【第二章】高田善治

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3  それから高田は、度々僕の前に現れるようになった。ふと視線を感じて辺りを見回すと、家の影や遠くに停めた車の中から、高田がジッとこちらを窺っていた。その様子は、決して隠れるつもりなど無いかのようだ。あえて姿を晒すことで相手に対してプレッシャーを与え、ボロを出すのを待つような嫌らしさに満ち溢れていた。  未映子のお陰で回復の兆しを見せていた僕であったが、高田のせいで症状は悪化し、再び安定性を失いつつあった。僕は自分のひ弱さを思い知った。なんて弱っちい男なのだろう? そんな僕をまともな世界に繋ぎ止めてくれていたのは、他でもない未映子であった。あの公園で、久し振りに再会した時に感じた感触、つまり彼女の存在によって自分が再生できそうだという直感が、やはり的を得ていたことを僕は実感した。  ただ未映子は、そんな高田の態度、いや存在そのものが許せないようであった。高田の話を持ち出すと、露骨に不快な顔をする未映子がいた。それを目にするたび僕は、いつも朗らかな彼女の違った一面を垣間見るのであった。  「お二人のデートの、お邪魔をしては申し訳ないのでね」  未映子の働く会社に、なんの悪びれた様子も無く善治が訪ねて来たのは、その不気味な姿を頻繁に表すようになってから、暫く経った頃だった。元刑事とは言え、既に引退した身である。ここで刑事と名乗ってしまっては、身分詐称となってしまう。そこで善治は、その単語を巧みに封印し、それでいて刑事らしさを匂わせることで、会社の世間知らずな受付嬢をまんまと騙したのだ。受付嬢は慌てて、善治を応接室へと案内してしまった。善治にしてみれば、彼女が勝手に勘違いしたということだろう。  また、刑事(の様な人物)が訪ねて来たことで、今後の未映子が会社内で好奇の目に晒されるのは自明である。現役時代の善治であれば最低限、そのような事態にならないように配慮をしたものだったが、引退した今となってはむしろ、そういった心配りを自分の中から追い出していた。既に善治は、元刑事としてのプロ意識もプライドも持ち合わせていなかったのだ。  「どうして彼に付きまとうのですか? 目的は何ですか? 貴方は何者ですかっ!?」  矢継ぎ早に質問を浴びせかける未映子に、善治は思わず苦笑いした。「なるほど、この女はこういうタイプか」と心の中で相手をカテゴライズした善治は、刑事時代に培った感と経験から、未映子に相対する方針を固めた。こちらからは何の情報も与えていないと思っていても、熟練した刑事が相手の場合は、あらゆることが情報として処理されてしまうのだ。  善治は、あえてのらりくらり感を漂わせた。  「私は既に引退した『元刑事』です。これは老後の暇潰しとでも思って頂いて結構です」  未映子はカッとなった。  「貴方の暇潰しのせいで彼は、再び苦しみ始めているのが判らないんですか!」  やはり喰い付いてきた。「そうさ。お前はそうせざるを得ないんだよ」と、善治は自分の読みの的確さに悦に入った。  「それは申し訳なく思っています。ただ、一つだけ気になることが有りましてね」と、まるで申し訳なさそうではない態度を隠そうともせず、善治は言った。  「気になること?」  「えぇ、夏彦君の件なんですよ」  未映子はゴクリと唾を飲んだ。  「あの当時から、この疑問が頭を離れないんですわ」  未映子のその様子を見落とすほど、善治はもうろくしているわけではなかったが、もちろんそれに気付いた素振りは見せず話を続けた。分かり易いほどの動揺を見せた未映子を、もう少し突いてみよう。押したり引いたり、それが肝要だ。  「あの件の聞き込みをしている最中にカミサンが入院しましてね。その後のゴタゴタで私は担当を外れたてしまったんですが・・・」  遠くを見る様に視線を上げた善治であったが、未映子はその姿をわざとらしいと感じていた。確かにそれは、安っぽい三門芝居の様であった。  「それで引退したのをいいことに、もう一度あの事件を洗い直してみようと思いまして」  「あれは自殺ですよね。事件なんかじゃありませんよね」  その発言は、あれを自殺として処理して欲しいという願望を言葉にしてしまった、と判断されることに気付いていない未映子であった。善治はその発言を無視した。  「10円玉ですわ」  「10円玉?」  