【終 章】2011年、夏

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【終 章】2011年、夏

 「もう3年かぁ」  「何がぁ?」  僕の誰に言うともない呟きに、花名が聞き返したのだ。僕が花名の手を引いて、夏の朝の散歩をしている時であった。  「何でもなーい」  そう言うと、花名は僕の口真似をして言った。  「何でもなーい」  二人はクスクスと笑った。 *****  あの後、未映子は近所の雑木林の中で見つかった。クヌギの枝にロープをかけて首を吊っていた。遺書は無かった。いや、正確には僕宛の手紙という形で残していたわけだが、当然ながらあれを公にすることは出来なかった。実の娘のように思っていた未映子の死を、父も母も受け止めきれないようであったが、その二人にすら未映子の手紙を見せることは出来ないであろう。おそらく花名にも。  未映子のお骨をセツと同じ墓に納めると、やっと一息つくことが出来た。身の回りのこと、特に花名のことを心配した真希絵が、今日もやって来てあれやこれやと世話を焼いてくれていたおかげで、僕は未映子を失った後も、実生活面ではそれほど困ることは無かった。  「ねぇ康介。もうこの家に住む理由は無いんだから、花名ちゃんと一緒に実家に戻って、私たちと暮らしなさいよ」  母はおそらく、この話題を持ち出すタイミングを計っていたのだろう。僕の様子を見て、意を決したようだ。  「うん・・・ そうだね・・・」僕は何となく言い淀んだ。  もうこの家に住む理由は無い? 確かにそうだ。花名のことを考えても、母が居てくれた方が断然良いに決まっている。同時に、僕の両親にしても、いつまでも若い訳ではないのだ。いつかは僕が二人の面倒を看る時が訪れる。であればこの家を売り払い、花名と実家に戻るのが当然だったし、合理的判断であるとも言えた。  その一方で、未映子とセツが暮らし続けたこの家を、そんなに簡単に切り捨ててしまうことに、ある種の罪悪感を感じずにはいられなかった。彼女たちの人生を雨風から守り続けた天井。彼女たちの笑いや喜びを見守り、包み込んできた壁。彼女たちの悲しみや涙が染み込んだ床。随分とくたびれているとは言え、それらは、もう住む理由が無いといって捨て去って良いものなのだろうか?  でも・・・と僕は思う。  もし未映子が僕の立場だったら・・・。  彼女はきっとこの家を捨て、花名の為に最良の選択をするであろう。過去よりももっと大切な未来を選択するはずである。過去を大切にするとか、過去から学ぶということと、過去に囚われたりすることは同義ではないのだから。  「そうだね。その方がいいよね」  真希絵の顔がパッと明るくなった。  「そうよ、それが良いわよ。花名ちゃんが大きくなるまで、一階の和室を使いなさい。ベビーベッドもあそこに置いて・・・」  その時、ドアのチャイムが鳴った。顔を見合わせる二人。そして真希絵が思い出したように立ち上がると、玄関へと小走りで駆けて行った。走る必要が有るほど、広い家ではないのだが。  「はーぃ!」  玄関で、何やら話し込む声が聞こえた。程なくして真希絵が一人の男を連れて戻ってきた。見たことの無い男だったが、どこかで会ったことが有る様な気もした。真希絵は彼女なりに気を利かせたのか、「それじゃ私はこれで」と言い残し出て行った。その帰り際、「引っ越しの件、こっちで話を進めとくから」と玄関から声を掛けた。僕は「うーん」と返事をした。  二人きりになったのを合図とするかのように、僕は姿勢を正して、ダイニングテーブルの向こうに座る男に正対した。男は姿勢良く、僕と母の会話が終わるのを待っていたのだ。  男は自分を梨本康介と名乗った。栃木県警宇都宮署の刑事だと言う。僕は少しウンザリした気分で言った。  「妻の件なら、もう何度もお話ししたはずですが・・・」  「申し訳ありません。既に別の担当刑事にお話になったかと思いますが、何点か確認させて頂きたいのです。本当に申し訳ありません」  その刑事が本当にすまなそうに応えるのを見て、僕は少し気持ちを落ち着けて言った。  「それで・・・ 何をお聞きになりたいのでしょう?」  梨本は僕の目をまともに見据えて切り出した。  「奥様が遺書などを残した可能性は有りませんか?」  