【第一章】川口未映子

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4  両親は、僕の変化を喜んでいた。昼間にブラブラ外出して、何をしているのかまでは知らなかったであろうが、少なくとも会話が成立するところまで持ち直していることは、二人にとって朗報であった。  そんなある日、僕たちは遂に夜のデートをすることになった。彼女が熱心に僕を誘い出してくれて、遂に僕がその熱意に折れた形だった。本当は、直ぐにOKするのが恥ずかしくて、ダラダラと意味も無く気が乗らない素振りをしていただけだったのだが。多分、聡明な彼女は、僕のその子供じみた無意味な行動に気付いていたことだろう。  僕は車など持っていないし、免許すら持っていない。約束の時間に、例の赤い軽自動車で僕を迎えに来た彼女は僕の家の玄関に立つと、母に丁寧な挨拶をした。その手に小さな菓子折りを携えて。  「初めまして。渋川未映子と申します」  「まぁ! いらっしゃいませ。渓一がいつもお世話になっているようで・・・」  「あっ、これ、つまらない物ですけど。お世話なんてとんでもないです。いつも私が渓一さんのこと、引っ張り回してるんです」  「あら、わざわざご丁寧に有難うございます。そうなの? この子ったら、全然そんな話しないから」  「そうなんです。私、渓一さんとは小中高と同じ学校だったんです」  「そうだったんですか」  僕にはこういった社会人としての礼節を学ぶ機会が無かったので、彼女の自然な、それでいて大人の対応を見て、今更ながら自分の不完全さを痛感していた。彼女は僕の知らない所で、立派に社会生活を営んでいるのだ。とは言え、こんな上っ面だけの会話ができるとしても、それがそんなに褒められたものでもないとは思った。  「もういいよ。行ってくるよ」  僕がしびれを切らして言うと、母は僕の方を見もせずに、彼女の方を向きながら言った。これも社会人の常識なのだろうか?  「それじゃ、息子をよろしくお願いしますね」  「はい、かしこまりました。暫く渓一さんをお借りします」  父はまだ会社から戻っていなかったが、母は半ば涙を浮かべながら僕を送り出してくれた。おそらく父にも、この我が家の一大事に関する情報がLINEを通じて伝えられているはずだ。多分、ほぼリアルタイムで。外出らしい外出は、おおよそ10年振りだろうか。僕はなんだかこそばゆく感じながら、ミラーに映る母の姿が小さくなるのを助手席から黙って見つめた。  そういったデートの様なものが幾度か繰り返された後のある日、例によって僕と彼女は食事に出かけた。助手席から見る未映子は、ステアリングを握りながら楽しそうに今日一日の出来事を、僕に語って聞かせた。まともな職にも就かずブラブラしている身ではお洒落なカフェレストランに行くことも出来ず、二人は町外れの小さな食堂などに入ることが多かった。それは彼女なりの気の使い方だったのかもしれない。そんなパッとしないデートであっても、文句も言わず楽しそうに過ごす未映子に僕は癒されていた。  僕はトンカツ定食を。彼女はエビフライ定食を食べていた。未映子の食事はゆっくりだ。僕が殆どを平らげる頃に、やっと半分が済むか済まないかという感じだ。それも、何だかんだとお喋りしながら食べるからなのだが、僕にはそんな彼女のペースが、一向に苦ではなかった。  僕が最後の味噌汁を片付けようとしていると、店内に備え付けられているテレビが言った。  「今日は8月11日です。皆さん、今日が何の日だか判りますかー?」  箸を持つ僕の手が止まった。  「そうです、あのJR宇都宮線脱線事故が起こった日なのです。18年前のあの日、いったい何が起こったのか、本日は皆さんと一緒に振り返ってみましょう」  その時の僕の顔は、今にして思えば蒼白であったろう。テレビのアナウンサーの能天気な声が、僕の心にガツンと痛烈な一撃を加えた。僕は、あの当時のことをまざまざと思い出していた。そしてそれがきっかけとなり、当時いつも一緒にいた大切な友人への想いが、僕の心をかき乱し始めた。 *****  JR宇都宮線、午前7時28分発、宇都宮発大宮行き。かつては田園地帯を抜ける閑散とした路線であったが、事故当時は既に、その様相をいっぱしの通勤路線と変貌させていた。都心方向へと向かう通勤客でごった返す6両編成の客車が、小山市付近で何らかの原因によりその車体を軌道上から逸脱させた。乗客1214名のうち、死者74名、重傷者は140名を超えた平成の大惨事である。時期が夏休み中ということもあって学生が乗っておらず、平時よりも乗車率が低かったことが幸いしたが、それでもこの死傷者数は日本の鉄道史上に残る大事故となった。これがいわゆる、JR宇都宮線脱線事故である。  