話の突飛な展開に目を丸くした未映子であったが、その疑り深い眼差しは変わることが無かった。  「えぇ、飛び降りた夏彦君が10円玉を握りしめていたんですよ。ちょうどこんな感じで」  そういって善治は、当時の夏彦の腕の具合をマネして見せた。それがあまりにも生々しく、未映子は目を背けた。  「その10円玉がなんとも奇妙でしてね。潰れて妙な具合に変形してて、大きさも通常の10円玉よりも若干大きくなっていたんです・・・ どうして夏彦君はそんな物を握りしめて飛び降りたんでしょうかね?」  「そんなことは判りません。ただ明確なのは、貴方が渓一の心を掻き乱していることです。そのせいで彼は、また以前の様な苦しみを味わっているんですよ。渓一は自分が夏彦君を救えたかもしれないのに、と長い間、自分自身を責め続けて来たんです。いったい貴方は、何の権利が有って彼を苦しめているんですか!」  「これはこれは手厳しい。勿論、私に権利などは有りません。ただ当時、仲の良かった渓一君なら、ひょっとして何かを知っているのではないかと思いましてね。つい思い余って彼のところを訪ねて来たという次第なんです」  そう言いながらも善治の目は、油断無く相手の心を見透かそうとするかのように怪しく光った。こいつは本当に元刑事なのだろうか? その様子はまるで凶暴性を内に秘めた、凶悪な犯罪者の様ではないか。未映子にはそう感じられて、背筋に冷たい物が走る思いであった。  「私の経験から言うと・・・」  善治はこれから喋る言葉に特別な意味を持たせようとするかのように、わざとらしく間をおいてから続けた。  「身辺を嗅ぎまわれるのを嫌がる人は、何かを隠していることが多いんですよ」  未映子は善治を睨みつけたが、彼は全く悪びれる様子も見せなかった。  「あくまでも私の刑事としての経験則ですがね。いや元刑事ですな」  そう言って不敵に笑う善治を尻目に、未映子は席を立った。  「失礼致します。私にはまだ仕事が残っているものですから」  相手の反応を待たず、未映子は応接室を後にした。ツカツカとドアに歩み寄り、その怒りをぶつける様に開けて退室し、後ろを振り返ることも無くバタンと閉めた。善治は無表情で未映子を見送った。その後姿を美しいと思った。若い頃の妻、房江と似ているとも思った。総務課の女性が持ってきた二人分のインスタントコーヒーには全く手が付けられておらず、既に冷め切っていた。善治はそれを手に取ったが、やっぱり飲むのをやめて、そのままソーサーに戻した。そうして彼の心は、再び過去を彷徨い始めた。 *****  最初に房江が入院したのは、丁度、夏彦の自殺に関連し、善治が周辺の聞き込みを行っている頃であった。その中の一人に、当時高校1年生だった渓一がいた。渓一の聞き取りを終え、小宮山宅を後にした時に携帯電話が鳴ったのだ。病院からであった。房江が意識不明となっていることを告げられた善治は、同行していた梨本十蔵に後を頼むと、すぐさま病院へと駆け付けた。  病室へと駆け込んだ善治を迎えたのは、ベッドで体を起こして座っている房江であった。  「大丈夫か? 寝てなくていいのか?」  エレベーターが来るのを待ちきれず、非常階段を駆け上って来たせいだ。善治は肩で息をして、その額には薄っすらと汗が滲み出て、薄くなり始めた頭にも汗が光っていた。その様子を見た房江は笑いながら言った。  「どうしたんですか、そんなに慌てて」  「どうしたもこうしたも無い。意識不明だって聞いたからすっ飛んで来たんだ」  「あらあら、そんな大そうな。この通りピンピンしてますよ。それよりお仕事の方は良かったんですか?」  「家族の一大事に仕事なんかしてられるかっ!」  そう言ったものの、これまでの自分を振り返ってみれば、家族よりも仕事を優先していたことは否めない。自分の言葉に自分自身が責められているのを感じて、善治は咳払いで胡麻化した。善治が49歳、房江が51歳の時であった。  あの日以来、房江は元気に過ごしていたと、少なくとも善治はそう思っていた。それは夫に心配をかけまいとする妻の心遣いであったことを、今更ながら知らされた。そんな房江の病が再び彼女を襲ったのは昨年のこと。最初の入院から7年後のことであった。こんなにも長い年月の末に、再びあの病がその鎌首をもたげるなどと思ってもいなかった。  「そうだ、駅前で貰った伊豆のパンフレットが有った」  そう言って善治は鞄から、いくつかの小冊子を取り出した。