【第二章】高田善治

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2  渓一との最初の接触 ――実際には過去にも接触しているのだが―― を持った後、自宅に戻った善治は、いつもの様に仏壇の前に座ると遺影に向かって首を垂れた。その横には、コンビニで買い込んだ弁当と麦茶が置かれていた。  善治とその妻、房江の間に子供は居なかった。善治は生まれも育ちも宇都宮という、いわゆる「宮っ子」だったが、房江は今市市(後に日光、足尾と統合し、日光市となる)の出身であった。結婚当初、二人は宇都宮の外れの小さなアパート ――善治の勤め先である宇都宮中央署への通勤の便が良い場所を選んだ―― に居を構えていたが、房江は結婚前の職場である、今市の電電公社(現NTT)で交換手として働き続けていた。新米警察官の安い給与だけでは、さほど余裕のある生活は望めなかったからだ。  その当時、まだ若かった二人の間に子供が出来たことは有ったのだが、房江が勤め先で足を滑らせて転倒したことが原因で流産し、以降、妊娠することが出来ない身体になってしまっていた。おそらく彼女にとっては、それは女であることを否定されるように辛い仕打ちであったろう。自分の身を引き裂かれるような苦痛を感じていたはずだ。にもかかわらず善治は、仕事にかまけて家庭を顧みなかった。慰めの言葉一つも、かけてやることは無かった。その当時は、それが普通ったのだ。家族、特に妻に優しい男など、社会的地位を失う可能性すら有った時代だ。それでも房江は不満の一つも漏らさず献身的に善治を支えた。そんな房江に感謝しつつも、それを言葉に表すことは戦中生まれの男には出来ないことであった。ただ不器用に「定年になったら伊豆の温泉にでも行こう」と言うのが精一杯の感謝の印であったが、その約束を果たせなかったことを、善治は今でも悔やんでいた。  房江の身体に病巣が発見されたのは、あと数年で定年という時だ。体調を崩した妻を病院に担ぎ込んだ時には、全身に転移した病が手の施しようも無い状態にまで進行していた。医者は「こうなる前に色々前兆が有った筈だ」と、妻の健康に無関心だった善治を責めた。房江がそれを隠していたことも有るが、善治は彼女の体調不良に全く気付いていなかったのだ。放ったらかしだったと言われても、自分には弁解の余地など存在しないことは認識していた。  「すみませんね、こんなことになって」  「謝ることなんて無い。お前のことを気遣ってやれずに俺は・・・」  「いいんですよ。貴方のせいじゃ・・・」  房江の消え入りそうな声に、これ以上喋らすことは出来ないと感じた善治は、それを断ち切る様に声を被せた。  「定年になったら伊豆の温泉に行こうって言ってたが、退院したらにしよう。約束だ」  もう喋ることすら億劫になっているのか、房江はニッコリと笑った。ただ、その約束が実行に移されることは無いことを、房江は感付いていた。それでも、二人で旅行をするという想像をしただけで、楽しい気分に浸ることが出来た。房江にとっては、それだけで十分だったのだ。善治との旅行など、新婚旅行で行った信州以来だったのだから。  その時、善治の回想を断ち切る様に電話が鳴った。かつての同僚であり、善治の元で刑事のイロハを学んだ梨本康介だ。  梨本康介は、旧友である梨本十蔵の息子だ。善治と十蔵は、共に捜査の修羅場を潜り抜けて来た戦友であり親友である。東京の大学で大学院にまで行った康介は、警察庁のエリートコースに乗ることも可能であったろうが、父親と同じ現場の刑事を志したのであろう ――少なくとも善治は、そう理解していた―― 警視庁に入庁した。十蔵が他界した後、ある意味、善治が父親代わりとなり、先輩刑事として相談に乗っていたりしたのだが、善治の与り知らない事情により栃木県警に異動となった康介は、善治の所属する宇都宮署に配属された。残り少ない刑事人生の二年余りを善治は、康介を最後の相棒として共に働きつつ、指導したのだった。  ことある度に善治は、異動を希望した理由を問い質したが、その度に「お袋の体調不良」という答えが返ってきた。だが善治は、彼のお袋さん、つまり旧友である十蔵の妻の調子が悪いなどとは一向に知らなかったし、ついこの間、街でバッタリ行き会った時など「あら善治さん! お久しぶり!」などと元気に声をかけられたくらいなのだ。きっと梨本の家にも、外からは窺い知れない事情が有るのだろうと、善治は考えることにした。子供の居ない善治にしてみれば、十蔵の息子を我が子の様に思うところが無かったわけでもないからだ。康介が所轄に転属して来たことを最も喜んでいたのは、実は善治だったのかもしれない。  「例の件、大体のところは掴めました」  「済まないね、面倒な仕事をさせてしまって。この件が片付いたら、十蔵の墓参りにでも行ってくるよ」  「有難うございます。親父も喜びますよ、きっと。それに善さんのお願いとあれば、いつだって歓迎ですよ。気にしないで下さい」  知り合いの息子さんが近々結婚する予定なのだが、そのお相手の女性に関する身辺調査を依頼された、という体で、康介に雑用をお願いしていたのだった。そのくせ、車のナンバーから素性を洗ってくれという頼み方自体、違和感を抱くには十分なはずだったが、素直な康介は ――それが刑事としての資質にマイナスにならねば良いが、と善治は常々思っていた―― 疑うこともせずに、二つ返事で引き受けてくれた。  「それで、早速だがどんな感じだい?」  「えぇ」  そう言って電話の向こうの康介は、手元の資料をめくりながら伝えた。パラパラと紙をめくる音が、受話器を通して聞こえていた。  「渋川未映子27歳。本籍は栃木県、小山市。両親ともに亡くなっています。本来は父方の姓、川口未映子でしたが、両親を失ってからは祖母であるセツの保護下に入り、以降は渋川姓を名乗っています。それを機に住居としていたマンションを引き払い、より家賃の安い今の住居に・・・」  それから未映子の身上に関する一通りの報告が続いた。  「東京に居た頃は、随分と『自由な恋愛』を愉しんでいたようですね」  この『自由な恋愛』という表現は、刑事仲間独特の言い回しである。もちろん、それが好意的な意味で使われることは無い。  「ほほぅ、見かけによらず乱れた女だということか。いわゆるアバズレというやつだな?」  「俺は、そこまでは言ってませんよ、善さん!」  康介は冗談っぽく言った。  「ただ、何人かの男性と付き合った形跡が確認された、と言ってるだけですからね」  「判った判った。アバズレってのは私の私見ということにしておくよ。ところで、彼女の両親の死因は判るかね?」  康介はこれまでの浮かれた会話を落ち着かせるかのように、チョッとの間をおいた。  「善さん。未映子の両親は事故で亡くなっています」  「事故? 二人同時にかい?」  「えぇ」  康介の報告を聞き終え、受話器を置く頃には、善治の目は既に刑事のそれに戻っていた。いまだ心の中で燻る刑事としての残り火が、これはビンゴかもしれないと主張している。モヤモヤした物が、なんとなく関連性を帯び始めている感触が、彼の心をせわしなく揺さ振った。現場でバリバリ仕事をしていた時の感触だ。もう少しで、何かの尻尾を掴めそうな予感がした。
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