「そのような物は無かったと、お答え致しました」  「その後に、何か見つかったとか?」  更に食い下がる梨本に、僕は言った。  「刑事さんもしつこいですね。何も無いと言ってるじゃないですか。それとも、何か無いとマズイことでも?」  意地悪な言い方になってしまったことを反省していると、少しトーンを落とした様子で梨本が言った。  「いえ、そういう訳ではありません。ただ・・・」  「ただ?」  「ただ、自ら命を絶つ方々は・・・ 失礼しました。他に言い方が無いものですから。そういう方々は大抵、何らかの形で遺志を残すものですから・・・」  「未映子が残したのは、娘の花名だけです」  僕は若干、断定的に言った。梨本が僕の目をジッと見つめていた。僕も梨本の目を見つめ返した。  「判りました。それではこの件は終わりということで」  その刑事が、何か言いたそうな素振りを見せた様に思えたが、それは僕の気のせいかもしれない。ただ彼の言った「終わり」という部分に、何らかの意思なり意図の様なものを感じただけなのだ。そもそも警察からは、育児ノイローゼによる発作的な自殺という線で、早々に幕引きしましょうという雰囲気が伝わって来たので、僕もその線に沿った証言をしたわけだ。彼女の死をほじくり返されるよりは、その方がよっぽどましだった。  考えてみれば、人は物事の断片しか知らない。何でも知っている様な気になっていても結局は、知っているのは知っていることだけである。最後の手紙で、未映子は僕の知らなかったことを色々打ち明けてくれたが、それが全てであると誰が断言できようか。未映子が、僕にすら知られたくない何かを抱えていた可能性は否定できないし、同様に彼女だって全てを知っていたわけではないはずだ。そう考えると、この梨本と名乗る刑事が、未映子に関して僕の知らない何かを知っていても何らおかしくはない。一人一人が持つ断片は複雑な形状をしていて、おそらく同じ形の物は存在しないのであろう。一見すると相容れない断片同士が、繋ぎ合わされた時に初めて、一枚の絵が出来上がるわけで、人がその全体像を知ることは無いのだ。その絵を俯瞰できるのは、きっと神様だけなのかもしれない。僕には、それを知ること、見ることに如何ほどの意味が有るのかも判らない。人は其々の小さなピースの中で、精一杯生きるしかないのだし、生きている僕と花名のピースは、これからも少しずつ形を変えて行くのだから。  「何かお困りのことが有ったら、いつでもご相談下さい」  僕は、その刑事が何故そんなことを言ったのかが判らなかったが、本心から僕たちのことを気遣ってくれているようだと感じ「有難うございます」とだけ応えておいた。  「最後に、奥様にご焼香させて頂いてもよろしいですか?」  「もちろんです」  奥の座敷に急ごしらえの仏壇が有った。梨本はまず、未映子の遺影を暫く眺め「奇麗な奥様ですね」と言った。その位牌に手を合わせる梨本の姿を見ながら僕は、もし、こんな風な出会いでなかったなら、この男とは酒を酌み交わす様な仲になれたような気がした。 *****  花名は既に年長さんで、元気に育っていた。時折、母親が居ないことを寂しがる素振りを見せたが、それでも真っ直ぐに育っていた。そんな境遇の花名を、保育士さんたちもほんの少しだけ特別に気を使ってくれているようで、僕は感謝してもし足りないと思っていた。そして僕の両親、つまり花名のじぃじ、ばぁばも、男手一つの育児に何かと世話を焼いてくれていた。花名はそんな大人たちの愛情を一身に受け、どんどんどんどん成長していった。僕は未映子との約束を守れている様な気がして、内心ホッとしていた。  花名が幼稚園で習った唄を口ずさみ始めた。  「カモメーの水平べん」  「『べん』って何だ『べん』って? 『さん』じゃないのかい?」  僕が問い質すと、花名が可愛らしい口を尖がらせた。  「いいのっ!」  どうしても『べん』らしい。僕は、繋いだ手を大きくブランブランさせながら一緒に歌うことにした。花名がキャッキャと笑った。  「カモメーの水平べん・・・」  その横を宇都宮線が大宮方面に向けて通り過ぎて行った。また夏がやって来た。
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