房江の枕元に丸椅子を引きずって来てそれに座り、ベッドの端にそれらを並べた。  『富士急で行く、熱海・箱根、3泊4日の旅』  『海の幸を満喫。いざ西伊豆へ』  『華やぎ満開! 伊豆の旅』  そこには、海、山、名勝、食事などの写真と共に、赤や黄色など、鮮やかな配色で楽し気な文字が躍っていた。バスタオルを胸で巻いた女性がお湯に浸かり、紅葉が進む山腹をにこやかに眺めている。どこぞの橋から行うバンジージャンプなど、年寄りには用の無いアクティビティも満載であった。  それらの冊子の中から一部を抜き取り、善治は房江に説明した。  「これなんかどうだ? 海までは少し距離が有るが、駅から近いし移動は楽だぞ。温泉もかけ流しでなかなかいい」  房江はニッコリとほほ笑むだけで、何も言わなかった。病床に伏すようになってからの彼女は、何かしら諦めてしまったような、あるいは肩の荷を降ろすことを待ちわびるような、そんな様子を纏い始めていた。それは善治にとっては理解できない変化であったし、また、それまでの自分の行いを償う機会が拒絶されるような寂しさを伴った。その様子を見た善治は、沈黙を埋めるかのように言葉を続けた。言葉が途切れることで、何かが終わってしまうとでも信じているかのように。  「じゃぁ、これはどうだ? 康介に調べさせたところ、ここは食事が旨いってことで有名らしい。アイツは刑事としてはまだまだだが、この手の調査に関しては一流だからな。パソコンだかスマホだかで、あっという間に調べちまうんだ。チョッとお高いが心配はするな。それ位の蓄えは有るだろう」  そこでやっと房江が声を出した。  「どれも素敵で決められないわ」  「そうか。じゃぁ俺が適当に決めちゃっていいか?」  房江は笑みを浮かべて頷くと、囁くような声でこう言った。何だか少し眠たそうだった。  「あなた・・・ 何か冷たい物が飲みたいわ」  善治はほんの少しの間ポカンとしたが、直ぐに気を取り直した。  「判った、じゃぁ、売店で何か買ってくる。ちょっと待ってろ」  そう言って善治は病室を飛び出していった。  病室に戻ると、ベッドの上で体を起こしている房江の姿が目に入った。「おいおい、大丈夫か?」と善治が近付くと、房江は深くうなだれる様に目を閉じていた。その膝の上には、善治が持ち込んだ伊豆旅行のパンフレットが開かれていた。その、片腕で包み込めてしまえそうな小さな肩を見下ろした時、善治は「こんなにも小さかっただろうか」と思わずにはいられなかった。そう、房江は善治が守ってやらねばならない程小さく、か弱い存在だったはずだ。それは二人が知り合った当初から変わってはいない。いつだってそうだったのだ。知っていたはずなのに、忘れている振りをした。忘れていることを思い出さない様に、目を背けていた。  部屋の空気は凛として凍り付いていた。房江が放つ静寂が部屋を満たし、あらゆるものが動きを止めていた。写真として切り取られた一瞬の如く、そこでは時間の流れすらも停止している様に感じた。善治は直ぐに理解した。彼女が既に息絶えていることを。  その時、善治の中で何かが弾けた。いや、壊れたと言うべきか。何かがガラガラと崩れ落ちた。それは善治が長年にわたって築き上げてきた、沈着冷静とか泰然自若と言われた人間性が瓦解する音であったかもしれない。この怒りとも恨みとも言えぬ気持ちをどうすればいいのか判らなかった。自分には、それらをぶつける対象が必要だ。何だって構わない。憎悪を向ける何かを与えてくれ。この時の善治の目は凶悪犯のそれと変わらなかった。自分が何かに憑りつかれていることを認識出来なくなっていた。これまでに感じたことのない『何か』が彼を動かし始めた瞬間であった。 *****  会社の休憩時間を告げるチャイムが、善治を現実に引き戻した。善治は「未映子を叩けば、何か出る」と結論付けた。ターゲットはあくまでも小宮山渓一だが、先ずはこの淫売女から血祭りに上げてやる。可愛い顔をしてしらを切ってはいるが、渋川未映子はあの事件に関し、裏で渓一と繋がっていたに違いない。そう、あれは自殺なんかじゃない。あれは事件なのだ。必ずその化けの皮を剥いでやる。善治は心の中でそう呟いた。  例の受付嬢に片手を挙げて、横柄な態度で未映子の会社を後にした善治は、既に次の手を模索し始めていた。
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