近隣住民の自発的な救援行動により、何名かの貴重な命が救われていたが、警察、消防、救急が駆け付けた時に彼らが見たものは、スクラップと化して難解な芸術作品の様になってしまった車両と、命からがら這い出して来た、あるいは近隣住民によって救い出された生存者のボロ雑巾の様な姿であった。特に鉄道橋から脱線し、対岸の土手に突き刺さるかたちとなった前方車両は損傷が激しく、全長20mの車体が、2両目では12mに、1両目に至っては7mにまで圧縮されていた。車両の床はミニチュアのジェットコースターに様に湾曲を繰り返し、先頭車両に乗っていた乗客の殆どはひしゃげた車体に圧し潰されて、人としての原形をとどめている遺体は少なかったと言われている。  上空には新聞各社、テレビ局各社のヘリが飛び回り、現場中継する現地レポーターが、お決まりのセリフで事故現場の悲惨さを大声でわめき立てていた。その中継を受けるスタジオでは、番組の主導権を握っているのは自分であるということを誇示することに固執するアンカーウーマンが、さして重要でもない質問を現場に問いかけていたが、通信状態が悪いのか、あるいは自分の声が大き過ぎるのか、レポーターは彼女を無視して絶叫し続けていた。各テレビ局は通常の番組を中断し、その放送枠の殆どを特番に費やした。普段は何処に潜んでいるのかすら判らない鉄道評論家やら、鉄道おたくを自負する芸能人やらがここぞとばかりに登場し、意味も無い情報や感想を垂れ流した。次いで出てきたのは弁護士やら医者で、事後の補償問題や生存者の精神的ケアについてもっともらしい御託を並べた。  一方、海外でもこの事故は大きく取り上げられ、各国主要メディアは「技術大国日本の信頼が揺らぐ」とセンセーショナルに報じた。当時の内閣総理大臣は、そういった海外の懸念を払拭すべく、不要と思われる各国歴訪を敢行し、円をばら撒くことで火消しを図ったわけだが、果たして、海外の反応は冷徹を極めた。結局、日本が国策として推進を模索していた鉄道事業の海外進出、つまり諸外国への新幹線売り込み、及び技術支援という名の顧客囲い込み政策は変更を余儀なくされ、その進展は大きく足踏みをすることとなった。  国民に対する偽善に執心な首相は、通常は自然災害などに適用される緊急事態を宣言し、自衛隊の出動を決定。それは ――少なくとも首相本人にとっては―― 単に外遊での失態を挽回するための点数稼ぎに過ぎなかったが、それにより、混沌とした事故現場に統制が持ち込まれ、ようやく救援活動が軌道に乗り始めた。そして事故の全容が徐々に明らかとなってきた頃、人々はその厄災の規模の大きさに言葉を失っていった。  自衛隊派遣という英断(?)により、一時は一定の評価を得た内閣府ではあったが、丁度その頃、当時の国土交通省大臣が「脱線事故だが、救援活動は軌道に乗っている」などと不謹慎な発言をし、国民の反発を買う。その失言に乗じて野党は政府への攻勢を強め、大臣の更迭によって事態の収拾を図った政府だが、懸案となっていた消費税増税の法案審議に深刻な影響をもたらしていた。  当初、警察及びJRの事故調査委員会は、その発生原因の究明に追われたが、結局、決定打に欠ける報告のみに終始し、不満の残る進捗に国民の苛立ちは頂点に達していた。運転手も死亡し、脱線直前に何が有ったのか、それを知ることは誰にも叶わなかったのだ。この事故を機に各鉄道会社は、航空機の様ないわゆるブラックボックスの標準化を進め、「悲劇を糧に我々は前進する。それこそが、被害者並びにご遺族にとって最大の慰めとなるだろう」などと、自分勝手な理論で国民を失笑させていた。  遺族たちは総勢548名という大原告団を結成しJRを告訴。JR側は脱線原因の不明確さを理由に戦う姿勢を見せ、結局、その裁判が結審したのは西暦2000年、つまり13年後のことであった。JRが事故原因の究明に消極的だったのは、責任の所在を不明のままにしておきたかったからだと言われている。しかし、最終的に原告団の勝訴が確定し、JRへの賠償命令が下った。JRが支払った賠償金の総額は、当時の金額で200億円を超えたと言われる。とは言え、その金が遺族たちの懐に入る頃には、世間はこの事故に対する興味を失っており、世の中はサッカーワールドカップ日韓同時開催に浮かれたお祭り騒ぎに興じていた。当然ながら、マスメディアが取り扱う結審のニュースは限りなく小さく、そんな事故が有ったことさえ、国民の記憶からは消え去りつつあった。未曽有の大惨事は時の流れに飲み込まれ、再びその姿を水面に現すことすら無かったのだ。この国は既に元の姿を取り戻していた。 *****  その時、僕が彼女とどんな会話を交わしたのか、全く覚えていない。彼女は僕の顔を覗き込むように「大丈夫?」と聞いたが、僕はただ「大丈夫」としか答えられなかった。決して大丈夫などではなかったのだが。  「この近所で起こった大事故だもんね。渓一くんの心にも深い傷となって残っているのね?」  例の公園の脇に車を停めた未映子は、エンジンを切りながらそう言った。