道的な行為により、無残にもその命を絶たれてしまったが、自分の異母兄弟を生む筈だった女性である。いや、あれを非人道的などという一括りで考えて良いのだろうか? もし、あのまま産んでいたら、未映子の人生はどうなっていたのだ? 成人前の少女に、そんな重荷を背負わせることこそ非人道的と言えなくはないか? 誰がそれを強要できたであろう? 康介の怒りは次第にその姿を変え、いつしか愛しい人を見る様な気持ちを抱かずにはいられなかった。ただ、未映子の前に十蔵の息子として姿を見せる以上に残酷な仕打ちなど、この世には無いであろうことも判っていた。どんなに想っていても、十蔵の為にも、未映子の為にも、そして何も知らない母の為にも、康介はその姿を表舞台に現わすことは許されないのだ。  未映子の恋愛において酷い仕打ちをした男が居れば、その住処を探し出し、それなりの「お灸」を据えた。時には、犯罪ギリギリの行為も有った。元々柔道部で鍛えた屈強な身体である。康介に凄まれたひ弱な都会の男たちは、尻尾を巻いて逃げ出した。ただし、そのことに未映子が気付くことは無かった。楽しそうに笑ったり、失恋して泣いたりする未映子の姿をただ遠くから見守ること、康介に出来るのはそれだけだった。既にその頃には、康介には確証が有った。自分が未映子を見守っているのは、十蔵の遺言だからなどではない。康介にとって未映子は、愛おしくて切ない、何物にも代え難い存在であるということを。  大学院を卒業した康介は、地元には戻らず警視庁に入庁した。時を同じくして大学を卒業した未映子が、在京の企業に就職したからであった。それを機に、実は数年前に十蔵が他界していた旨を告げる事務的な手紙を送り、仕送りの終了を通達した。いつまでもズルズルと、金銭の授受を続けていては、お互いの為にならないだろうという康介の判断であったし、十蔵の健在を偽ることに罪悪感も有ったからだ。未映子にとってショックだったのは、無論、資金援助が打ち切られたことではなく、十蔵が何年も前に他界していたという事実であった。しかし、十蔵の家庭に波風を立てることに配慮したのか、彼女がその件に関して返信や墓参りなどの不用意な行動を起こすことは無かった。そして未映子がOLとなった後も、その一方通行の関係は続いた。  そんな折、祖母であるセツの容態が悪化したとの連絡を受け、未映子は会社を辞めた。その時の祖母の様子では、とても一人にしてはおけないと判断したからだ。その後を追うように、康介も栃木県警への転属願を提出し、受理された。理由は『母の介護』である。勿論、母はピンピンしていたが ――十蔵が死んで、かえって元気になったとまでは言わないが―― そんなこととはつゆ知らず、息子の帰郷を手放しで喜んだ。そして母は、息子の身を固めさせるために、お見合い写真などの収集を開始したわけだが、康介はいつもノラリクラリと、その話を断り続けた。康介の心には未映子が居たことは言うまでもない。そうやって康介は、地元に戻った後も彼女を見守り続けていたのだ。未映子が渓一と共に、幸せを築いてゆく過程を。決して報われることのない想いを胸に秘めたまま。  / 最後に。私が貴方と結婚までしたのは、  / 決して罪の意識や同情からではありませ  / ん。これだけは信じて下さい。私が、貴  / 方以上に愛した人は居ないということを。  / 二人で訪れた田沢湖、楽しかった。私は、  / あの時以上に幸せを感じたことは有りま  / せん。ボートの上で私が「貴方と一緒な  / ら遭難しても構わない」という様なこと  / を言ったことを覚えていますか? あれ  / は私の本心でした。何もかも捨てて貴方  / とどこか遠くへ行けたならと、どんなに  / 思ったことでしょう。私が夏彦君を殺し  / たりしていなかったならば、どんなに良  / かったことでしょう。  / でも、それらの全てのことが貴方へと続  / く過程だったと考え、受け入れることに  / します。  / ごめんなさい。そしてありがとう。  / 愛しています。  /   / 未映子  空になった哺乳瓶を取り上げると、花名は少しイヤイヤをした。そして、その上体を肩に乗せて背中をポンポン優しく叩くと、花名は大きな音でゲップをした。僕は「大っきいゲップして偉かったでちゅねー」と言いながら、花名をベビーベッドに寝かしつけた。この子の無垢な寝顔は未映子そっくりだと思った。
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