そうして真っすぐに僕を見つめたが、僕はその瞳を見つめ返すことが出来なかった。急に静かになった車内には、鈴虫やコオロギの声がウィンドウ越しに入り込んできた。彼女は運転席から僕の手を取り、「何か有るなら言って」と促した。僕は重い口を開いた。  「夏彦って奴、覚えてる?」  暫くの沈黙の後に僕が発した問いに、彼女は答えた。  「夏彦? あぁ、深田君でしょ? うん、覚えてるよ。渓一君と仲良かったよね・・・ あっ、あの子、自殺したんだっけ? 私たちが高校に上がったばかりの頃に」  そう言って彼女は、僕の言葉を待つように口をつぐんだ。僕は意を決して告白を始めた。  「僕は夏彦を助けることが出来なかったんだ」  そして僕は、ぽつりぽつりと少年時代のことを語りだした。 *****  夏彦と僕は幼馴染みだった。小学生の頃は、いつも一緒に遊んでいた。川で釣りをしたり、カブトムシを採りに自転車で遠出を繰り返した。  夏彦はリーダー格で、いつも僕を引っ張ってくれた。遊びの企画は彼の担当で、大人しい僕は彼のアイデアに乗っかっているだけだった。それでも楽しかった。裏の雑木林の中に秘密基地を作ろうと言い出したのも夏彦だし、近所のアパートの下駄箱から、全ての片方の靴を盗み出して川に浮かべようと言い出したのも彼だった。アパート住人の全ての靴の片方が滞りなく川面を流れ始めた時、僕は父に見つかってこっぴどく叱られた。当時僕は、その遊びを考え出した夏彦ではなく僕が叱られるのが、どうしても理解できなかったことを覚えている。  そんな二人の関係に変化が表れ始めたのは、二人が中学に進学した頃であった。それまで活発な性格だった夏彦が、なんとなく翳りを見せ始めたのだ。小学生の頃の元気はつらつとした性格が影を潜め、物思いにふける様な感じをまとい始めた。  僕の方は相変わらず大人しい性格のままだが、勉強はそこそこ出来たので、言ってみれば優等生として認識されていた。僕は心配になって、色々声をかけたりしたが、夏彦はどんどん内向的になって行き、遂には学校に来なくなってしまった。そのうち、家に行っても会ってくれなくなり、電話にも出なくなり、そして完全に連絡が途絶えるようになっていった。それでも僕は、暇を見付けては彼の家を訪れたが、夏彦が閉ざした心を再び開くことは無く、彼の両親も明らかに衰弱して行く様子が僕にも判った。二人は、唯一の友人として僕が夏彦を救えるかもしれないという期待を持っていたし、僕もその期待を肌で感じていたが、遂に彼は全ての人間をその心から締め出して、深い闇の中にその身を沈めてしまった。おそらく、自分自身すらも締め出してしまったのだろう。  その後、僕は地元から少し離れた高校に進学した。それはそこそこの偏差値を持つ進学校で、僕は近所の皆とはちょっと違う自分のステータスに有頂天になっていた。そう、僕は既に夏彦のことを思い出すことすら無くなっていたのだ。そんな僕に、横っ面を引っ叩かれるような知らせがもたらされたのは、高1の夏休みだった。夏彦が自殺した。僕たちの母校、光仙中学の屋上から飛び降りたのだ。夏休みで学生が居ない時期だったため彼の姿を見た者はおらず、またその遺体が中庭の植込みの隙間に有ったことから、彼が発見されたのは飛び降りてから一週間ほど経ってからのことであった。遺書は無く、引き籠りの生活に疲れて発作的に飛び降りたのであろうと言われていた。確か新聞にもそのようなことが書かれていたと記憶している。  僕は自分の愚かさを痛感した。夏彦がそこまで追い詰められているとは考えもしなかった、自分の思慮の浅さを罵った。もう少し、何かをして上げられなかったのか? 友達であれば、どうにか出来たのではないか? そんな夏彦の心の痛みを感じることも無く、有名進学校に受かって浮かれていた自分が情けなかった。きっと僕は夏彦を見捨てたのだ。彼を見捨てた自分に気付かない振りをしていただけだったんだ。 *****  彼女は悲しそうな表情で僕を見つめた。そして僕の頭に腕を回すと、それをそっと抱き寄せた。僕は子供の様に泣いた。後悔と自責の念に駆られ、夏彦に謝り続けた。  「ごめんよ・・・ 夏彦・・・ ごめんよ・・・」  涙を拭うことも忘れ、僕は彼女の腕の中で泣き続けた。彼女は優しく、僕の背中を撫でていた。彼女の目は遠くを見つめる様だった。  その時僕は、あの当時の重要な記憶が、まざまざと浮かび上がるのを感じていた。それは、風の凪いだ平和な海面を割って、突如その邪悪な姿を現す潜水艦の如く、僕の平穏を根底から覆す様な違和感を伴って、その存在を主張し始めた。公園で声をかけて来たあの男だ。奴が言った通り、確かに僕は奴に逢ったことが有る。夏彦が自殺した後、僕の家に訪ねて来たのだ。そうだ、間違い無い。奴は夏彦の案件を担当していた刑事だ。
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